ちずさんこう しんけんきゅう さがしていた地図がのっていました。 心に研究していたので、その地図を参考に、 ほん ほんたかはし けんきゅうせいか シーボルトは、その本を高橋にあたえ、そそれまでの研究の成果を「日本ーという本に たかはし のうただたか につばん のかわりに、高橋から、伊能忠敬がつくった まとめて、ヨーロ ッヾに、ひろく日本をしょ だいにほんえんかいよちぜんず 「大日本沿海輿地全図ーをもらいました。 , つかいしました。 じけん がいこくじん ところが、そのころの日本では、外国人に 事件の三十年後の一八五八 ( 安政五 ) 年、 つうしようしようやく 地図をわたしてはいけよい、 とい , つきまりに 日本とオランダのあいだに通商条約がむすば きこく ねん こくがいついほう なっていたため、一八二八年、帰国するシー れ、国外追放をとりけされたシーポルトは、 にもっ のうただたか ねん ばくふ ポルトの荷物から、伊能忠敬の地図がみつ そのよく年ふたたび日本にきて、幕府の顧問 おお きこく ねんかん かったときには大さわぎになりました。シー として四年間はたらき、帰国しました。その こくがいついほう たかはし ポルトは、国外追放となり、高橋はとらえら後も、ヨーロツ。ハにあって、日本のためにさ 1 」くし ゅうめい れて獄死してしまいました。これが、有名な まざまなカぞえをしましたが、一八六六 ( 慶 ねん 「シーポルト事件」です。 応一 l) 年、ドイツのミュンヘンでなくなりま あらいひでお しかし、シーボルトは、日本についても熱した。 ( 新井英生 ) じけん にっぽん につばん おう にっぽん ちから にっぽん につばん につほん あんせい ねん こもん 1 8 5
せかい えどばくふ 「おまえらは、もっとひろく世界に目をむけなければ、だめじゃ。江戸幕府は、 ねんたいへい せかい ばくふ 三百年の太平になれて、世界のことはわからなくなっておる。ほねなし幕府の 力し ) 」・つ にっぽん 外交がわるければ、日本はどうなるとおもうか。日本は、幕府の日本ではない のだぞ。 せいねん そこでだ、おまえらわかい青年がおおいにふんばっして、このあぶない日本 をすくわなければ、 したし、たれかすくうというのじゃ。」 よ ありませんせい はよし め 有馬先生の世の中をみぬいた話に、 ふたりの目は、大きくひらかれていくの でした。 にっぽん め にっぽん おお ばくふ につぼん
かんしよく さんぎ 衛都督・参議というくらいのたかい官職にのぼっていました。 一八七三 ( 明治六 ) 年の夏ごろから、わが国と朝鮮のあいだに、いろいろと ゝ、よもんだいがもちあがりはじめました。 やっ力しナ ひとせいじ たいいんくん ちょうせん そのころの朝鮮は、大院君という人が政治のけんりよくをにぎ「ていて、鎖 こくしゅぎ 国主義 ( 国をとざして、外国とこうしようしない ) をかたくまもり、ちょうど、幕 につばん力いこ / 、 末の日本と外国とのかんけいにもにていました。 ちょうせん 日本がまじわりをもとめ、開国をきぼうしているのに、朝鮮は、外国とのま じわりをいっさいしりぞけ、なんど使いをおくってもしようちしません。その にほんせいふ , っえ、日本政府に、 にほんじん力いこうかん ちょうせん 「朝鮮にいる日本人の外交官を、日本へひきあげさせてもらいたし といってきました。 まっ えととく にっぽん ねんなっ につばん つか ちょうせん 六一 1 5 7
* 著者紹介 福田清人 1904 年 , 長崎県に生まれる。東大国文科卒業。 立教大学・実践女子大学て教授をつとめた。 現在 , 日本文芸家協会理事 , 日本児童文芸家 協会会長。「春の目玉」 ( 国際ァンデルセン賞優 良賞 ) , 「秋の目玉」 ( 野間児童文芸賞 ) , 「天平の 少年」 ( サンケイ児童出版文化賞 ) など , 多数 の著書がある。 * 画家紹介 上総潮 1926 年 , 東京都に生まれる。日本画を学んだ のち , 出版美術の世界にはいり , 児童図書の 装画・さし絵の分野て活躍中。伝記の作口に 「べートーベン」「チャイコフスキー」「宮沢賢 治」などがある。 ロロラ
してみせるのでした。 「どうじゃ、これがわかるか。」 はなし きちのすけ せかいちず みると、五色のえのぐできれいに色わけした世界地図です。吉之助は話には きいておりましたが、それをみるのは、きようがはじめてでした。 せかいちず 「これは、世界地図ではございませんか。」 せかい 「いかにも、そのとおりだ。世界の国々は、これだけあるのだが、わが日本の 国はどれかな。どこにあるかわかるか。」 ふたりはひざをすすめ、目をみはって、いっしようけんめいにさがしまわる うちに、やっとみつかりました。 「先生、ここにありました。ずいぶん小さいですなあ。」 「はつはつは。あるかないかわからんほどの小さい国が、わが日本だ。その中 せんせい しよく につぼん につばん
がくしゃ え、多くの学者をそだてました。 日本にきて三年後、シーポルトがはじめて えど しよもつぶぎよう 江戸にでたときのことです。幕府の書物奉行 てんもんかたひっとうたかはしかげやす で、天文方筆頭の高橋景保が、シーポルトに めんかい たかはし ばくふ 面会をもとめてきました。高橋は、幕府の命 まみやりんぞう フィリップ日シーポルトは、ドイツのビュ 令で、樺太を探検した間宮林蔵の資料をもと う しんていばんこくぜんす まみや ルップルクに生まれました。ビュルップルク に、「新訂万国全図」をつくりましたが、間宮 だいがく しよくぶつどうぶつがく からふととうほくがんせいがん 大学で、医学のほかに植物・動物学などをおがしらべられなかった樺太東北岸と西岸は、 ふんせい そうぞう さめ、東洋にあこがれて一八二三 ( 文政六 ) 想像で書きました。そこで、シーボルトにた にっぽん さんこう 年に、日本へやってきました。 のんで、参考になるものをもとめたのです。 ながさき しようかん よう 長崎のオランダ商館づきの医師としてはた シーポルトは、こころよくもちあわせの洋 なるたきしゆく たかのちょうえい しょ らくいっぽう、鳴席塾をひらき、高野長英な 書をみせましたが、そのなかのルーゼンシュ せいよういがく ひとか せかいしゅうこうき ど数十人の日本のわかものに西洋医学をおし テルンという人が書いた「世界周航記」に、 ねん すう の とうよ・つ につばん れきしじんぶつじてん 歴史人物事典 シーポルト 一七九六ー一八六六年 し ねん につぼん おお からふとたんけん ばくふ しりよう 184
ちょうてき しき 1 」むものはかりでした。なかには、フラ はよばなしく一いくさしょ , っと、 へいき かんぐん ンスから軍隊や兵器をかりて、官軍をやつつけようというものもありました。 にっぽん かっかいしゅう しかし、けらいの中でも、日本のいまのありさまをよくしっている勝海舟だ かんぐん 「幕府が、い ま、ひっしとなって官軍に手むかえば、たやすくやぶれさるとい こんにち こノ、ない うこともありますまい。しかし、ム「日のじせいは 、いたずらに国内のあらそい に時をついやすべきではなく、国をあげて日本をまもるべきときです。いま、 4 は ちょうてい 朝敵のけがれた名をうけるのは、なんとしてもしのびがたいことです。朝廷に したがうのがよいとおもいます。」 ごころ よしのぶ と、ま心をこめて、慶喜をいさめました。 とくがわよしのぶ 徳川慶喜は、勝のことばにうごかされて、上野寛永寺にひきこもって、あと ばくふ ぐんたい ひと かっ て にっぽん うえのかんえいじ 14 0
そうさい かんりんまる 総裁をしていた海舟は、 四百トンの咸臨丸は、日本からはじめての太 たいめん とくがわけ にちかん 「徳川家の体面だとか、武士の意地などとい 平洋横断にのりだし、三十七日間かかって、 , つ、小さなことにこだわっているときではな みごとにサンフランシスコにつきました。 にっぽん ぐんかんぶぎよう きこく 1 」 。もし、日本が二つにわれてあらそってい 帰国後、海舟は、軍艦奉行となり、一八六 しんりやく かいぐんそうれんじよ ねん るすきに、外国に侵略されたらどうする。」 三年には、神戸に海軍操練所をひらき、ひろ しんせいふさんほうさいごうたかもり か ~ 、はん く各藩から生徒をあつめて、日本海軍の養成と、みんなをなだめ、新政府の参謀西郷隆盛 まちせんそう とはなしあって、江戸の町に戦争をおこすこ に力をそそぎました。 えどしよう ねんしようぐんとくがわよしのぶ となく、ぶじに江戸城をあけわたしたのです。 一八六七 ( 慶応三 ) 年、将軍徳川慶喜は、 かいぐんきよう めいししんせいふ えどばくふ じつけんちょうてい 海舟は、明治新政府で、一時、海軍卿など 政治の実権を朝廷にかえし、江戸幕府をとじ すいじん えどじようこうげき しんせいふ ました。しかし、新政府が江戸城攻撃のほうをつとめましたが、まもなくやめて、「吹塵 りくぐんれきし ひかわせいわ かいぐんれきし ばくふ しんをかえないため、幕府がわについていた録」「海軍歴史」「陸軍歴史」「氷川清話」など よせい ほん こうげき 人たちにも、攻撃をむかえうとうという意見の本を書いて余生をすごしました。 あらいひでお ばくふりくぐん ( 新井英生 ) がつよくなりました。このとき、幕府の陸軍 へいようおうだん ひと ちから こうべ けいおう にっぽん にほんかいぐんようせい カ かいしゅう じ 187
なんしゅうおう 西郷さんののこしたことばは、「南洲翁遺訓」などにまとめられております。南洲というのは なか が′」う その雅号です。その中に、 ひとびと しん 「後の世まで人々に信ぜられ、あおがれ、またよろこんでその人にしたがっていかせるものは、 せけん ただひとつ、まごころがあるということだ。そのまごころがなくて、世間からほめられるのは ひと ふか まぐれあたりの幸せだ。まごころが深いと、たとえ、そのときはそれに気づく人がなくても、 のち 後の世にかならず、それをよくわかってくれる人がでてくるものだ。」 という意味のことをのべたり、また、 てんあいて ひとあいて 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、おのれをつくして、人をとがめす、自 ぶん 分のまごころが、まだ足りないということをかえりみて、つとめよ。 といった意味のことも書いています。 西郷さんは、まごころと大きな愛をもち、そしてまったく地位とか金とか名誉とかには欲が こんにちにつばん なく、その一生をつらぬきました。そして、古い日本から、新しい今日の日本につながる明治 いのち 維新という世の中のかわり目を、命をかけてやりとげました。 さいごう さいごう しん しよう しあわ なか てんあいて おお いくん ふる ひと につぼん あたら ひと かね ひと なんしゅう よく 1 81
あんせい 安政の大獄 : 月照とともに 3 島のえいゅう 島ながし : 国のよびだし : ふたたび島ながし : 島から島へ : につばん よあ 4 日本の夜明け 薩長のむすびつき : ・ ばくふ 幕府のさいご : えどじよう 江戸城あけわたし : さっちょう し よ たい 1 」く 137 122 108 99 91 81 69