士島 . 。一よ 0 よ の し き はか せ 小学館 戔」・悪党の活躍・雪舟 ( 室代 ) ・信玄と謙信 ( 時代 ) てんしようしようねんしせつ安上 おだのぶなが戦国時代、 』 = 〔、安上挑山時代 ) 《、「 0 0 「江戸時、 とくがわよしむね の坂本龍馬 ( 江戸時代末期 ) の西郷隆盛 ( 褓讐 ) の福沢諭吉 ( のうみんいっき う、学 をよく ~ 讃むし の 物読楽 ジュニア日本の歴史 小学館版 / 全 6 巻 - 日本の史ー ー本の一 日本の歴史第 ( 族のみえ 日本の史 , 式の実力 目本のを史 4 戦 - 国の・ドい 目本の当 , 八豕と町人 、日ま 4 史。近代の日・个 「ン ⑩幕末の風雲江戸時代末期 ⑩近代国家の発展明治時代後期 、日本史て 諺人物事血 ′活躍した人々 、日本史の舞台を 。一②史跡・史料館事血一 たずねてみよう
しゅぎよっ しゅげんみつ , さっ * 修験・ : 密教の一つで、山にこもってきびしい修行をすること。 あ三えき と山え、 * 芭ば れ黒。験 ま山なの行ら す、ん山 : の ヵ , と旅ま ′ - ゝゞ、ゝ月 : しは 、んてま と名こま 殿 : なだ ん出てつ を羽ゎづ やま 、 -27 ちょうにんせいかっ 町人の生活が ゆたかになって その俳諧が さかんになって くるのは、徳川の時代 になり、天下が平和ー なってからじゃ。 てんか じだい ( 125 )
そ、フそ , つ、 京では 伊達くらべ 、いまして、 畆の人が きれいな着物を きそ「ています。に→ ) きもの 幕府は きんし 禁止して いるのに・ あんまり やり す・ぎるし J 、 おとかめか ありますよ。 かっ . / 西鶴らの活やくしたこ おおさか 時代に、大坂・京や江戸な ちゅうしん どを中にして花ひらいた げんろくぶんか ちょうにんぶんか 町人の文化を「元禄文化」と よんでいます。 さいカく じだい 打イ ( 119 )
- ■・ 0 ■■■第■■ ■■ ■■■ う ) ク まつおばしよう ・松尾芭蕉 ( 一六四四 5 一六九四 ) 伊お野 ( 一一一亜お ) に生まれまし はいじん ぞうし た。色蕉というのは、俳人としての名前 草子とよばれる月説の作者としてです。 ねん こうしよくいちだいおとこ その一保が「好色一代男」 ( 一六八二年 ) です。 で、たい ~ ん評となりました。この作色蕉は、わかいとき、野の城代であ この時代の文化人を ひん ひしかわもろのぶ った藤堂家の若さまにつかえました。そ 品は、江戸で、菱川師宣かさし絵をかい 教えてください。 わか かんと - フじよう の若さまが俳諧を学んでいたことから、 た絵本になりました。 ここでは、この巻に登場した かね じんぶっちゅうしん ~ 巴蕉もその教えをうけ、親しむようにな その後、町んのお金の世をえがいた 人物を中心に、何人かをしよう せけんむねざんよう りました。 「印本永代蔵」や「世間胸算用」など、多く かいしていくことにしましよ、フ。 さいカく しさっせつはっぴょう しかし、 ~ 巴蕉がはんとうに俳諧の道を の小説を発表しました。西鶴はこうした は・らさいカ′、 わか さくひんなか 0 井原西鶴 ( 一六四二 5 一六九三 ) こころざすよ、つになったのは、若さまが 作品の中で、こつけいの精神と、するど ちょうにん おおさかゆうふく い硼がとで、その時代の人びとの生なくなり、その果、藤堂家をはなれるよ 大坂の裕福な町人の子として生まれま ほんみようひらやまとうご うになったときからです。色蕉は、武家 した。本名は平山藤五です。歳のころをいきいきとえがいています。 ーしわーかい から俳諧をこころざしました。その後、 蔵社会をはなれ、俳諧の自由な世界に身を しんしんよ、 敬おこうとしたのです 新進の俳諧師として活やくし、一六八四 のち ねん まん いっちゅうや ねんおおさかすみよしじんじゃ 一六七二年、色蕉は江戸へくだり、後 年、大坂の住吉神社で、一昼夜に 2 万 3 しさっふうはい に蕉風俳諧といわれる親しい作諧をつく 千繝もの句をよんだことは有名です。 こんにち 西るようになりました。そのころの俳諧は、 しかし、西鶴の名が今日まで有名なの うきょ 、井こつけいや、きばっさを持ち前とする作 ま、非皆師としてよりも、おもに、浮世 ぜん さ、カく かっ ぶんかじん このの なんでも・ 3 ゅうめい かん そうだんしつ : つほんえいた、 し 0 せっさくしゃ せいしん わか あ・ら せかい みち さく ( 140 )
おおさかしりつはくぶつかん 大阪市立博物館にある ふくげん ちょうば りようがえしよう 両替商の帳場の復元 おおさかふおおさかしひドしく ( 大阪府大阪市東区 ) げ も店大一 の先 : 坂ヵ でをのに す再 3 両あ 現替 : = る し商の たのは 大坂や京では はってん しようイエ・フ 商業の発展とともに、 ちょうにんちゅうしん 町人を中心とした デんろくぶんか 元禄文化が 花ひらいたんだよ。 おおさか は X XX 文 なか ※この中には、ふつう入ることが できません。 ( 104 )
を = ィー い、・リツィノ ャル 4 、、イ第 / 数日後ーーー すうじつご 、けだみつまさ こうして、池田光政は、 わん おかやまじよう 一年ぶりに岡山城に帰って きました。 0 0 、、・うとるす 京都留守居 見み行嵳と池 : ; こ てわの田だ ' みれよ家けで よてうの ういな政ご 。る体 か制が えどかろ・フ 江戸家老 じ かろう 、家老 はんしゅ 寺社 藩主 0 る 6 まちぎよう こおりふき : う 郡奉行 町奉行 ばんがしら 番頭 かんじうぶぎよう どうしん ( 同′む 勘疋奉行 らようにん 町人 ( 33 )
・生類みの 朱子学をすすめる・ あこうろうし 赤穂浪主の討ち入り : つなよし ・綱吉の死・ げんろくぶんか 4 元禄文化と町人 = はらさいカく ・フきょぞ・フしさつか ・浮世草子作家、井原西鶴・ たいカめ・れおおさカ ・大画面・大坂、難波橋・ は」 , て・な・つ ・奥の細道の旅・ 芭蕉と俳諧 : きょ・フしつ れきしはかせ べざいせん ・図解でみよう「弁オ船のすべて」・ しの・フ・ : フーそっ ・生活をしろう「士農工商」 : えどじたいゼんき ・文化をしろう「江戸時代前期の文化」 : そうにんしつ ・くわしくしろう「この巻のなんでも相談室・ 3 」 : れきし ・うつりかわりをしろう「貨幣の歴史」 : 矗・地図でしらべよう「江戸時の交通」 : ・たすねてみよう「この巻の史跡・資料饂・驩厖饂 ・おうちの方へ せいかっ んか な : わばし かん ちょうにん ぶんか 101 96 86 82 125 120 116 108 - イゞ冫 104 131 150 148 146 144 140 138 136 132
■・第■■第 ■■・第■■ ■■第 ■画■■■・ ・■■第■ - ■・・ けいう」、 - つ」 ( ・フ あくめいた力しようるいあわれ ふねやくわり はなた けました。悪名高い生類隣みのも、本の発達によって、町人の経済活動が活発 の花形といわれる、この船の役割を話し になった時代でもあります。豪商たちの 飛は動枷愛護という道徳的意図から出た 合ってみてください ざいりよく こうねん きよくたんはし ー」めーかい かな財力を背景に、大坂や京などで花 もので、後年それが極端に走って、社会 しようつなよし ひら ちょうにんぶんか げんろくぶんか ・ ) んら まね ・ 3 章「綱吉の時代」 開いた畆な町人文化ーーー元禄文化の撥 の混舌を招くこととなったのです。 ろうじゅう ・・ - 、しようぐれつなよし また吉は、幕府の賺政黽を打既する色を描いたのがこの章です。 五偲将軍綱吉は、政治を老中らに任せ え ざいさん おこな かへいかいちゅう きんぎんか ることなく、自らすすんで政治を行いま ため、金・銀貨の質を落として貨幣改鋳創工夫で財産を得る商の世界をあ した。この章では、赤穂浪士の討ち沁りをいましたが、これは、かえ 0 て枷血つかった西鶴、義理と情のしがらみを 描いた遞、骼のなかで謐の道を究め などの事作にも触れながら、吉の政治の上昇をもたらす恭に冬わりました。 ーしさっ かくじんまうせき た色蕉ら、各人の業績や生き方について のありさまを見ていきます。 ・第 4 章「元禄文と町ん」について は、純のん枷飛も参照させて、理 笋問に熱心だった綱は、笋を奨 ふか て おこな つなよしせいじ 綱吉が政治を行った時代は、貨幣経済解を深める手かかりとしてください し、笋に基づいた文治政治を心が ひとせきにん かつば ところ、おなか G, 酥ちゃん。は河童としてると〔う、その人の責任ではな〔ことだ ふりえきあた けで、その人に不都合や不利益を与える 生まれたくないと 第たの、で、そのよう 差別について しよせいきべっ じようじ ・とだいが・、じんふ人かがくけん 4 うじよじよ , をじゅ こと、これカ女性差別です。 にしたという話。で 京都大学人文科学研究所助教授 ~ 滕井〈払 藩別の場合も、これと同じです。 ま = 。。うでしよう。私たちは生まれ さくひん 、たがわりゅうのす ' しようせつ かつば てくるこ一とについて、から柵談を受イ江戸時代、の武士級の支記の道具として 芥川龍之介の小説に「河童」という作品 かつば ちちおやははおや ド・、 , ひさべつい・くひと づくり野された被差別立ロ落の人びとの受 があリます。河童の父親が母親のおなか けたことがありません第 ( ( したがって 1 発 くる かつば けている苦しみもい一まったくいわれのな とえば第生」 0 まれてきた一」とは、 の中にいる赤ちゃんに、河童として生ま しょ・つ いところから生しているのです。 れたいか、生まれたくないか、とねたそのんの僊ではありません。女性であ さべっ み しつ ほん はったっ ひと ちょうにん おおさか しよう : ん せかい かつばっ ( 151 )
ようなみじめな生活をおしつけたのは、 けが、今もなおのこっています。これを ・しいたげられた人びと 、くしさフちょうにん だいみよう なくさなければならないことは、いうま 幕府や大名は、武士の下におかれた百百姓や町人に、自分たちよりもっとひど ひと いくらしをしている人びとのいることをでもないことです。 ・職ん・商の三つののさらに下に、 「えた」・「非」という身伝をもうけ、こ見せつけ、百姓や町飛の不満をそらせる差別について、いろいろな角度から考 さべっ ためでした。 え、みんなで差別をなくすために話し合 れらの人びとの職業をきびしく畆して、 んが ってください ・者えてみよう 別を行いました。 ひとひと さべっ 人が人を差別するとい、フことは、ど、つ そのため「非」は、番の仕事や処刑 いうことなのでしよ、つか の下ばたらきを、また「えた」は、このほ さべっ かに死んだ牛や馬の処理など、人びとの 差別とは、人間が生まれそだってい じゅうじ じぶん きらう仕事に、やむをえす従事するほか なかで、自分がえらんだわけでも、のぞ なかったのです。強制されて、しかたなんだわけでもなく、またの責任でも しよく工う ふりえき くこうした職業についたわけです。 ないのに、不利益な不当なあっかいをう かわら また、「えた」・「非人」は、一「に河原けることなのです。 とろ じんしゆさべっ らくさべつじよせいさべっ や谷あいなどの、くらしにくい所にすむ 人種差別・立ロ落差別・女性差別は、その ふくそう 、エうせい えどじだい よ、フ強制されました。さらに服装につし なかでもきわだったものです。江戸時代 ても、きびしい畆がくわえられました。のしいたげられた人びとは、幕府や大名 しはい おこな たとえば、「非人」はかみをゆうことをゆかその支配をうまく行うためにつくられ おび るされす、帯のかわりに腰になわをしめた差別です。 ~ ・うせい さべっ ることを強制されました。 差別のない世の中に大きくかわったは ばくふだいみよう さべっ 幕府や大名が、「えた」や「非人」にこのすなのに、こうしたいわれのない差別だ ひと ひにん ひにん ひと さべっ せいかっ じぶん ーフ おお 1 、 ( 137 )
ちから げんろくぶんか げんろくわんかん ちゅうしん 元禄文化とは、元禄年間 ( 一六八八 5 一七〇四年 ) を中心とした三〇年あま かみかた ちゅうしんはな ぶんか りの間に、おもに上方の都市を中心に花ひらいた文化のことをいいます。 みずおと おずと まつおばしよう みなさんは、「古池や蛙飛びこむ水の音」という松尾芭蕉の有名な句を知っ あそ かんが げいじゅっ ていますね。ことばの遊びと考えられていた俳諧をりつばな芸術に部めた色 しよう げんろくじご、 だい - うてきぶんかくしやひとり しよう 蕉は、元禄時代の代表的な文学者の一人です。この巻の四章では、みなさ んとい 0 しょに「奥の細道」を橘していくことにしましよう。元禄時代には、 ばしよう こ - フしよくいも・・こ、おとこ せけんむねざんよう さくしゃ 芭蕉のほかにも、「好色一代男」、「世間胸算用」などの作者である弗原西鶴 じよ・フるり ちかまつもんざえもん ばしよう - フ、・そ - フし ちカまっ そして浄瑠璃の近松門左衛門がいます。芭蕉の俳諧、西鶴の浮世草子、近松 じよ、フるり みち にんげんろくじご、 の浄瑠璃とそれぞれのえらんだ道はちがいますが、この三人は元禄時代を代 ひょう じだい ぶんかく 力しカ あ口卩卩 表する文化人といえましよう。またこの時代には、文学だけでなく、 絵画、 わさんれきかく まんそ - フカく の - フカ′、 京 工芸、和算、暦学、本草学、農学などの広い分野で、印本人の創造力が発 されました。 ーー、力いきゅ - っ この文化をささえたのは、けっして支配階級の武士たちではありません。 ちょうにん 力をつけてきた町人たちの意気ごみが、すばらしい僊を生みしたのです。 しの - フこ - フしよう みぶんせいど 士農工商という身分制度のなかで、不自由ながらも人びとはけんめいに生 きていました。さっそく、そのくらしぶりを見ていくことにしましよう。 ぶんか ぶんかじん ふるいけ し、し ふじゅう わん かん ひと さ、カく ゅうめ ねん よらさ、カ′、 とうきようと