おおくぼ 「大久保どん、いまさら、ぎろんしているときではない。 いわくら とっていたたきたい、 と岩倉さんにいってくだされ。」 ししました。 いわくら 西郷のことばをきいた岩倉は、短刀をふところにしのばせると、ひかえ室で あき ひろしまけんひろしまはんしゅあさのながことこう やすんでいる安芸 ( いまの広島県 ) 広島藩主の浅野長勲公にちかづき、 げいしゅうこ・つ かいぎ やまのうちこう 「芸州公、せつかくの会議も、山内公ひとりのために、ゆきなやみもうした。 し やまのうちこう もし、山内公があくまでがんばるなら、わたしは、かれとさしちがえて死ぬっ もりじゃ。あとのことはよろしくおねがいもうす。」 とさ いわ′、、り げいしゅうこう けっしん ししました。おどろいた芸州公は、岩倉の決心を、さっそく、土佐の後藤象 じろう 二郎にったえました。後藤は、いのちがあぶないと、山内公をなだめすかして、 はん そのまま藩のやしきへつれかえったのでした。 さい 1 」 - っ たんとう やまのうちこう さいごのしゆだんを 1 」とうしよう しつ 1 3 2
さいこ・つ 一八六九 ( 明治 2 ) 治玖府は、綣新のてがらを賞して、最高の一八六九年薩長土 肥の四藩主、版籍 一一千石をあたえる。正三位をさずけられたが、 ほ・つかん 奉還。 ( 四十三さい ) じたいする。 しようきよう いわくらともみ がっ 一八七〇 ( 町治 3 ) 十一月、岩倉具視が勅使となり、上京をうな ( 四十四さい ) がす。 、わくらとも しんべい ばんへ、 一八七一 ( 既治 4 ) 玖府の参議となる。薩長土の三藩ので親兵一八七一年岩倉具 まいはんちけん けっせい ノ 視 , づ、ヨーロ " の結成。藩置県につくす。 ( 四十五さい ) しさっ がつけんかんたいし しゅうにん がつりくぐんたいしよう 一八七三 ( 明治 6 ) 五月、陸軍大将に就任。八月、遣韓大使に内視察。 ねんがくせい かんしよく 定する。十月、正轣論にやぶれ、官職をやめ一八七二年学制の たいようれき 制定。太陽暦の採 ( 四十七さい ) て鹿児島にかえる。 ようぜんこく きよういく せいねん がっしがっこう 用。全国にゆうび 一八七四 ( 明治 7 ) 六月、私学校をつくり、青年たちを教育する。 んはじまる。 ( 四十八さい ) ねんさのつね くまもとしよう 一八七七 ( 町治間 ) 二月、兵をあげ、熊本城をかこんだが、成功一八七七年佐野常 たみ はくあいしやにほん か 1 」しま せず、官軍におわれ、鹿児島にしりぞく。九民ら、博愛社 ( 日本 せきしゅうじしゃ 赤十字社 ) おこす。 ( 五十一さい ) 用二十四日、城山で死ぬ。 かごしま ごく かしろやま しようみ ちよくし し せいこ・つ ねんさっちょうど はんしゅはんせき ねん 1 7 5
さんじようきよう しんばい となっていた三条卿は、うちつづく心配とっかれのために、とっぜん、たおれ いわくらきよう だじようだいじんだいり てしまいました。そこで、はんたい、冫 尿の岩倉卿が、太政大臣の代理となって、 かいぎ 会議がつづけられました。 さいごうたいしよう 「西郷大将、もういうべきぎろんは、すべてでつくしたとおもう。どうか、も う一どかんがえなおしてもらえないだろうか。国家のためにおねがいもうす。」 さんじようきよう 「このことは、すでに三条卿から陛下にもうしあげて、おゆるしのあったこと へいか でごわす。それをまたかえようとは、陛下のおばしめしにそむくことになりも うさぬか。」 へいか 「たとえ、陛下のおおせであっても、よくないことは、おいさめしてあらため るのが、われわれのっとめでござる。」 西郷は、、 ( きどおる心を、じっとおさえつけると、 さい 1 」う こころ へいか ) 」っーか 161
ようすにうとい、幕府のけらいたちのみこみちがいでした。朝廷では、このこ とをまちかまえていたのです。 いわく , り とうばくみっちよく このときにはすでに、岩倉・西郷などのうごきにより、討幕の密勅が薩長へ ちょうてい たいせいほうかんもう わたされていたのでした。ですから朝廷では、大政奉還の申し出をうけとると、 ただちに「ゆるす。」とのごさたをくだしました。 よしのぶ ・は′、しん 慶喜をはじめ、幕臣たちは、 「あっ。」 といっておどろくとともに、ふんかいしましたが、もう、あとのまつりです。 きちのすけ ばくふ せいけん 吉之助は、幕府がたが政権をかえしたのは、かたちばかりのものであって、 ノ、・つ去」 兵をおこして、薩長とたたかおうという空気がつよいことを、みてとりました。 さつま さつまへい そこで、いそいで薩摩へかえると、 いさましい薩摩の兵三千あまりの軍をひ さっちょう ばくふ さい 1 」・つ ちょうてい で ぐん さっちょう 1 2 9
いわくらは とくがわけ りようち こうして、その夜、岩倉派のつよい意見がとおり、徳川家の領地をかえすよ , つもとめることにきまりました。 このめいれいに、幕府がたは、ひっくりかえるような大さわぎです。会津・ くわな 桑名の藩などは、 ねんてんか と / 、がわけ 「三百年、天下を事なくまもりとおした徳川家やわれわれを、かくまでくるし みち めるのは、薩長のやつらだ。かれらをたおすか、われわれがたおれるか、道は ひ と、火のようにおこりました。 きようと っぽ , つ、 いままで西宮でまっていた長州軍も、ゆるされて京都にのりこん ーし だという知らせに、幕府がたのふんがいは、ますますはげしく、 いまとなって ばくふぐんさっちょうぐん は、幕府軍と薩長軍のしようとつは、まったくさけられなくなったのです。 はん さっちょう こと よ にしのみや けん ちょうしゅうぐん おお 134
としみち きどたかよし ゅうき 利通・木戸孝允らとはかり、勇気をふ 「孝通 るって、おこなったのです。 と戸利 、木、保 しん こうして、維新のきそがかたまると、 ら大 いわくらおおくま 差《文その年の十一月、岩倉・大久保・木戸 ろ専 さいご・つ 「藤らは、るすを西郷にたのんで、ヨー つ、伊 たび し《見ロッヾ ・アメリカなどのしさつの旅に ぶんか 力」具 リ」倉のばりました。文化のすすんだヨー メ岩 ロツ。ハやアメリカのようすをじゅうぶ 「芳 やく ッ【ロんにみて、わが国のはってんに役だて ロ「山 ようと、かんがえたためでした。 ョよ允 さいごうたかもり りくぐんたいしよう いまや、西郷隆盛は、陸軍大将・近 がっ この 1 5 6
ちょうしゅうも - つりこう オカいざ幕府をうっために兵をあげようというとき、長州の毛利公のきん きようと ちょうしゅうへい しんがとかれていないので、長州兵は、おおっぴらに京都へはいることができ いわく , りともみ ません。そこで、公家の中で、もっとも力のある岩倉具視をときふせたので、 」・も - つり ) 」 - っ : つ、は′、 みっちよくてんのう 毛利公はゆるされ、そのうえ、討幕の密勅 ( 天皇のひみつのおことば ) まで、手に しれることにせいこ , っしました。 とさはん ごとうしようじろう これをしった土佐藩の後藤象二郎 さかもとりようま は、坂本竜馬とそうだんしたすえ、ねっ はんしゅやまのうちょうどうこう 一 ) 。本しんに藩主山内容堂公をといて、討幕 に力をあわせるようにすすめました。 やまのうちこう せきがはら えき だが、山内公は、関ヶ原の役このか と′、がわけ・ こ、徳ー家とはとくべつなあいたから ちから ちから ル」 - つばノ、 1 2 5
りようみん 領民も、そ「くりそのままも「ていました。これをそのままにしておいたので おうせいふつこ は、いつ、手むかいするかわかりません。王政復古も、名まえだけのものにお わってしまうおそれがあります。 いならぶ人々のあいだに、はげしいぎろんがたたかわされ それをめぐって、 こころ とくがわけ いわくらきよう 、まる岩倉卿と、徳川家に心をよせている ました。わけても、倒幕をつよくいし ( ひばな とさやまのうちょうどうこう 土佐の山内容堂公とが、火花をちらさんばかりです。 おおくば かお かいぎ きちのすけ 吉之助は、この会議には顔をみせず、大久保にい「さいをまかせて、自分は ごしょ 御所のけいかいにあたっていました。 おおくば しんばい はなし かいぎ 会議は、ながながとつづき、さ「ばり話がまとまりません。心配した大久保 かいぎ けん きちのすけ は、こっそり吉之助に意見をもとめにかけつけました。会議のもようをきいて きちのすけ いた吉之助は、 ひとびと な じぶん 1 31
ごしょちをおねがいいたします。さもなくば、わたくしのカでは、不平のやか団 らをとりしずめにくいのです。」 よしのぶこう 「よろしい、できるだけつくしてみましよう。しかし、慶喜公の身がらのこと そうとくみや は、わたしひとりではきめかねます。総督の宮のおさしずも、うかがわねばな きようと ナ ( 力とおもいま らぬし、つごうによっては、京都までいってこなければならよ、ゝ すんぶ そうとくみやばくふ きちのすけ 吉之助は、さっそく駿府にいって、総督の宮に幕府がわのかんがえをもうし きようと あげると、京都へむかいました。 きど さんじよう いわくらおおくぼ かいぎ がつはつか よしのぶ 三月二十日、慶喜のしよぶんをきめる会議は、三条・岩倉・大久保・木戸・ えど ひろさわ 広沢と、江戸からかけつけた西郷の六人でひらかれました。おもだったものは さい 1 」・つ よしのぶしざい ほとんど、「慶喜を死罪にせよ。」といってゆずりませんでしたが、西郷がいっ 0 さいご - っ ちから み
たび 「わが国にとってたいせつな人物を、そんなあぶないところへや「て、もしも のことがあったら、それこそとりかえしがっかない。」 とおどろいて、なかなかさんせいしません。 しかし、西郷は、 ( このようなことは、一日もはやくかたづけねばならない。 ) さんじようきよう がっ とおもい、ねっしんに三条卿をときふせたところ、八月におこなわれた政府の かいぎ めいじてんのう 会議で、西郷が朝鮮にいくことにきまり、明治天皇のおゆるしをもらうことも できました。西郷のよろこびはたいへんなものでした。一身をなげう「て、国 のためにつくすときは、まぢかにせまったのです。 いわくらたいし ねんがっ おうべい そこへ、岩倉大使の一行が、一八七三 ( 治六 ) 年九月、ながい欧米しさつの がっ ねん ないかくぜんいん 旅をおえてかえ「てきました。さ「そく、十月十四日、二年ぶりに内閣全員に さいごうちょうせん さいご・つ さい 1 」・つ にち じんぶつ しん せいふ