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検索対象: 明治維新の功労者 西郷隆盛
84件見つかりました。

1. 明治維新の功労者 西郷隆盛

島から島へ きちのすけ きようとてらだや 吉之助がいなくなると、はたして京都の寺田屋というやど屋で、えらいさわ さつまはんどうし ぎがおこりました。き「たものも、きられたものも、おなじ薩摩藩の同士うち ひさみつこう さつま という事件です。これは、久光公のたいどにあきたりない、 はやりたっ薩摩の てらだや ばくふ 志士たちが、伏見の寺田屋にあつま「て、幕府をたおすためのはたあげをすす ひさみつこう しんばい しんか めていると、これをし「た久光公が、心配のあまり、臣下をとりしずめにつか わしたのです。 しかし、とのさまのめいれいでも、おもいとどまらせることができないほど きゅうしんは に、はかりごとがすすんでいたので、急進派と、とりしずめ派とがきりあいを ふしみ

2. 明治維新の功労者 西郷隆盛

けん と、わかいのににあわない、 左内のどうどうとした意見に、 はしもと かんが かんしん 「橋本どん、あなたの考えには感心するばかりだ。こんごも、しつかりみちび いてくだされ。」 きちのすけ と、吉之助は、左内のまえに頭をさげるのでした。 ねんなりあきらこう えど やくめ えど 一八五七 ( 安政四 ) 年、斉彬公は、江戸づめの役目がおわったので、江戸を きちのすけ たって薩摩にかえることになりましたが、吉之助はとのさまの、 しいつけで、ひ きようと さない けん しよう とり京都にとどまることになりました。そして、左内の意見にしたがって、将 軍のあとつぎもんだいについて、公家のあいだをはしりまわり、たびたび近衛 きんのうてんのう 家へ出入りしているあいだに、勤王 ( 天皇のためにつくすこと ) のこころざしのあ そうげつしようやながわせいがんらいみきさぶろう つい僧月照・梁川星巌・頼三樹三郎などとも、ふかいまじわりをむすぶように なりました。 ぐん で さつま あんせい さない あたま さない このえ

3. 明治維新の功労者 西郷隆盛

こきち 二、三歩とびさがった小吉は、素手で立ちむかっていきました。さやぐるみで み かたな なぐりこんでくるあいての刀を、ひらりひらりと、身をかわしてさけました。 じ つぎのしゅんかん、横堀のからだは、地ひびきたてて、あおむけに、ひっくり こきちあし 吉の足ばらいが、みごとにきまったのです。 かえっていました。小 こきち かたな しかし、そのはずみに、あいての刀のさやがわれて、そのきっさきが、小吉 ち こきちみぎ のうでにあたったらしく、ト / 吉の右ひじから、さっと、まっかな血がほとばし りでました。 しようねん 少年たちは血をみると、きゅうにおそろしくなったのか、 こきち おおごえ 横堀は、けもののような大声をあげ、小吉めがけて、びゅうっと、なぐりこ んでいきました。 よこばり・ 0 ち よこばり すで た

4. 明治維新の功労者 西郷隆盛

一八五一 ( 蓴四 ) 年の春、薩摩のとのさまは、一世の名君といわれた島津斉 きちのすけ あきらこ・つ 彬公にかわりました。吉之助の二十五さいのときでした。 なりあきらこう 斉彬公は、そのころの大名の中でも、もっともすぐれた人物のひとりでした が、ながいあいだめぐまれなかった人で、藩主になったときは、もう四十三さ いになっておりました。 どだい はんせいじ 公は、くさりきった藩の政冶を土台からたてなおすために、人物をやしなう けっしん こ、夬、い ワ 3 カ子 / し、 ) イ えど はじめて江戸へ ねんはるさつま だいみよう ひと はんしゅ めいくん じんぶつ じんぶつ しまづなり

5. 明治維新の功労者 西郷隆盛

おとうときちじろう きちのすけ と、弟吉一一郎たちにはげまされながら、吉之助はい「しんに努力をつづけ、不 幸をのりこえていくのでした。 ねん あんせいがんねん がっきちのすけちゅうごしよう その二年のちの一八五四 ( 安政元 ) 年の一月、吉之助は中小姓にひきあげられ さんきんこうたい えどばくふ しょだいみようぎむ えど るとともに、参勤交代 ( 江戸幕府につかえる諸大名の義務の一つ。一年おきに、江戸 じぶんりようち えど と自分の領地に、かわるがわるすまなければならないおきて ) のため、江戸にのぼる なりあきらこう やく ことになった斉彬公のおともの役をめいじられたのでした。 きちのすけ 吉之助は、大きなのぞみに、もえるひとみをかがやかせるのでした。 きちのすけ しかし、吉之助は、出発の日がちかづくにつれて、夜もねられない日がつづ いてきました。それはびんぼうだったために、おともにくわわるしたくができ なかったのです。 「よわったなあ。いまさら、おことわりもできないし、どうしたらいいたろ おお しゆっぱっ ひ よる どりよく ねん

6. 明治維新の功労者 西郷隆盛

とくがわ あいづはん 、し 行月かたは、会津藩をせんとうとして、死にものぐるいでせめこんできまし た。てきはおおぜいで、みかたは小ぜい、兵力のちがいはどうしようもなく、 かんぐん きようと ばくふ たいぐんひと 官軍はしだいにおいこまれ、京都の町は、 いまにも幕府の大軍に一のみにされ そうになりました。 きちのすけ み にんなじのみやよしあきしんのう 吉之助は、このようすを見ると、ただちに仁和寺宮嘉彰親王に一福し、日月 のしるしをうった、 にしきのみはたをたかだかとささげもっと、兵をひきつれ ふしみかいどう て伏見街道へうまをすすめました。 寒風をきってさっそうとひるがえる、にしきのみはたをおしたてた西郷のす かんぐんゅうき がたをみると、数ばいのてきをあいてに、くせんしていた官軍は勇気百ばい、 もうれつないきおいで、おしかえしました。 ばくふぐん 幕府軍は、にしきのみはたをみて、天皇にはむかう朝敵になったというので、 かんぶう すう こ まち てんのう へいりよく ちょうてき さい 1 」う じっげつ 13 6

7. 明治維新の功労者 西郷隆盛

おおさかじよう よしのぶ きようと そして、慶喜は、 いくさのじゅんびのために、京都をでると、大阪にくだり、 大阪城へはいりました。 ねんがつみつかとくがわ とばふしみりようかいどう けいおう 一八六八 ( 慶応四 ) 年一月三日、徳月 、ーがこは、島羽・伏見両街道から一万八千 きようと の兵をもって、京都におしよせました。 ひる きようと ごしよほ・つせい お昼すぎ、はやくも京都の御所に砲声がきこえはじめると、公家たちはいく と・つば / 、 いけん さにおじけづいて、なかなか討幕の意見がまとまりません。 ル」 - つば′、 しかし、やっと討幕にふみきったので、ただちに兵をくりだしました。 かい耳一・つ にんなじのみやよしあきしんのうせいとうだいしようぐん さっちょうれんごうぐん 仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍として、薩長連合軍三千で、鳥羽街道をかた ふしみかいどう さいごうきちのすけそうさんぼう め、やく二千で伏見街道をまもり、西郷吉之助は総参謀として、四百の兵をつ れて、東寺の本陣にはいりました。 とくがわ 朝廷がたでも、懣Ⅱ , カたでも、ひくにひけよい、 天下わけめのたたかいです。 ちょうてい と - つじ ほんじん てんか おおさか まん 13 5

8. 明治維新の功労者 西郷隆盛

なりあきらこ - っ みとはんしゆとくがわなりあき 斉彬公は、水戸藩主の徳川斉昭の七 なんひとつばしよしのぶしようぐん 男、一橋慶喜が将軍にもっともふさわ じんぶつ 。 ) 靄こ弘しい人物であると目をつけ、もっとも びんご ひろしまけんふくやまはんしゅ したしい備後 ( いまの広島県 ) 福山藩主の ろうじゅうあべまさひろ こうしたこみいったそうだんには、 なりあきらめ きちのすけ 斉彬の〈をうけた吉之助がかけまわり、 けん さいごう ひと ほうぼうの意見をまとめるのにつとめました。そのため、西郷の名と人がらは、 ひと にほかの藩のおおくの人たちにしれわたり、また、おもんじられるよう になっていったのです。 えちぜんふくい , まんしゅまつだいらよしなが このもんだいで、とくにねっしんだったのは、越前福井藩主の松平慶永 ( 春 はん ろうしんう ロ卩い しゅん

9. 明治維新の功労者 西郷隆盛

志士のおもだったものの身のまわりには、幕府のあみがはりめぐらされ、 まちまち やくにん 町々には、般人やとりかたがくばりおかれました。 や きちのすけ さようと えど 江戸へでていた吉之助が、京都のやどのかぎ屋へかえってみると、幕府の手 ありむらしゅんさい かえだのぶ 、がいにはやくまわったことをしった、なかまの有村俊斎 ( のちの海江田信 きちのすけ 義 ) たちが、これからのことをそうだんしていました。吉之助のすがたをみた 志士たちは、 うめだうんびんらいみきさぶろう 「西郷どん、いよいよはじまりました。同志の梅田雲浜・頼三樹三郎がっかま りましたぞ。」 ばくふやくにん まなべあきかっ 「いま、間部詮勝のやどへきりこんで、ふらちな幕府の役人どもをたたききっ てやろうと、そうだんしているところです。」 と、かわるがわるかたをいからせて、うったえてきました。 よし さい 1 」・つ み ばくふ て

10. 明治維新の功労者 西郷隆盛

それとゆきちがいのように、国もとから、いそぎの使いがとんできました。 ししゃ てがみ きちのすけ 使者がもってきた手紙をひらいてよんでいた吉之助は、あまりのおもいがけ てんち てがみ なさに天地がまっくらになるほどおどろき、手紙をもつ手が、ぶるぶるふるえ だしました。 なりあきらこ - っ きゅうし それは、斉彬公の急死をつげているのです。 きちのすけ げんき さすがの吉之助も、たましいがぬけたようになり、元気だったころの名君の おもかげをおもいだしては、毎日、かなしみのなみだにかきくれるのでした。 なりあきらこ・つ てんか しなことは , も , つ、なにもできな ( 斉彬公がなくなられたからには、天下のだい、 ( よし、この力をもりたてて、幕府をたおそう。 ) さつま なりあきらこ - っ しようきよう とかんがえると、いそぎの使いを薩摩へおくり、斉彬公の上京をうながしまし ちから まいにち つか めいくん