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検索対象: 明治維新の功労者 西郷隆盛
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1. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ひんぼう人のくせに、なま 「こじきの子をせいばっして、なにがわるいんだ。。 きち いきなことをいうな。そうだ、みんな、さきに、そののろ吉をやつつけろ。」 よこぼり 横堀は、声をふるわせて、さけびました。 まずしさにまけず こきち びんぼう人とけなされて、小吉のまゆが、びりりつとうごいたかとおもうと、 「やるか。これはおもしろい、びんぼう人のうでまえをみせてやるぞ。たばに なってかかってこ よこぼり - というがはやいか、横堀のむなぐらをつかまえて、えいっと地面にたたきつけ にんしようねん 、こ又、九人の少年たちをむこうにまわして、はげ 3 ました。つづいて、そまこ こ じめん

2. 明治維新の功労者 西郷隆盛

まごころの人 さいごうたかもりせいなんせんそう 西郷隆盛が西南戦争のはて、鹿児島で戦死した一八七七 ( 明治十 ) 年から、すでに百年以上 さいご・つ いっこうおとろえません。「西郷」とよび たっています。それでもその人をあがめる気持ちは、 さいご・つ すてにする人はあまりなく、たいてい「西郷さんーと、したしみ、うやまいをこめたよび方を しております。 しゅうがくりよこう ちゅうがくせい かごしま わたしは、中学生のころ、はじめて鹿児島に修学旅行にいき、そして西郷さんが最後にこ ど けんがく ほぞん もったほらあななどがたいせつに保存されているのなども見学しました。その後も二度ほどそ かみ ち なんしゅうじんしゃ か ) 」しま の地をおとずれましたが、鹿児島にも銅像があり、また南洲神社として神としてまでまつられ こころふか ており、この地の人のうやまいの心の深さを知りました。 せいなんせんそう さいごうたかもりたいしよう ( いただいた薩摩がわは約四万人で、そのうち戦死者は約五 この西南戦争で西郷隆盛を大将こ とち ふしようしややく まんにん 千、そして負傷者は約一万人あり、また、この戦いで土地の一万三千戸近くがやけたと、記 録にのこっております。 ひと ち ひと ひと ひと かごしませんし どうぞう し さつま たたか やく まんにん まん ねん こちか さい 1 」・つ せんししややく ねんいじよう かた

3. 明治維新の功労者 西郷隆盛

なんしゅうおう 西郷さんののこしたことばは、「南洲翁遺訓」などにまとめられております。南洲というのは なか が′」う その雅号です。その中に、 ひとびと しん 「後の世まで人々に信ぜられ、あおがれ、またよろこんでその人にしたがっていかせるものは、 せけん ただひとつ、まごころがあるということだ。そのまごころがなくて、世間からほめられるのは ひと ふか まぐれあたりの幸せだ。まごころが深いと、たとえ、そのときはそれに気づく人がなくても、 のち 後の世にかならず、それをよくわかってくれる人がでてくるものだ。」 という意味のことをのべたり、また、 てんあいて ひとあいて 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、おのれをつくして、人をとがめす、自 ぶん 分のまごころが、まだ足りないということをかえりみて、つとめよ。 といった意味のことも書いています。 西郷さんは、まごころと大きな愛をもち、そしてまったく地位とか金とか名誉とかには欲が こんにちにつばん なく、その一生をつらぬきました。そして、古い日本から、新しい今日の日本につながる明治 いのち 維新という世の中のかわり目を、命をかけてやりとげました。 さいごう さいごう しん しよう しあわ なか てんあいて おお いくん ふる ひと につぼん あたら ひと かね ひと なんしゅう よく 1 81

4. 明治維新の功労者 西郷隆盛

あまみおおしま きちのすけ せいねん 吉之助は子どもや青年たちを、かこいの外にあつめては、奄美大島のときとお はなし なじように、本をよんでやったり、ためになる話をしてきかせたりするのでし ふさく また、たえず、ききん ( 不作で、たべものがふそくすること ) におびやかされて しやそう いる島の人たちに、社倉のしくみをおしえてやりました。 むら これは、中国からったわったもので、村ごとに、みんなでこくもつをだし ほ・つほ - っ ふさく あって、 くらにしまっておき、不作のときに、これをつかう方法なのです。お しまひと かげで、島の人たちは、たいへんたすかりました。 そのうちに、たいへんなたよりがったわってきました。それは、 かながわなまむぎむら えど せんねんひさみつこう 「先年、久光公が、江戸から薩摩へかえるとちゅう、神奈川の生麦村にさしか ぎようれつ じんにんしようば かったとき、イギリス人四人が乗馬のまま、行列のさきをよこぎったので、薩 しまひと ちゅうごく ほん さつま そと さっ 105

5. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ためなさい。」 ちゅうい と、きつく注意しました。 きちのすけ このほか、吉之助は、島のくらしをよくすることにつくせるだけのどりよく ちち こころ をはらったので、島の人たちは、心からうやまい、やさしい父のようにしたし み、なついたのでした。 しまやくにん そのころ、島の役人どものねんぐのとりたてかたはひどいもので、どのくら いたくさんの人たちがなかされていたか、わかりませんでした。 さんぶつ おおしま 大島のおもな産物はさとうでしたから、ねんぐは、すべてさとうでおさめる ふさく やくにん ことになっていました。般人たちは、たとえどんな不作になっても、ぜったい じぶん めかた にねんぐのがくをへらそうとしません。そのうえ、目方をごまかして、自分の はらをこやしていたのです。 ひと しまひと

6. 明治維新の功労者 西郷隆盛

きろくしよかきやくたすく になったのです。なかのよい大久保一蔵は、二年おくれて、記録所書役助とい やく う役につきました。 きちのすけ うわやく さこたたじえもん こおりぶぎよう 吉之助のさいしょの上役に、迫田太次右衛門という人がおりました。郡奉行 がく・もん きちのすけ ひと をつとめていたこの人は、学問もあり、りつばな人で、吉之助はこの人から、 やくにん みち おし 役人としてなすべき道について、いろいろと教えをうけました。 としきちのすけさこたぶぎよう ちほうむらむら ある年、吉之助は迫田奉行について、地方の村々をみてまわっていました。 こめ 秋の米のとりいれのよそうをたて、その年のねんぐをきめるためでした。 おおみず ふさく その年はあらしと大水のため、ひどい不作で、ひやくしようたちは、たいそ ぶぎよう うこまっておりました。こんな年には、奉行のはんだんで、ねんぐをへらすこ とができるよ , つになっていました。 おおみす 「西郷どん、ことしの大水はよそういじようにひどいもんだな。」 あき さいごう とし ひと おおくぼいちぞう とし ねん ひと ひと

7. 明治維新の功労者 西郷隆盛

「うむ、とうとうやりおったか。ま、さわぐな。こんどは、幕府も大決心で やったようだ。ここで、かるはずみなおこないをすれば、てきのわなにかかる ようなものだ。ここは、ひとまず、国もとへひきあげ、おりをみて、ふたたび 事をあげるのがよいとおもう。」 きちのすけ いきどおりさわぐ同志たちを、吉之助はなだめるのでした。 よしだしよういんはし ねん この安政の大獄は、よく年までつづき、幕府をたおそうとする吉田松陰・橋 じんぶっしけい もとさない 本左内をはじめ、百人いじようものすぐれた人物が死刑にされ、あるいはおも てんか かせ いばつをいいわたされ、血なまぐさい風が、天下にふきつづけたのです。 しょはんしし そう げつしよう 僧の月照は、朝廷の中のようすにくわしい人で、公家と諸藩の志士とをむす こ・つど : っ びつけるのに力があったばかりでなく、西郷とも、たびたび行動をともにして いたところから、幕府の手が、この人にまわるのはとうぜんでした。 こル」 あんせい たいごく ちから ちょうてい どうし ひと さい 1 」 - っ ひと だいけっしん

8. 明治維新の功労者 西郷隆盛

すけ たされていましたので、くらしにはこまりませんでした。 きちの るざいにんしまびと ところが、流罪人や島人たちは、ほとんどいもばかりたべていたので、吉之 こめ 助のすまいに、山とつまれた米をみたからたまりません。 へや 「先生、お部屋のおそうじをさせてください。」 「先生、ごはんをたいてあげましよう。」 まいにち こきたり、あそびにきたり、毎日、にぎ と、たいした用もないのに、てつだい ( きちのすけ やかにつめかけました。そのたびに、吉之助が、 「おはんらも、めしなりとたべてゆきなされ。」 こめ きちのすけ というと、まってましたとばかり、吉之助の米を、かってにたいて、はらいっ ばいたべてはかえっていきました。 こめ それで、三か月もすると、十八びようの米は、一つぶのこらずなくなってし せんせい せんせい よう やま ひと

9. 明治維新の功労者 西郷隆盛

、を 1 を誉第 しみん 」「士民の家はみなやけて、のこると ころは二十分の一にすぎない。それ ふる で七百年来のたからものや、古い記 録はうばわれたり、火にやけてほと たんどなくなった。」 せいなんせんそう しる のと、西南戦争のことを記した本にあ 。な本ります。しかし、この戦争の中心人 さいごうたかもり くハ月ハぶつ 物であった西郷隆盛を、鹿児島の人 戦はほとんどうらみの目で見ていない しる 西どころか、まえに記したように、銅 像や神としてまつって、なっかしん でいるのです。これはいったいどう してでしよう。 せいなんせんう ぞうかみ ねんらい ぶん か一」しまひと ほん どう 180

10. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ちょうてき みあ と、そこにきた人は、なっかしそうにそれを見上げます。 え とうきようけんぶつ 地方から東京見物にきた人も、絵はがきなどで見知っていて、じかにその目で見ることがで きねん しやしん 0 、記今」にい っしょに写真をとったりして、うれしそうです。 どうばん どうぞうだいいし その銅像の台石にはめられた銅板には、 し ぜんねんめいし さいごうたかもりくん 前年 ( 明治 「西郷隆盛君のすぐれたてがらはだれもが知っている。いまさらいうまでもない。リ ひとびとかんげき 二十二年 ) 正三位をおくられた。この天皇のおぼしめしは、多くの人々の感激するところであ どうし どうぞう ともざね る。吉井友実が、同志とはかり銅像をたて、その人をしのばうとしたところ、天皇からもお金 ょにん さんせいしゃ をくださった。そして賛成者が二万五千余人もいた。明治二十六年から工事にかかり、三十年 にできあかった。 み といった意味のことが漢文で記してあります。 きどたかよしおおくばとし さい 1 」うたかもり 西郷隆盛は、この本でのべたように、明治維新に大きなてがらがあり、木戸孝允・大久保利 せいなんせんそうお かんぐんたたか しん 通とともに、維新の三傑とよばれるほどでした。しかし西南戦争を起こして官軍と戦ったため、 朝敵の名をつけられてしまいました。 みち ちほう ねんしようみ - な ひと ほん かんぶんしる けっ ひと まん てんのう しんおお ひと おお ねん め てんのう み か ね 1 7 7