すみ せけんひとびと 世間の人々は、 ましゆっし 「メンロバ ークの魔術師のことだ。い力し と、なりをしずめて、まっています。 モルガンとか、ビラードといった資本家たちは、こいつはしようらいの大事業になる、 み と見こんで、はやくものりだしてきました。 けんきゅうひ にち でんとう はつめい 「研究費は、 いくらでもだす。一日もはやく電灯を発明してくれ。」 じぎようか 事業家たちが、あっくなったのも、あたりまえでした。イギリスでは、スワンという けんきゅう 人が、おなじような研究をはじめていることが、わかっていたからです。 じかんろうどう メンロバ ークでは、二十四時間労働がはじまりました。ねるのも食事をするのも、す べて、こうたいです。 ねんまえでんとう けんきゅう きろく エジソンのメモには、二年前の電灯を研究したときの記録がありました。紙をやいて でんりゅう しんくうそうち 炭にし、ほそくきって電流をとおしてみたのですが、そのころは真空装置がなかったの ひと しはんか でんとう どんな電灯をつくるだろう ? しよくド ) だいじぎよう かみ 121
と・つ のはたらきを、すっかりかえてしまいました。夜のやみをなくしてしまったからです。 ド ) - 」く ひとびと べんきよう 人々は、どんな時刻にも勉強できるようになり、はたらけるようになりました。その ちしき ため、みんなの知識がひろまり、ものがたくさんつくれるようになりました。エジソン でんとう よるせかい の電灯は、ただ夜の世界をあかるくしただけではなく、生活ぜんたいをあかるくし、世 しんば の中を進歩させ、発達させたのです。 れきし じんるい ながい人類の歴史の中で、たいまっ・カンテラ・あんどん・石油ランプなどのあかり じん はつめい につづいて、はじめて夜をあかるくした発明は、一八〇二年の、イギリス人マー せきたん のガス灯でした。それは、石炭からコークスをつくるときにでる石炭ガスをつかったも のでした。けれども、このガス灯は、どこの家でもっかえるものではありませんでした。 まえ でんとう けんきゅう 電灯の研究は、エジソンの生まれる前からおこなわれていました。 ひと でんき はつめい ねん 一八〇八年、イギリスのデービーという人が、電気ろうそくを発明しました。アーク 灯のことです。 と・つ はったっ よる せきたん とう よる せいかっ ねん せきゅ 116
せんじけんきゅう むせんでんわじつようか このあいだにエジソン自身は、この戦時研究をりようして、無線電話の実用化をはか でんきがいしゃ でんきがいしゃ むせんでんわよう ろうとかんがえ、ゼネラル電気会社とウエスターン電気会社にたのんで、無線電話用の しんくうかん せんご 真空管をつくらせていました・。それは戦争中には、まにあいませんでしたが、戦後のラ ジオの発達に、どんなにやくだったかは、、 しうまでもないことです。 戦争のはじまったばかりのころは、おそろしいいきおいだったドイツも、世界をあい てとしてのたたかい。 こ、だんだんつかれてきました。そこへアメリカを敵にまわすこと はつめいおう になったのです。そして、ドイツをおそれさせたのは、発明王エジソンが、アメリカの かカくぎしゆっしどうしゃ 科学技術の指導者であったことです。 すのう こしだんえんぐん 「エジソンか。エジソンの頭脳は、百個師団の援軍にまさるだろう。」 こうてい ドイツ皇帝ウイルヘルムは、こういってなげいたといわれます。 にち がっ 一九一八年の十一月十一日に、ドイツは、ついに降服しました。そうして世界には、 平和のかねがなりわたりました。そのときエジソンは、七十一さいになっていました。 せんそう はったっ ねん じしん せんそうちゅう てき せかい せかい
ねんめいじ とうひょう ピード王」といわれる。さいしょの発明、投票一八六八年明治維 しん きろくき とっきよしんせい 新。 ( 二十一さい ) 記録機の特許を申請する。 きようど・つ ねん しようか、 一八六九年アメリ 一八六九 ( 明治 2 ) ポープと共同して「ポープエジソン商会」 たいりくおうだんてつどう はつめい せいぞうこうしよう ばんのういんさっき をはじめる。万能印刷機を発明し、製造工場カ大陸横断鉄道が かんせい 完成する。 をつくる。 ( 二十二さい ) ねん いんじでんしんき はつめい じつよう 一八七一 ( 明治 4 ) 実用タイプライター・印字電信機を発明する。一八七一年マドッ しやしんかんばん クス、写真乾板を ( 二十四さい ) 母のナンシーがなくなる。 はつめい しゅうでんしんき はつめい 発明する。 ( 二十七さい ) 一八七四 ( 明治 7 ) 二重電信機を発明する。 でんわ けんきゅうしょ 一八七六 ( 明治 9 ) メンロバ ークに研究所をたてる。電話の炭素一八七六年ベルが でんわき そうわき 電話機を発明する。 送話器を発明する。 ( 二十九さい ) ちくおんき はつめい ( 三十さい ) 一八七七 ( 明治川 ) 蓄音機を発明する。 はくねつでんとう けんきゅう 一八七八 ( 明治Ⅱ ) 白熱電灯の研究をはじめる。 ( 三十一さい ) ねん にちたんそでんきゅう 一八七九年ジーメ 一八七九 ( 明治肥 ) 十月一一十一日、炭素電球を発明する。 でんしゃ ンスが電車をつく ( 三十二さい ) でんしゃ でんとうふぞくひん 一八八〇 ( 明治 ) 電灯の付属品をつぎつぎに発明する。電車のる。 おう はつめい はつめい はつめい たんそ ねん はつめい 233
南北戦争 ( 一八六一 5 一八六五年 ) ともいう、五年間つづいたはげしいたこゝい。ゝ ろげられていたからです しんぶん このうれゆきから、エジソンは、ぼくも新聞をだしてみよう、という気になったので てつどう えんせん す。しかし、その記事は、戦争のことなどよりも、じぶんがのっている鉄道の沿線にお ぶつか まちひとびと こったこととか、その日その日の物価とか、ちかくの町の人々のニ = ースとかでした。 ふるどうぐや いんさっき エジソンは、まず、デトロイトの古道具屋で印刷機をかいこんで、車内実験室にすえ へんしゅう つけました。そして、しごとのあいまに記事をかき、編集をします。機械のことには、 なれていても、記事のほうは、そうかんたんにまとまりません。 まいにちはっこ・つ しゅう 「毎日の発行はむりだ。週一回にしよう。」 し そうしてできあがったのが「週刊ヘラルド」紙です。そのときの一部が、エジソン家 ぶんしよう にほぞんされていますが、それは文章もりつばですし、印刷もきれいで、けいけんもな しようねん ひとり い十五さいの少年が、ただ一人でつくりあげたとは、とてもしんじられないものだ、と なんぼくせんそう ひ 0 せんそう ・刀し ねん ひ しゅうかん ねんかん いんさっ しゃないじつけんしつ 去」カ、
えきまえ じむしょ ジャージー駅前にあったプラッドレー医師の事務所の一室でやっていた きしゃ じつけん ごぜんじ まいばん 毎晩おそくまで実験をして、午前一時の汽車にのって、ニュージャージー州のポープ きしゃ じむしょ の家にかえる。朝は六時におきて、七時の汽車で、ニューヨークの事務所にでかける。 まいにちせいかっ これがわたしの毎日の生活だった。」 はつめい にち じかん つまり、一日に四時間しかねないで、発明にうちこんでいたのです。 にゆうしゃ でんしんがいしゃ その後エジソンは、ウエスタンュニオン電信会社からまねかれ、入社しました。そ けんきゅう かぶしきそうばつうほうきかいりようけんきゅう ままでたびたび研究していたものでした こではじめた株式相場通報機の改良研究は、い から、つぎからつぎへと、すばらしいアイディアが生まれてきました。 でんぼういんさっきでんばう とっきょ このあいだにエジソンは、たくさんの特許をとりました。電報印刷機・電報スイッチ・ こううん かいりようでんぼうき 改良電報機などです。そして、ついに、エジソンに大きな幸運をもたらすことになる、 でんばう いんさっ はつめい しきばんのういんさっき エジソン式万能印刷機を発明しました。なんでも電報で印刷できるという、べんりな機 械です。 あさ おお しゅう
まけんおうぜっしつ そのグレモントのエジソンがいつもくつろぐ居間兼応接室には、大きなかざりだなが きねんひん くんしよう あって、この中には、エジソンにおくられた勲章・メダル・記念品などが、たくさんな きろく らべてありました。それは、エジソンのしようがいのかかやかしい記録をながめるよう でんきがっかい なものでした。その中には、エジソンがアメリカ電気学会からおくられた、とくに大き な金メダルも、さんぜんと光っていました。 だいりせきぞう へやをながめると、その一すみには、むかしロシアの皇帝からおくられた大理石像が はまき しっぽ・つ た 三つ立っており、つくえの上には、ごうかな七宝の葉巻入れ ( 中には、エジソンのすき にっぽんこうがくかい はまき たか な、かおり高い葉巻がおさめられています ) がおかれ、そのそばには、日本の工学会か らおくられた、みごとなプロンズの花びらと、ドイツの鉄鋼王クルップからおくられた 鋼鉄製のデスクセットがおもそうにならんでいます はまき あんらく なかおお このへやのまん中の大きな安楽いすに、ふかくこしをおろして、葉巻をくゆらしなが はつめい けんきゅう ら、夜のひとときを、発明や研究のことについて、われをわすれてかんがえこむときが、 こうてっせい きん よる ・つ・ん と まよ 0 こ・つてい てつこうおう おお おお
ーカー教授とはなしたことがあ のつみこみと輸送でてんてこまいの農夫たちを見て、 りました。 きしゃゅそう 「どうも、たいへんないそがしさですね。鉄道でもしいて、汽車で輸送をしたらどうで しようね。」 というバーカー教授に、エジソンは、こうこたえました。 けいひ でんき きしゃ 「汽車だと、経費がかかりすぎて、だめでしようね。それより、電気で走る車ができた ひ しようききかん ら、べんりでしようね。蒸気機関をつんで、火をたいて走るのとちがって、これなら、 いくらでも小さいものができるはずですからね。」 でんち 「なるほど。でも、そうなると、電池というやつが、やっかいですね。」 でんち ーでんしゃ 「わたしは、いずれ、電池をつかわない電車ができるとおもっているんです。」 でんとう けんきゅう でんしゃ けれども、その後エジソンは、電灯の研究にとりかかりましたので、電車のゆめは、 そのままになってしまいました。 そ う きようじゅ のうふ てつどう み ノ きようじゅ はしくるま 141
しかし、エジソンは、それをあまり気にしませんでした。もっとも、そういう性格だ肥 はつめい からこそ、つぎつぎとあたらしい発明ができたのでしよう。 しゃないじつけんしつ さて、はげしくゆれるせまい車内実験室で、エジソンは、ねっしんに実験をつづけま ざんねんながら、こうゆれては、ひじようにこまかい実験はできません。けれども、 カカくちしき まいにち 毎日のつみかさねで、エジソンの化学知識はたいへんゆたかにな「ていきました。 じつけんしつ ところが、このせまい実験室が、いよいよ身うごきもできないほどせまくなることに おお 、んさつはっこう しんぶんへんしゅう しようねん なりました。少年エジソンが、このへやで、新聞の編集・印刷・発行という大しごとを はじめたからです。そのきっかけというのは : まいにちしんぶん しんぶん エジソンが新聞うり子をしはじめてからまもなく、毎日の新聞は、じつによくうれる し ようになりました。ずいぶんたくさん仕入れても、たちまちのうちにうれてしまうあり こくないせんそう さまでした。それというのも、アメリカ史上最大の国内戦争ーーどれい解放戦争とも、 し・しようさいだい み 0 じつけん じつけん 、いほうせんそう せい・か′、
どうりよくよう 動力用にも、りようされるようになりました。 ところが、この欠点は、たいへんおもくて、もちはこびにふべんなのと、たくわえら りよう でんき れる電気の量がすくないということでした。 けんきゅう けってんき エジソンは、はやくもこの欠点に気がっきましたが、じぶんでその研究に手をつける ちくでんち ひまがなかったので、だれかがなまりをつかわずに、もっとかるい蓄電池をかんがえだ ちくでんち はつめい すだろうと、まっていました。しかし、十年たっても、だれもかるい蓄電池を発明して くれません。 ちくでんち でんとう 「だめだなあ、かるい蓄電池ができると、電灯はもっとひろく、山おくででもっかえる ようになるんだがね。」 しよいん と、エジソンがためいきまじりにいうのをきいて、所員たちかいいました。 しょちょう 「所長、それはあなたがやるべきですよ。」 「わたしも、そうかんがえてはいるんだがね。だが、これは、なみたいていでできるこ けってん ねん やま て 176