島津斉彬 - みる会図書館


検索対象: 明治維新の功労者 西郷隆盛
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1. 明治維新の功労者 西郷隆盛

こころ と、かたく、いにちかうのでした。 きちのすけ やく ねんかん 吉之助は、この役を二十七さいまで、九年間もつづけました。そのあいだに、 こころ ひやくしようのことについて、くわしくしることができました。ただしい心の きちのすけ つよい吉之助は、みじめなひやくしようのくらしをみたり、まがったことをす やくにん うわやく る役人たちをみると、だまっていられなくなり、上役にそのことをうったえる けんしょ 意見書を、なんどもかいたりしました。 けんしょ しまづなりあきらこうめ この意見書は、とのさまになるまえの島津斉彬公の目にもとまり、のちに、 きちのすけ なりあきらこう 吉之助が斉彬公におもくもちいられるもとになりました。

2. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ー第 0 発 0 を ↑西郷隆盛の生まれたところ ( 西郷隆盛生誕に 之地という石碑が立っている。 ) →下級武士だった西郷をひきたててくれた , さつまはんしゅしまづなりあきら 薩摩藩主島津斉彬 ↓東京上野公園にある西郷の銅像 こ・うたかもりせいたん せきひ とうきよううえのこうえん →奄美大島で西郷が住んだ家 あまみおおしま

3. 明治維新の功労者 西郷隆盛

一八五一 ( 蓴四 ) 年の春、薩摩のとのさまは、一世の名君といわれた島津斉 きちのすけ あきらこ・つ 彬公にかわりました。吉之助の二十五さいのときでした。 なりあきらこう 斉彬公は、そのころの大名の中でも、もっともすぐれた人物のひとりでした が、ながいあいだめぐまれなかった人で、藩主になったときは、もう四十三さ いになっておりました。 どだい はんせいじ 公は、くさりきった藩の政冶を土台からたてなおすために、人物をやしなう けっしん こ、夬、い ワ 3 カ子 / し、 ) イ えど はじめて江戸へ ねんはるさつま だいみよう ひと はんしゅ めいくん じんぶつ じんぶつ しまづなり

4. 明治維新の功労者 西郷隆盛

へん 外の変」で井伊大老がたおれたあと、慶喜は、 しようぐんこうけんしよく まつだいらよしなが 将軍後見職となり、松平慶永は、幕府政事 裁となりました。 ちょうしゅうせいばっ とくがわ 徳川十四代将軍家茂が、長州征伐のとちゅ きゅうびようし につばんないせい 一八三七 5 一九一三年 うで急病死したころ、日本は内政・外政とも とくがわなりあき とくがわよしのぶ に大こんらんのときにありました。 徳川慶喜は、水戸の徳川斉昭の七男に生ま まつだいらよしなが しようぐん ひとつばしけ そこで、松平慶永は、つぎの将車をえらぶ れ、十一さいのとき、一橋家をつぎました。 きしゅうけ おわりけ えちぜん かいぜん ばくふ のに、まず、尾張家ではだれ、紀州家ではだ そして、幕府の政治を改善しようとした越前 ゅび しようぐん さつまはんしゅしまづなりあきら はんしゅまつだいらよしなが 藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬にすいせんれ、といちいち指をおっていきました。将軍 おわり とくがわ だいしようぐんこうほ に実子がないときは、徳川の御三家 ( 尾張・ されて、十四代将軍の候補にたてられたので たやすひとつばし しみす いなおすけ たいろう すが、当時の大老井伊直弼にはんたいされて紀伊一水戸 ) と御三卿 ( 田安・一橋・清水 ) じっげん 0 の六家のうちからえらぶことになっています 実現しなかったのです。 しゅうしん まんえんがんねん 重臣たちがかたずをのんでみまもるなかで、 しかし、一八六〇 ( 万延元 ) 年の「桜田門 れきしじんぶつじてん 歴史人物事典 とくがわよしのぶ 徳川慶喜 なんう く ん ねん だいしようぐんいえもち たいろう きよう ば く ふ よしのぶ 188

5. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ぎやっきよう 逆境をのりこえて しぞくで わか 西郷隆盛は、生まれは鹿児島のまずしい士族の出で、六もの弟や妹がおり、若くして父母 を失い、この家族をやしなわなければなりませんでした。 はんやくしよしよき やく のうみんくる しかし、ようやく藩の役所の書記のひくい役をえて、農村にでかけては、農民の苦しさを身 し こころ よわもの まな こころ せんばい をもって知り、弱い者への愛の心をやしないました。学ぶ心も強かったので、すぐれた先輩に ち はんしゅしまづなりあきらみ 近づき、日本のおかれた地位にも目がひらかれました。それとともに、藩主島津斉彬に見いだ かつやく されたことが、かれの世にでて大きく活躍できるきっかけとなりました。藩主にしたがって、 かごしま えど みとふじたとうこ えちぜんはしもとさない 鹿児島から江戸にでて、水戸の藤田東湖、越前の橋本左内など、すぐれた人物ともまじわり、 とくがわばくふ もんだい うんどう 国の政治とかかわりのある徳川幕府のあとつぎ問題にも、おおいに運動するようになります。 こころ なりあきらきゅうしご しかし、かれを見いだしてくれ、また心からそのためにつくしていた斉彬の急死後、天下の はんじしよう ぎやっきよう ようすも藩の事情も一変し、にわかにかれは逆境におちいりました。 そうげつしよう とうしんじさっ そのため同志の僧月照とともに投身自殺をはかり、さいわい西郷は助かりましたが、三年余、 くにせいじ さいごうたかもり につぼん どうし かぞく ・つ み よ かごしま おお め のうそん さいごうたす つよ おとうと いもうと じんぶつ はんしゅ てんか ねんよ 1 8 2

6. 明治維新の功労者 西郷隆盛

きちのすけ 主人をおもう権兵衛じいやのま心を、よろこんでうけた吉之助は、一月二十 ぎようれつ えど にちしまづなりあきら 三日、島津斉彬の行列にくわわると、あこがれの江戸へとむかっていきました。 しんぶつ 人物とのまじわり えど きちのすけ しばたかなわ 三月、あこがれの江戸の地を、はじめてふんだ吉之助は、芝高輪にある薩摩 やしきに、わらじをぬぎました。 きちのすけ みとはんふじたとうこ ふく、 , 、まんはしもとさない えど 江戸では、吉之助は、水戸藩の藤田東湖、福井藩の橋本左内など、すぐれた おお 人物としりあい、ますます大きく目をひらかれました。 め こうしたあいだにも、世の中は、目まぐるしくうつっていきました。外国の かいこど、 くろふね 黒船は、たえまなくわが国の近海にあらわれ、開国をせまってきました。国内 しんぶつ しゅじん がっ ごんべえ よ ち きんかい ごころ め がいこ′、 がっ さつま こくない

7. 明治維新の功労者 西郷隆盛

( 年齢は数え年 ) で 世の中のうごき がつなのか かごしましもかじゃまち 一八二七 ( 文政川 ) 十二月七日、鹿児島の下加治屋町で生まれる。一八二七年調所広 ちちきちべえ ちょうなん こきち 父吉兵衛、母満佐子の長男で、小吉と各づけ郷、薩摩滯の肱政 られる。 改革をはじめる。 せいどう みちゅうじん ねんおおさか 一八三九 ( 天保川 ) 聖堂のかえり道、友人とあらそい、右うでに 一八三七年大阪で おおしおへいはちろう らん けがをする。 ( 十三さい ) 大塩平八郎の乱。 こおりぶぎよう さこたたじ えもん 一八四四 ( 弘他 1 ) 郡奉行、迫田太次右衛門のもとで、郡方書役一八四一年天保の かきやく かいかく 助となる。のち書役にあがる。 ( 十八さい ) 改革はじまる。 がっちちきちべえ がつははまさこ 一八五二 ( 嘉永 5 ) 九月、父吉兵衛が、十一月、母満佐子が死ぬ。 ねんにちぺいわ ( 二十六さい ) 一八五四年日米和 あんせい がつはんしゅしまづなりあきら しんしようく 一八五四 ( 安政 1 ) 一月、藩主島津斉彬が、参勤で江戸へのぼる 親条いをむすび、 みとふじたとうこ とき、これにしたがう。水戸の藤田東湖、越下田・酎館を閉 . 、。 さいごうたかもりねんびよう 西郷隆盛の年表 年 ねん てんばう ぶんせい 代 と えち かいか / 、 よ ねんれい かぞどし 172

8. 明治維新の功労者 西郷隆盛

なりあきらこ - っ みとはんしゆとくがわなりあき 斉彬公は、水戸藩主の徳川斉昭の七 なんひとつばしよしのぶしようぐん 男、一橋慶喜が将軍にもっともふさわ じんぶつ 。 ) 靄こ弘しい人物であると目をつけ、もっとも びんご ひろしまけんふくやまはんしゅ したしい備後 ( いまの広島県 ) 福山藩主の ろうじゅうあべまさひろ こうしたこみいったそうだんには、 なりあきらめ きちのすけ 斉彬の〈をうけた吉之助がかけまわり、 けん さいごう ひと ほうぼうの意見をまとめるのにつとめました。そのため、西郷の名と人がらは、 ひと にほかの藩のおおくの人たちにしれわたり、また、おもんじられるよう になっていったのです。 えちぜんふくい , まんしゅまつだいらよしなが このもんだいで、とくにねっしんだったのは、越前福井藩主の松平慶永 ( 春 はん ろうしんう ロ卩い しゅん

9. 明治維新の功労者 西郷隆盛

それとゆきちがいのように、国もとから、いそぎの使いがとんできました。 ししゃ てがみ きちのすけ 使者がもってきた手紙をひらいてよんでいた吉之助は、あまりのおもいがけ てんち てがみ なさに天地がまっくらになるほどおどろき、手紙をもつ手が、ぶるぶるふるえ だしました。 なりあきらこ - っ きゅうし それは、斉彬公の急死をつげているのです。 きちのすけ げんき さすがの吉之助も、たましいがぬけたようになり、元気だったころの名君の おもかげをおもいだしては、毎日、かなしみのなみだにかきくれるのでした。 なりあきらこ・つ てんか しなことは , も , つ、なにもできな ( 斉彬公がなくなられたからには、天下のだい、 ( よし、この力をもりたてて、幕府をたおそう。 ) さつま なりあきらこ - っ しようきよう とかんがえると、いそぎの使いを薩摩へおくり、斉彬公の上京をうながしまし ちから まいにち つか めいくん

10. 明治維新の功労者 西郷隆盛

きんのう ししひらのじろうくにおみ ひらの 勤王の志士平野次郎国臣にあいました。平野は、月照のくしんしているすがた をみると、 「わたしが薩摩まで、おともいたしましよう。」 ばくふ にんそうが と、もうしでるのでした。幕府は、月照の人相書きを各地にくばって、これを とらえたものには、ほうびをやる、というおふれさえだしていました。 なりあきらこう きちのすけ さつま しっぽう、吉之助が、薩摩にかえってみると、斉彬公がなくなったあと、藩 なりあきらこうおとうとひさみつ のようすはすっかりかわっていました。とのさまには、斉彬公の弟の久光の子 はんせい ただよし こうけんやく で、まだわかい忠義がなり、久光が、その後見役として藩政をみていました。 月照とともに さつま ひさみつ げ げ かくち はん