それから、また、キュリー夫婦の 長女イレーメは、フランスの物理学 幻者ジョリオと結婚し、両親のあとを ゝヾ ? 」 0 オ ほうしやせい レ そして、人工放射性元素の発見に ジ よって、一九三五年度ノーベル化学 一賞を受賞している。 レ なお、キュリー夫妻が、そろって イ ノーベル物理学賞を受けたのは一九 〇三年だった。また、キ = リー夫人がノーベル化学賞を受けたのは、一九一一年であっ 一家にあたえられたわけであ それから二十四年後に、三度目のノーベル賞がキュリ 1 る。 164
と、心に尊敬をこめていうのだ。 第状キュリ ー一家は、すばらしい科学者一家で、 賞 だいこくばしら うのキュリー夫人が、その一家の大黒柱だから よ賞 物 キュリー夫人は、夫のピエールと協力して 一ラジウムやポロニウムを発見して、ノーベル た化学賞を受け、世界的な夫婦になったが、し は員かし、科学者キュリ ー一家は、この夫婦だけ 3 受 、がの構成ではない。 夫のピエールの兄ジャックも、一家の中の 引大切な学者だった。一家の中の重要メンバ である。「キュリー 一家」を世にみとめさせる せんくしゃ 先駆者といえる。 こうせい そんけい 162
るが、ビアノ奏者として世界に、その名が ある。 ハデレフスキーは、キュリー夫人よりも、 室七才ばかり年上だった。かれはキュリー夫 しんこう 研妻と親交があった。結婚したばかりのキュ ー夫妻の家へ、しばしば遊びにおとずれ , 、、′や屋」とい一つ のショパンやパデレフスキーの時代は去っ こ 学ても、ポーランドは、やはり音楽の国であ る。第二次世界大戦後も、さらに前進をつ づけている。ペンデレッキを中心にした、 ぜんえいてきけいこう 急進的、前衛的な傾向で、現代音楽におけ しゅどうてき る主導的な役割を果たしているという。 そうしゃ 157
それから、また、次女のエープは、物理学の道からはずれて、音楽家となり、また、 作家となったが、その著「キュリー夫人伝」は世に名高い 一家の主要メンバーといえるだろう。 やはり、キュリー 右の現実により、私たちは「キュリー夫人」と聞いたときに、単に夫人個人を思うよ 一家ーを、総合的にかん りも「キュリー がえるのである。 けんしん 人類への献身 学ところで、一般に、二〇世紀最大の物 しよう 物理学者と称されてもいるアインシュタイ ンンが、キュリー夫人を評して、 きず めいせい フ ( 名声も、傷つけることのできなかった 5 ただ 唯ひとりの人。 ) ぶつりがくしや いつばん たん
キュリー夫人について かわいいマーニヤ けいおう キュリー夫人は、一八六七 ( 慶応三 ) 年十一月七日、ポーランド ( 人民共和国 ) の首 都ワルシャワに生まれた。 はくしけっ 一八九五 ( 明治二八 ) 年に、フランスの天才的科学者、ピエール・キュリー博士と結 婚してキュリー夫人になった。かの女は本名をマリヤといったが、ソルポンヌ大学入学 ( マリー・スクロドフスカ ) と呼んだ。 の時、フランス流にマリー かの女は、両親や姉に、また、近所の人たちに「マ 1 ニヤ、と愛称され、かわいがら れた愛くるしい子だった。 こん 〔解説〕 ふじん てんさいてき やまもとかずお 山本和夫 あ う しゅ 153
「フランス人になっても、私のむは、ポーランドにとどまっているだろう。 かの女は、遠い祖国を、胸にえがいて、心をしずめた。 ホー一フンドから、はる、はると、 夫人が亡くなったのは一九三四 ( 昭和九 ) 年だったが、。、 にぎ かけつけてきた姉のプローニヤと兄のジョジオは、かの女の柩に、一握りの土をふりか 「マーニヤ、あなたの愛したポーランドの土よ。 キュリー夫人は、フランス人になり、フランスの土になったが、しかし、いつも祖国 を愛していた。それを知っていたからだった。 丿ー一家 私たちが、「キュリー夫人」と呼ぶ場合、ピエ 1 ルの夫人マリー個人を指す場合と、も う一つの場合とある。 ( キュリ ひつぎ 161
といったそうである。 しりしよく 名声が世界的になり、あるいは高位高官に登った人は、それを利用して、私利私欲に 1 よく・はう 走るのが、かなしい人間の姿なのだが、しかし、キュリー夫人は、物質的欲望も、私的 めいよしん せいけっ 名誉心も無い、清潔な人だったというのだ。 おくのひさてる 立教大学の奥野久輝教授は、 すうがく 「 : : : キュリー夫人の父は、中学で数学と理科の教師、母も女学生をあずかって教えて いた教育者の家庭であった。 : マーニヤは、幼少の頃から、その天分にくわえて、父 と母から、人間の正しい道と学問に対する愛をおしえられたのであった。」 の と、述べている。キュリー夫人は、幼時からの心を、一生、持ち続けた清らかな学者で あったといえよう。 キュリー夫人は、あるとき、こういっこ。 び 「私は、科学が大きい美をもっていることを信じる者のひとりです。研究室にいる科学 げんしよう ぎじゅっしゃ 者は、たんなる技術者であるばかりでなく、おとぎ話のような感動をあたえる自然現象 ころ てんぶん
ぎようせき ショパンやキュリー夫人たちの業績を思うと、私たちの心は、理想に燃える。 日本の年号でいえば、江戸末期の文化四年に生まれたショパンが、世界的な不朽の作 しんき 曲をのこし、維新期の慶応三年に生まれたキュリー夫人が、今日の原子力時代の先達と なった。日本から見れば、ポーランドはすばらしい先進国だったといえる。 けれど、この国は、現在、人民共和国となっているが、東にソビエト・ロシア、西に はと、つ ドイツがあって、はさみ撃ちとなる関係で、常にはげしい政治的波涛に見まわれている。 ひうん ぶんかっ 過去に、たび重なる国土分割や、他国支配の悲運にあうなど、政治的には安定を欠く経 験をくりかえさなければならなかった。 ていせい キュリー夫人の幼いときには、帝政ロシアの属国になって、思想・言論・教育・信仰 きんし の自由をうばわれ、ポーランドなのに、ポーランド語を使うことは禁止され、ロシア語 をしゃべらなければならなかった。 くつじよく この屈辱の影は、キュリー夫人の心からは消え去らなかった。 べんがく 夫人は、勉学のために、フランスのパリへ出てきたが、ポーランドを捨てたのではな しはい ぞっこく せんだっ 158
かノ、、しゃ の学者は、研究をつづけているうちに、ウランという物質から、ふしぎな光 がでることを見つけました。 この発見された光を、 べックレレ泉と ) 実験中のキュリー夫妻 せま界まレし まんだじルぎウ ゆ線芫なラ し研う 発た究島でののか 見。をう 光ら てれはべる ま、世せクふ し -1 けんらルう 143
ことになるのは、父の血をひいたからだ といえよ一つ。 しよさい 父の書斎に、でんとすわっていたガラ しようらいみちび とだな ス戸棚は、かの女の輝かしい将来を導い たといえよ一つか 音楽の国 私たちは、ポーランドと聞けば、ある しゆと いは首都のワルシャワと聞けば、すぐに、 じゅしよう ノーベル賞を二回も受賞したキュリー いたい 夫人を思い出すが、同時に、偉大な作曲学 ' 家であり、またピアニストだったショパ ンを思い出す。 久しぶりにそろったキュリー夫人のきようだい ( 左より , マリー , ヘラ , プロー ニヤ , ジョジオ ) 155