そうさい かんりんまる 総裁をしていた海舟は、 四百トンの咸臨丸は、日本からはじめての太 たいめん とくがわけ にちかん 「徳川家の体面だとか、武士の意地などとい 平洋横断にのりだし、三十七日間かかって、 , つ、小さなことにこだわっているときではな みごとにサンフランシスコにつきました。 にっぽん ぐんかんぶぎよう きこく 1 」 。もし、日本が二つにわれてあらそってい 帰国後、海舟は、軍艦奉行となり、一八六 しんりやく かいぐんそうれんじよ ねん るすきに、外国に侵略されたらどうする。」 三年には、神戸に海軍操練所をひらき、ひろ しんせいふさんほうさいごうたかもり か ~ 、はん く各藩から生徒をあつめて、日本海軍の養成と、みんなをなだめ、新政府の参謀西郷隆盛 まちせんそう とはなしあって、江戸の町に戦争をおこすこ に力をそそぎました。 えどしよう ねんしようぐんとくがわよしのぶ となく、ぶじに江戸城をあけわたしたのです。 一八六七 ( 慶応三 ) 年、将軍徳川慶喜は、 かいぐんきよう めいししんせいふ えどばくふ じつけんちょうてい 海舟は、明治新政府で、一時、海軍卿など 政治の実権を朝廷にかえし、江戸幕府をとじ すいじん えどじようこうげき しんせいふ ました。しかし、新政府が江戸城攻撃のほうをつとめましたが、まもなくやめて、「吹塵 りくぐんれきし ひかわせいわ かいぐんれきし ばくふ しんをかえないため、幕府がわについていた録」「海軍歴史」「陸軍歴史」「氷川清話」など よせい ほん こうげき 人たちにも、攻撃をむかえうとうという意見の本を書いて余生をすごしました。 あらいひでお ばくふりくぐん ( 新井英生 ) がつよくなりました。このとき、幕府の陸軍 へいようおうだん ひと ちから こうべ けいおう にっぽん にほんかいぐんようせい カ かいしゅう じ 187
どくる つづいて島津久光にうとんぜられて二年余の、二度も苦しい島送りの生活をせねばなりません でした。 てんかうご しかし、大きな天下の動きは、かれのすぐれた才能・人柄をそのままうずもれさせておきま もくてき きようと せん。ようやくよびもどされて、京都に上るや、幕府をたおし政権を朝廷にかえすことを目的 だいそう じっげん とさ ちょうしゅう だいかつやく に、大活躍をはじめ、長州・土佐の志士とむすんで着々とそれを実現させました。そして大総 かっかいしゅうかいだん えどじようこうげき さんほ・つ 督府の参謀として、江戸城攻撃に当たり、幕府がたの勝海舟と会談し、それを中止させ、江戸 しる を兵火からすくったことはまえに記したとおりです。 こうした大きなてがらをたてたにもかかわらず、その後故郷にかえっていたのを、ふたたび ちょうせんもんだい りくぐんたいしようか さんぎ めいじせいふ まね こ缶ぜられ、陸軍大将を兼ねました。ところが朝鮮問題で、その意 招かれて、明治政府の参議 ( しがっこうひ・り やくだ 見がいれられなか「たため野に下り、鹿児島にかえり、私学校を開いたことなどが、政府がわ ひげきてき せいなんえき に誤解されました。ついにおされるままに、西南の役をおこし、悲劇的な最期をとげるに至り ました。それにもかかわらずしたわれているのは、わが身をかえりみず、まことの人として維 新の大業をやりとげたからです。 しんたいぎよう しまづひさみつ おお おお ねんよ か 1 」しま のぼ ばくふ さいの・つひとが・り ばくふ ちゃくちゃく こきよう しまおく せいけんちょうてい せいかっ ひと えど 183
きようと きつれて、京都へひきかえしてきたのでした。 きど にしのみや つづいて、木戸も長州兵をつれて西宮につき、幕府をうつ用意は、ちゃく ちゃくとととのいました。 ねん がっここのか おうせいふつこ 一八六七 ( 慶応三 ) 年十二月九日、とっぜんに王政復古 ( むかしにかえって、天 せいめい めいじてんのう 皇がちよくせつ国をおさめること ) の声明がだされ、時をうっさず、明治天皇のま かいぎ えで、会議がひらかれました。 じ しきふく いわくらともみ かお 夜八時、式服をきた岩倉具視は、天皇のおことばと、新政府の顔ぶれの発表 はんし 文とをかかえて、あらわれました。皇族や公家、かずかずの大名や藩士たちの いならぶまえで、声もたからかに、それをよみあげられました。 おうせいふつこ とくがわけ こうして、王政復古はなりましたが、 あとには、徳川家をどうするかのもん とくがわけ りようち だいがのこっています。徳川家は、政権を朝廷におかえししましたが、領地も ぶん のう よる けいお・つ ちょうしゅうへい せいけんちょうてい てんのう こ - っぞ′ \ とき しんせいふ だいみよう よう はっぴょう てん 1 3 0
こくみんあんしん 府の力をつよくしようとかんがえたからです。ついで、国民が安心してくらせ けいしちょう けいさっせいど まの警視庁のはじまりで るように、警察制度をつくりあげました。これが、い す。 はいはんちけん し 1 」と 西郷が政府にはい「ておこな「た、も「とも大きな仕事は、廃藩置県でした。 ぜんこく そのころ、江戸幕府はたおれましたが、全国はまだいぜんのままに、諸大名 てんのうちゅうしんおうせいふつこ か領地とをも「ているので、ほんとうの天皇中心の王政復古はできあが「て ちょうてい りようみん りようち はんしゅ いませんでした。そこで、藩主たちから、領地と領民とを朝廷にさしあげさせ、 はんしゅ けんぐん 全国に府・県・郡をおいて、あたらしく知事が藩主たちにかわ「て、おさめる よ , つにしました。 これは、ふるい藩制度になれた人たちに、つよくはんたいされるおそれが さいごうおおくぼ あ「たので、だれもためら「て、手をつけられないでいたのを、西郷が大久保 はんせいど ひと おお しょだいみよう 1 5 5
いたがきたいすけ けん せいふ これにたいして、政府では、二つの意見がありました。板垣退助らは、 しゅうこうじようやく にほんじん ふざん 「日本人をまもるために、兵をひきいてプサン ( 釜山 ) にわたり、修好条約をむ すぶべきだ。」 というのにたいして、西郷は、 せいふ かんこくちょうせんせいふ 「おいどんは、政府のせきにんある大使をおくり、韓国 ( 朝鮮 ) 政府をといて、 ふかくはんせいさせ、もし、おこって使いのものに害をくわえたとき、はじめ て兵をさしむけるのがよいとおもう。」 というのでした。そのうえ、 「その使いには、どうか、おいどんをやらしてもらいとうごわす。」 . し と、死をかくごして、使いの役をみずからかってでたのでした。 だじようだいじんさんじようさねとみ これをきいた太政大臣の三条実美は、 つか さい 1 」 - っ つか つか 158
「先生、おもわぬ大事になりもうしたなあ。」 「うむ、なにごとも天でごわすよ。」 西郷は、すでにかくごをきめていました。 たちば せいふ しようめん でしたちのつみをとがめず、政府との正面しようとっという、くるしい立場 てんめい におかれながら、すべてを天命にまかせているすがたに、なみいるものたちは、 ひと しがっこう なみだをもよおしました。そこで、私学校のおもな人たちはそうだんしたけっ せいふ しがっこ - っ 「このさわぎにかこつけて、政府はかならず、私学校をおしつぶすにちがいな い。だまってみているより、こちらから兵をひきいて、政府にわけをたずねた ほうがよろしい。」 けっしん と、西郷の決心をたずねるのでした。西郷はだまってきいていましたが、 せんせい さい 1 」・つ さいご - っ てん さい 1 」 - っ せいふ 1 6 6
もうごきがとれなくてこまっていました。 そこで、政府のおもだった人々は、しきりに西郷に力をかすことをうながし めいじてんのう ましたが、 西郷はなんといってもでてこようとしません。わかい明治天皇は、 こころ いわくらきよう きど おおくば たいへんお心をおなやましになり、岩倉卿を使いとし、大久保・木戸などをお さつま じようきよう ともとして、はるばる薩摩へやって、西郷の上京をうながしたのです。 そこで、西郷は、ふたたび、 しんせいふ 「新政府のためにいっしようけんめいはたらこう。」 ねんがっふつかとうきよう さんぎ と、一八七一 ( 明治四 ) 年二月二日、東京にかえり、六月には参議となりました。 しんご きちのすけ たかもり なお、明治維新後、西郷は、吉之助の名を隆盛とかえました。 さい 1 」・つ ぐんたい かんせい 西郷は、まず、軍隊のしくみをととのえて、 いくさのそなえを完成させるこ さっちょうど とにしました。薩・長・土の三藩から兵をあつめ、まんいちにそなえて、新政 さい 1 」 - っ さいごう せいふ さい 1 」 - っ ひとびと ばん さい 1 」う つか さいご・つちから がっ しんせい 154
きちのすけ 正 = 一位というたかいくらいをさずけましたが、これもことわりました。吉之助 ュよ、 じゅみ ( 藩主の島津忠義公が従三位なのに、自分がその上になるのはもうしわけな とかんがえたうえ、 ( 生きのこ「た自分たちだけ賞にあずか「ては、維新の大業をはたすためにた おれた、地下の同志たちにあいすまない。 ) とおもったからです。 きちのすけ しかし、朝廷では、吉之助のじたいをおゆるしになりませんでした。それば しんたいぎよう めいじしんせいふ かりか、できてまだ日のあさい明冶新政府は、維新の大業をなしとげるための、 たい力しカくて いろいろな国内の大改革に手こず「ていて、西郷の力をかりなければ、どうに しよう じぶん さいごう ・つ - え しんたいぎよう ちから 1 5 3
「それじゃ、おはんらのおもうとおり、やんなされ。」 かお 、いこいこしい顔で、こたえました。 ねんがっ にちさいごうたかもり 一八七七 ( 明治十 ) 年二月十五日、西郷隆盛をしたう一万五千の瓦は、おりか おおゆき せいふ らの大雪の中を、政府のせきにんをとうため、どうどうと軍をすすめはじめま ありすがわのみやせいとうそうとく すると、政府は、有栖川宮を征討総督にして、五万の大兵をくりだして、西 とくがわっいとう さんばう 郷軍追討のめいれいをだしました。かって徳川追討のとき、西郷がその参謀を そうとくみや っとめた宮が、いま、はんたいに西郷をうつ総督の宮となったのです。 さいごうぐん じようじよう せんばう 西郷軍が、一城一城をうちゃぶっていく戦法をとったのとははんたいー ・かいり冫、 さいごうぐんたにたてき くまもとじよう 府軍は、海陸二方面からせめたため、西郷軍が谷干城のこもる熊本城に手こ か 1 」しま かいぐん ずっているあいだに、鹿児島は海軍によって、うばわれてしまいました。 ごうぐんついとう と ふぐん みや せいふ ほうめん さい 1 」・つ まんたいへい まん ぐん さい 1 」う こ、政 168
と・つきよう ところが、このうわさが東京にったわると、ただでさえ、隆盛にたいして、 たいかん なんとなくうすきみわるくおもっていた政府の大官たちは、うたがいの目をひ からせるようになりました。 さつま そこで、薩摩のようすをさぐるために、こっそりと、ス。ハイをおくったので しがっこ・つせいと とうきよう ある日、私学校の生徒たちが、東京からきたス。ハイのひとりをつかまえると、 ス。ハイは、 ーしがっこ - っ 「私学校をつぶすためにやってきたのであって、そのもくてきをたっするため さい 1 」・つ に、西郷をもつけねらっていた しがっこ - っせいと とはくじようしました。これをきいた私学校の生徒たちのいかりは、ばくはっ してしまいました。 ひ せいふ たかもり 164