ピエール - みる会図書館


検索対象: キュリー夫人
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1. キュリー夫人

しいますと、お父さんは、 それかいし 「それがいし けんきゅう しょに、研究してください。 と、すすめました。 マリーは、そこで、ワルシャワのお父さんにそうだんしました。すると、 「いっしょに、勉強できるならば、それがいし まえ 、。、リにいるプローニヤ姉さんは、一則からさん と、さんせいです。もちろん せいでした。 けっこん そこで、ピエールとマリーは、めでたく結婚ということになりました。 それは、一八九五年七月二十六日のことです。 けっこん むらやくば リ , の一」一つかし ピエールとマリ - ーよ、。、 ソー村の役場で、かんたんな結婚 1 しき 式をあげました。マリーのお父さんも、はるばる、ワルシャワからやってき と、 およめさんになって、むすこのピエールといっ

2. キュリー夫人

がくしいん ノ リ学士院から、ゲーグネル賞を受けました。 しよう・ 一九〇〇年明治三三年三三歳二度目のゲーグネル賞を受けました。 じゅんすい せいこう 一九〇ニ年明治三五年三五歳純粋ラジウムを、作るのに成功し、三度目のゲーグネル賞を受 けました。 五月、お父さんのスクロドフスカが亡くなり、ポーランドに帰 りました。 りがくはくし 一九〇三年明治三六年三六歳五月、パリ大学から理学博士の学位を受けました。十一月、イ しようはいおく おうりつがくしいん ギリス王立学士院から、ディビー賞牌を贈られました。 ぶつりがくしよう 十二月、夫ピエールとともにノーベル物理学賞を受けました。 きよう ぶつりがくぶもう 一九〇四年明治三七年三七歳夫、ピエールが、パリ大学に新しい物理の学部が設けられて教 じつけんしつ 授になりました。マリーも、今までの倉庫をつかった実験室か だいがくぶつりぶじつけんしゅにん らパリ大学物理部の実験主任として、ピエールの実験室に移り ました。 う じじよ 十二月六日、次女エープが生まれました。 こうつうじこ な 一九〇六年明治三九年三九歳四月十九日、夫、ピエールが交通事故で亡くなりました。五月 じゅ しよう そうこ 171

3. キュリー夫人

が、この賞を二どもも 、り一つとい一つことは、こ 、 ~ 全めれまでになかったこと 気す のです。このことをかん がえても、この研究は、 人どんなにりつばなもの 一であるかが、わかると キいうものです。 ・カし だい一回の時は、 おっとのピエールとっ しよう れだって、マリーはスウェーデンのストックホルムへ、そのノーベル賞をも らいにいきました。けれど、だい二回には、 かなしいけれどピエールのすが 150

4. キュリー夫人

マリーを、すぐすきになってしまいました。 その時、マリーは二十七才でしたが、おけしようもせず、きかざってもい ません。それでいて、けだかいすがたをしています。それが、一ばんに気に いったのでしよう。 「このようなむすめさんが、ピエールのおよめさんになってくれたらね。 と、ピエールのお母さんは、お父さんにい ) しました。 「わたしも、そう思うよ。」 お父さんも、すぐ、さんせいです。 マリーは、 「でも、わたしは、ふつうの人のように、およめさんになって、今までの勉 きよう しよう べんきよう 強をわすれてしまうのはいやです。わたしは、一生のあいだ、勉強したい のです。」 べん 140

5. キュリー夫人

けんきゅう 分の研究をしてください。 きようじゅ 「ピエール教授のかわりに、あなたを、ソルポンヌ大学の教授に、にんめい します。」 いってきました。 その時、マリーは、三十九才でしたが、みんなからのはげましをうけて、 げんき ようやく元気になりました。 けんきゅう そして、さらに研究をつづけ、それから四年めには、ピエールと二人でつ じようとう くったものよりも、もっともっと、まじりけのない上等のラジウムをつくり だしました。 しよう すると、ノーベル賞が、ふたたびマリーにおくられました。はじめのノー しよう ぶつりがくしよう かがくしよう おなひと 1 ベル賞は、物理学賞でしたが、こんどは化学賞でありました。でも、同じ人 と、

6. キュリー夫人

それはよくねんの六月二十五日でした。マリーが、ノ た年から、かぞえて十二年めのことです。 ノーベル賞 ふたり がくしゃ マリーとピエール、この二人の学者によって、ラジウムが発見されたとい せかい うことが世界にったわると、世界の学者は大さわぎをしました。 もちろん、フランスの学者も大さわぎです。ピエールを、ソルポンヌ大学 けんきゅうじよ かね の先生としてむかえ、また、国がお金をだして二人の研究所をつくってくれ ました。 こうえん イギリスでは、この二人に、ラジウムの講演をしてくださいと、たのみに きました。 とし しよう ねん くに 、リへはじめて出てき はつけん 146

7. キュリー夫人

と、心に尊敬をこめていうのだ。 第状キュリ ー一家は、すばらしい科学者一家で、 賞 だいこくばしら うのキュリー夫人が、その一家の大黒柱だから よ賞 物 キュリー夫人は、夫のピエールと協力して 一ラジウムやポロニウムを発見して、ノーベル た化学賞を受け、世界的な夫婦になったが、し は員かし、科学者キュリ ー一家は、この夫婦だけ 3 受 、がの構成ではない。 夫のピエールの兄ジャックも、一家の中の 引大切な学者だった。一家の中の重要メンバ である。「キュリー 一家」を世にみとめさせる せんくしゃ 先駆者といえる。 こうせい そんけい 162

8. キュリー夫人

て、結婚式に出てくださいました。姉さんたちは、もちろんです。マリーの しました。 お父さんは、おむこさんのピエールにいゝ しんせつ 「マリーは、わたしには、こゝ オしへん親切なむすめでしたよ。生まれてから、 ただの一ども、しんばいをかけたことがありませんよ。こういうむすめで すから、きっと、 しいおよめさんになりますよ。」 しいました。 かがくしゃ さて、マリーとピエール、この二人の科学者は、ふつうの人たちとはちが つくえ けんきゅう いました。結婚したあくる日から、一つの机に、いすを二つならべ、研究に むちゅうになりました。 せかい いろいろのことを研究しましたが、そのうちで、世界の人たちのわすれて ほうしゃのう ならないことは、「放射能」の研究でありました。 なだかぶつりがくしゃ フランスに、アンリ・ べックレルという名高い物理学者がいましたが、こ と、 ひ ねえ 142

9. キュリー夫人

そればかりではありません。一九〇 三年には、ピエールとマリーとべック しよう レルに、ノーベル賞がおくられました。 がくしゃ せかい ノーベル賞は、世界の学者にとって、 界で、一ばんの学者であるというしょ キ一つこにもなります - 。 けれど、このつつましい夫婦の学者 は、このよろこびで、うちょうてんに なったりはしませんでした。 けんきゅう カくもん 学問というものは、研究すれば、研 究するほど、奥ゆきの深いものです。 し・ 1 けんらルう おく ふか ふうふ 147

10. キュリー夫人

けんきゅう クレルの研究にしても、ただ、光がでるということを発見しただけで、なぜ せいしつも でるのか、どんな性質を持っているのかということまでは、まだ、研究して いませんでした。 マリーとピエールは、この研究を、自分たちでやろうとけっしんしました。 くしん そして、苦心に苦心をかさねて、とうとう、ラジウムという新しい物質を 見つけだしました。 それは、一九〇二年四月で、マリーが三十五才の時でありました。 おんし このてがらで、マリーは恩師のリッブマン先生にほめられ、また、パ 大学から、 「あなたの、すぐれたてがらをほめたたえるために、パリ大学では、理学博 し 士のめいよを、あなたにおくります。」 という、じれいをもらいました。 はつけん ぶっしつ 144