「はい。」 マーニヤは、一ばん、べそをかいていましたが、また、気のかった子ども で、あきらめも早いのです。かなしいけれども、心はくじけません。すくす くと、そだっていきました。さいわいなことには、四人の子どもは、お母さ びようき げんき んの病気をもらいませんでした。みんな元気です。とくに、ジョジオさん うんどうせんしゅ たら、運動選手のように、りつばな体です。 そして、うれしいことには、みんな、ゆうとうせいです。 べんきよう プローニヤ姉さんも、はじめは勉強がきらいで、小さい時には三つも下の じよがっこう マーニヤにもまける子でしたが、ぐんぐん勉強がすきになり、女学校を出る きん ちゅうがっこう とき、ゆうとうせいの金メダルをもらいました。ジョジオ兄さんも、中学校 を出るときには、一ばんで、やはりごほうびに金メダルをもらいました。 もちろん、マーニヤも金メダル組です。マーニヤが女学校を出たのは、一 ねえ はや にん かあ
ーカいこ / 、た、い・カ′、 だから、 ハリか、ロンドンなど外国の大学へ行かねばなりません。でも、 とう 、刀いこ′、 べんきよう かねも お父さんは、子どもを外国へ勉強にやるほど、お金持ちでないのです。あき らめるよりほかありませんでした。 い・カ′、 おんがくか ヘラ姉さんは、大学へ行きたいとはい ) しませんでした。できたら音楽家に なりたいと思って、うちでけいこしています。 ちゅうがっこう ジョジオ兄さんは、中学校を出ると、すぐ、医学の勉強をするために、ワ ルシャワ大学へ入りました。 じよがっこう おも マーニヤも、女学校を出てすぐ、大学へあがりたいと思いました。けれど、 おな プローニヤ姉さんと同じように、あきらめました。うちでは、ジョジオ兄さ んを大学にあげるだけで、せいいつばいなことを知っているからです。 とう お父さんは、子どもたちの気持ちをよく知っていました。 「あきらめておくれ。プローニヤもマーニヤも、大学へいきたいだろう。そ ねえ
じよがっこう た、い・カ / 、 りかべん けれど、女学校を出て二年めあたりから、 ノ リの大学へ入って、理科を勉 きよう つよ 強したいという気持ちが、強くなってきました。そして、プローニヤ姉さん わか じぶん じぶんて と、同じように、 ( わたしたちは、若いのだ。自分の道は、自分の手で、きっ き と切りひらいてみせる。 ) と、かんがえだしました。 力を合わせて ある日、マーニヤが、 「そうだ。いいかんがえがうかんだわ。 と、につこりしました。 さて、どういうかんがえがうかんだのでしようか ねえ
「あなたは、むずかしいってことを知らない人ね。」 がっか 女学校のときのじゅぎようは、やさしく、マーニヤは、どの学科でも、む ずかしいと思ったことはありませんでした。けれど、ソルポンヌ大学へあが なか ると、「むずかしいじゅぎよう」が、世の中にあるとはじめてわかりました。 こう一 うつく マーニヤは、美しい顔をきんちょうさせて、ねっしんに先生の講義をじっ と聞きました。そして、姉さんの家へかえると、夜おそくまで時間をおしん で、ふくしゅうしました。 まいにち このどりよくを、毎日、つみかさねていくうちに、カがついてきました。 はやくち みみ フランス語にしても、耳なれてきて、早ロでも、わかるようになるのでした。 がくせいしよう ところで、ある日のこと、プローニヤ姉さんが、マーニヤの学生証をみ 「あらつ。 よる 129
め きん ねん 八八三年で、お母さんがなくなって五年目でしたが、金メダルをもらい、た しようひん くさん賞品もいただきました。 この元気なすがたを、お母さんが見ることができたら、どんなによろこん だことでしょ一つ。 じよがっこう やく ねえ プローニヤ姉さんは、女学校を出ると、うちにいて、お母さん役をひき受 かせいふ けました。お母さんがなくなってから、ずっと、家政婦をやとっていたので すが、今ではことわり、プローニヤ姉さんが、せんたくをしたり、そうじを したり、てきばきとコマネズミのようにはたらいています。 ほんとうをいうと、プローニヤ姉さんは、できることなら大学へあがって、 お医者さんになりたいと思っていたのです。けれど、ざんねんなことには、 おんな ワルシャワ大学をはじめ、ポーランドの大学は、そのころ、女の人を入れて くれませんでした。 しゃ かあ
かあ まいにち ねえ つばいあ プローニヤ姉さんには、毎日毎日、お母さんがわりの仕事が、い かていきようし りました。けれど、ひまをつくって、きんじよの子どもたちの、家庭教師に かね なり、そのおれいのお金をためていました。 いしゃ 。たい。カ′、 リの大学を出て、お医者になることでし プローニヤ姉さんののぞみは、。、 そのころ、ポーランドには、お医者さんが少なかったのです。お医者さん むら のいない いなかの村が、たくさんありました。プローニヤは、お医者さん ひょうき 冖に、なり・ - 、 いなかの村へいって、病気の人を、すくってやりたいという気持ち が、心の中で、いよいよはげしくなるばかりなのです。 じよがっこう ところがマーニヤは、少しちがいました。女学校を出たときには、大学は、 きつばりとあきらめていました。というのは、まだ、しようらいの希望を、 はっきりきめていなかったからです。 きぼう
の時、もう二十四才になっていました。 かていきようし じよがっこう ねん 女学校をでてから八年め。家庭教師になってから七年めです。 マーニヤは、シチューキ村で、三年をすごしてから、ワルシャワへかえり ましたが、それからも、また、二年近く、やはり家庭教師をつとめていたの んちょう げつきゅう しようねんいんい です。お父さんは、少年院の院長さんになって、月給がぐっとあがりました すこ が、ありあまるほどの月給ではありませんでしたから、マ 1 ニヤは、もう少 し、お金をためなければならなかったのです。 はじめ、プローニヤ姉さんを、パリにおくりだすときには、 「五年間、姉さんがパリで勉強する。そして、お医者になってかえってきて、 マーニヤを助けてくれる。 という、やくそくでした。 けれど、うまくいかなかったのです。というのは、プローニヤはやくそく たす ちか しゃ 117
かていきようし 家庭教師になろうと思いました。 こう・こく 町をあるくと、ときどきこういうようなはりがみ ( 広告のビラ ) に、お目 にかかり - ます - 。 だいがくせい 『算数、フランス語のおあいてをいたします。こちらは〇〇大学生』 ごおし げつしゃ じよがっこうそっぎようせい 『ロシア語を教えます。月謝はやすくします。こちらは女学校卒業生』 こういう広告は、家庭教師になりたい人が、はりだしたのです。マーニヤ なかま は、この人たちの仲間いりをしたいと思いました。マーニヤは、まだまだ勉 きよう 強しなければなりません。けれど、お金も、もうけたいのです。この二つを かなえてくれるものは、体のじゅうな、家庭教師だと思ったのです。 そのほかに、マーニヤには、家庭教師になるについての、かくれたねがい やくにん くに がありました。それは、ロシアの役人にはひみつですが、ポーランドの国を、 どくりつさせるためには、まず、子どもたちを、りつばにそだてなければな まち さんすう べん
キュリー夫人の年表 けいお、つ 十一月七日、ポーランドのワルシャワで、五人きようだいの末 一八六七年慶応三年 娘として生まれました。 一八七六年明治九年九歳姉、ソフィが亡くなりました。 ( 十五歳 ) 一八七八年明治一一年一一歳五月九日、母のスクロドフスカが亡くなりました。 かんりつこうとうじよがっこう 一八八三年明治一六年一六歳六月十二日、ワルシャワの官立高等女学校を一番で卒業して、 金メダルを受けました。 かていきようし 一八八四年明治一七年一七歳ワルシャワ市内でかよいの家庭教師をはじめました。 かていきようし す 一八八六年明治一九年一九歳一月、プロック県のシチューキ村に、住みこみの家庭教師とし そうきん ねえ て一丁き、。、 ノリのプローニヤ姉さんに送金をつづけました。 一八八九年明治一三年一三歳シチューキ村からワルシャワに帰って、市内の家に住みこみの かていきようし 家庭教師になりました。 一八九〇年明治二三年二三歳ワルシャワの父のもとに帰りました。市内で通いの家庭教師に ねんびよう むすめ かよ そっぎよう すえ 169
いってきました。 しようねんいんいんちょう と、つ ちゅうがっこう お父さんは、中学校の先生をやめて、こんど少年院の院長さんにかわった のです。 少年院というのは、よくないことをした、ふしあわせな子どもたちを、よ がっこう い子にするための学校です。中学校にくらべたら、たいへんほねのおれるし たか げつきゅう ごとですが、月給は、中学校よりも高いのです。それで、プローニヤにもっ とお金を、お父さんからおくれるようになったのです。 とう ノリのソルポンヌ大学に入ろうと、 マ 1 ニヤが、お父さんのゆるしをうけ、。、 ワルシャワをたったのは、一八九一年の十月のすえでした。マーニヤは、そ リのへ 116