家 - みる会図書館


検索対象: キュリー夫人
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1. キュリー夫人

こういうありさまです。マーニヤはためいきをつくばかりです。マーニヤ げつきゅうび はいくど、この家を出ようと思ったかしれません。けれど、月給日をわすれ たりしますが、お金持ちだから、おくれてもはらってくれました。だからま たす あ、まあ、助かります。 「こういうのを、世の中というのだわ、がまんしよう。 と、マーニヤは、ひとりごとをいいながら、ずるずると、その家にすみこん ひと でいますと、知りあいの人がきて、 「いなかへ行く気がありませんか。いい家がみつかりましたよ。」 と、知らせてくれました。 こんどの家は、ワルシャワから、百キロばかり北にある、シチュ 1 キとい むら う村でした。 マーニヤは、ちょっとまよいました。たとえ、人の家にすみこんでいても、 きた

2. キュリー夫人

じよちゅう ちで、女中が五人もいますよ。」 と、教えてくれました。 「じゃ、思いきって、すみこんでしまおうかしら。 と、お父さんにもそうだんして、その家へいきました。 しいましたが、すみこんでみて、また、びつく この家は、プラウンさんとゝ りしました。この家は、お金持ちで、なるほど、五人も女中がいました。 けれど、びつくりするほどだらしがないのでした。 ごちそうを食べたり、しばい見物にでかけたり、ダンスをしたりすること は、いっしようけんめいだったかも知れませんが、親も子も、勉強なんて、 げつきゅう そっちのけでした。そればかりか月末になっても、女中やマーニヤに、月給 をだすことなんか、けろりとわすれるような家でした。 かあ べんきよう 「お子さまに、もっと、勉強するように、お母さんからも、おっしやってく おし けんぶつ げつまっ いえ おやこ

3. キュリー夫人

「勉強 ! 」 い一つでしよう。 けれど、よそのうちはちがいました。マーニヤの知ったところでは、どの おや うちも、親はもちろんのこと、子どもまでも、勉強をだいじだと思っていな いのでした。家庭教師をやとうのは、子どもの勉強が、だいじだからではな しゆくだい くて、子どもの宿題を、子どもにかわって、やってもらいたいためでした。 マーニヤは、ゝ 力なしくなりました。 ( どこかに、勉強をたいせつにする、やさしい人のすむ家がないものかし ら ? ) と、かんがえるのでありました。 とも ある日、友だちがやってきて、 げつきゅう 「すみこみならば、月給もたんまりくれる家があります。この家は、お金持 べんきよう こ いえ

4. キュリー夫人

はら まえ マーニヤは、バルコニーに出てみて、この村は、こちらへくる前に、そう ぞうしたのとは、すっかりちがった村であることを知りました。 もり ぼくじよう あちこちに、森があって、そのまわりが、牧場になっている村を、そうぞ うしてきたのです。 こうじよ、つ ところが、まどをあけると工場がならんでいて、えんとっから、もくもく とけむりがのばっています。 ひろゆき あたりには、森どころか、ぞう木林もありません。今は、ただ、広い雪の 原です。 はたけ あとで知ったのですが、この雪の原は、春になれば、サトウダイコンの畑 にかわるのでした。マーニヤのやとわれた家は、サトウダイコンの畑を、二 百ヘクタールばかり持っていました。 この家では、馬を四十とう、め牛を六十とうばかりかっていましたが、そ うま きばやし はる むら 104

5. キュリー夫人

・著者紹介 山本和夫 ( やまもとかずお ) 一九〇七 ( 明治四〇 ) 年、福井県小浜市 に生まれる。東洋大学に在学中より詩を 作る。太平洋戦争では、報道班員として 東南アジアに派遣され、不幸な大勢の子 どもたちと友だちとなり、それが動機で 児童文学を書きはじめる。戦後は東洋大 学で児童文学を講義し、加藤輝男等と「ト ナカイ村」を創刊。 現在、詩人、近代文学研究家、作家、評 論家として幅ひろい仕事をしている。著 書には、『燃える湖』 ( 理論社刊・小学館児 童文学賞受賞 ) 、詩集『海と少年』 ( ( 理論 社刊・サンケイ児童出版文化賞大賞受賞 ) 等多数ある。 たけへもといらろう カバー絵武部本一郎 へつきよしひと さし絵戸次義人

6. キュリー夫人

ながめていました。 むすかしい世の中 さて、マーニヤは、。、 ノリのプローニヤ姉さんに、お金をおくることをやく そくしました。 もっとも、一年分ぐらいのお金は、プローニヤは、もっていきました が、それまでにできるだけたくさん、お金をつくっておかねばなりませんで した。 し′」と それには、仕事を見つけることです。 べんきよう こうじよう が、マーニヤは、勉強のすきな家にそだっただけに、工場へいくとか、商 店につとめるとかいうことを、かんがえませんでした。 てん ねえ かね しよう

7. キュリー夫人

マーニヤが家庭教師となったシチューキ村の家 かていきようし いえ 士也ちノレ マ 馬ば 車皐 の さ い ね お / 、と 乂ぅ さ か に 気 見 村と 彳丁 く と に な り ま し 。見 シ ヤ ワ の 町は を は な れ て 知 ぬ 土とワ マ ヤ は じ め て ひ と で 才 で し た そ れ か ら 年 ま り た つ て は 十 八 は 十 と か 月 め か ら た が

8. キュリー夫人

「なんでもないんだよ。マーニヤは、おりこうだったのさ。 め ふたり と、お父さんは、お母さんに目くばせして、そして、二人の子どもにいゝ した。 「さあ、外であそんでおいで。」 おがわ ーのほうへかけていきました。 子どもたちは、すぐ、家をとびだして、 子どもたちのうしろすがたを見おくってから、お父さんは、今のことを、お 母さんに話して、 「マーニヤは、まだ、早いよ。字をおばえさせるのは。」 と、 しいました。お母さんも、 「あの子は、頭がよすぎます。しんばいです。」 と、うなずきました。 それからは、お父さんもお母さんも、マーニヤが本を読んだり、字を書い そと

9. キュリー夫人

ねんかん マーニヤは、このうちに、三年間っとめることをやくそくしました。 ここのおくさんは、ゝ しなかくさい人でしたが、前にいた、ワルシャワのプ しゅ ラウンさんのおくさんのように、じやけんではありませんでした。また、主 じん 人は、しんせつな人でした。 みほんいち 家には、まるで子どもの見本市のように、子どもがたくさんいましたが、 三人のむすこは、ワルシャワの大学へあがっていました。今は十八才になる うしごや の牛小屋が、庭のむこうに見えました。 マーニヤは、バルコニーでつぶやきました。 「きてよかった。 のくらし 、 3 ら にわ ひと 105

10. キュリー夫人

「子どもは、もうすぐ、かえります。まっていてください。」 ちゃ とゝい、げんかんにまたせたままお茶もだしてくれません。しかたがないの じかん でマーニヤは、二時間もげんかんに、しょんばりとまたねばなりませんでし し′」とぐち マーニヤは、お金を少しでも多くほしかったから、仕事口をいくつもみつ おも け、時間をきめて、かけまわろうと思いました。けれど、これでは思うよう こ、かけもちはできません。マーニヤは、がっかりしました。 べんきよういえ マーニヤのうちは、肉屋のおじさんまでが、かんしんする「勉強の家」で したから、 にんげん 「人間のやることで、なにが一ばんだいじか。」 と聞かれたら、お父さんも、お母さんも、姉さんも、兄さんも、すぐに口を そろえて、 かね くち