ひ きちのすけ ) 」の - んこ・つ きちのすけ ある日、吉之助のもとに、近衛公からまねきの使いがきました。吉之助が、 げつしよう このえこう こ - ん いそいでいくと、そこには月照もいました。近衛公は、声をひそめて、 げつしようみ 「西郷、よくきてくれた。そなたもしようちのように、 この月照の身のうえが あぶないのじゃ。ひとつ、どこかへかくまってもらいたいのだが。よろしく、 たのむ。」 「はつ、しようちいたしました。いのちにかけておまもりいたしましよう。」 きちのすけ と、吉之助は、さっそくひきうけました。 きちのすけ げつしよう 吉之助は、月照をまず奈良にかくそうと、かんがえました。 このえけ その夜、月照を近衛家からつれだすと、有村俊斎とそうだんをして、月照だ けをかごにのせていくことにしました。 きようと まち ちゃみせ 京都の町はずれに、一けんの茶店があり、府のとりかたが二十ばかり、 さいごう よ げ ・つ し よ ありむらしゅんさい し よ
そして、藩の重臣たちは、みな佐幕 ( 府のみかた ) にかたむいて、とても藩内 げつしよう に月照をかくまうことなど、できそうにもありませんでした。 ひらのじろう げつしよう そのうちに、平野次郎につれられた月照が、やまぶしのすがたにみなりをか さつま えて、やっとのことで、薩摩にたどりつきました。 きちのすけ げつしよう はんやくにん ところが、まだ吉之助とれんらくがっかないうちに、月照たちは藩の役人に つかまってしまいました。 藩では、幕府ににらまれたら、こ、 オしへんだというので、 ほっけでら みやざきけん 「月昭を日向 ( いまの宮崎県 ) の法華寺へおくるようにせよ。」 きちのすけ と、吉之助にめいれいしてきたのでした。 「なに、永おくりだと。」 きちのすけ 吉之助は、すぐその意味がわかりました。日向におくることは、永おくりと げ ・つ し よ ゆ つ はん はんじゅうしん み さばく ひゅうが はんない
もいわれていて、国ざかいで、ひそかにきりすてることを、意味していたから なりあきらこう 「なんたることだ。これが薩摩藩のやることか。ああ、斉彬公なきあと、まっ たく藩もかわったものだ。」 きちのすけ 吉之助のはらわたは、にえくりかえるようでした。 げつしよう このえこう ( 近衛公のたのみによって、はるばる九州のはてまでともなってきた月照を、 うんめい み いままた、身をかくすところのないまでの運命におとしいれてしまった。月照 ひとりを、なんでころすことができよう : こころ きちのすけ 友をおもう心のあつい吉之助は、ひそかに死をかくごしたのでした。 げつしよう きちのすけ にち がっ あんせい 一八五八 ( 安政五 ) 年十一月十五日の夜ふけ、吉之助が、ひそかに月照のおし かおいろ や こめられたたわら屋というやど屋をおとずれると、そのただならぬ顔色に、月 とも はん 0 ねん さつまはん や きゅうしゅう よ み げ し
きちのすけ まさ , り、 たむろしているのがみえます。吉之助は、はっとおもいましたが、い あともどりもできないし、そうかといって、かけぬけることもできません ちゃみせ 「いっそのこと、おもいきって、あの茶店でやすんでやれ。」 ちゃみせ と、ゆうゆうと、かごを茶店におろさせました。なんとどきようのよいことで ちゃみせじよちゅう ちゃ きちのすけ しよう。茶店の女中さんがお茶をはこんでくると、吉之助は、ゆっくりとその ちゃ お茶をのみながら、 あさ 「朝がはやかったので、ねむくてかなわんのう。」 かお じよちゅう と、とぼけた顔で、せけん話をはじめました。女中さんが、かごにのっている ちゃ げつしよう げつしよう 月照へお茶をもっていきますと、月照はだまって、ぬっと手をだしました。月 しよう しろて きちのすけ 照の白い手に、吉之助は、おもわずはっとしました。 てんか じぶん しかし、幕府のとりかたたちは、まさか天下のおたずねものが、自分たちの まよし
きんのう ししひらのじろうくにおみ ひらの 勤王の志士平野次郎国臣にあいました。平野は、月照のくしんしているすがた をみると、 「わたしが薩摩まで、おともいたしましよう。」 ばくふ にんそうが と、もうしでるのでした。幕府は、月照の人相書きを各地にくばって、これを とらえたものには、ほうびをやる、というおふれさえだしていました。 なりあきらこう きちのすけ さつま しっぽう、吉之助が、薩摩にかえってみると、斉彬公がなくなったあと、藩 なりあきらこうおとうとひさみつ のようすはすっかりかわっていました。とのさまには、斉彬公の弟の久光の子 はんせい ただよし こうけんやく で、まだわかい忠義がなり、久光が、その後見役として藩政をみていました。 月照とともに さつま ひさみつ げ げ かくち はん
照はすべてをさっしました。 きちのすけ やどのうら門から、吉之助たちがそっとでると、そこはもうはまべで、すで こ・つ ふね に船が一行をまっています。 ふね 船は、おきへおきへとはしっていきました。 きちのすけ 吉之助たちは、酒をくみかわしながら、うつくしい月夜の海をながめていま した。そのうちに、平野はよこぶえをとりだすと、しずかにふきはじめました。 きちのすけ げつしよう 吉之助と月照は、ヘさきにこしをおろしました。やがて、月照は、こしから、 やた 矢立て ( もちはこび用のすみつぼとふで ) をとりだすと、ふところ紙に、さらさら わか きちのすけ と和歌をかいて、吉之助にさしだしました。 こころ つきさつまがた くもりなき心の月も薩摩潟 なみま おきの波間にやがて入りぬる しよう げ つ し よ もん の よう つきょ うみ がみ
しとげよう。生まれかわったつもりでがんばるのだ。 ) A 」、、いこ ノ ( いいきかせるのでした。 さつま げつしよう そのころ、薩摩にはいりこんでいた幕府のとりかたの耳にも、月照たちが水 したい し 死した知らせがはいりました。すると、ふたりの死体のひきわたしを、うるさ く藩にもとめてきたのです。 きちのすけ 藩では、吉之助も、月照とともに死んだことにしてとどけたので、にせの水 死人をひきわたし、ごまかしてしまいました。そして、そのほうのめんどうは まぬかれましたが、 「死んだはずの西郷が薩摩こ、 ( したのでは、ぐあいかわるい」 ということになり、しばらく、西郷を奄美大島へながすことにきめました。 しにん し はん はん こころ ・つ さいごう げ し よ さつま さいごうあまみおおしま し みみ すい
きちのすけ 吉之助は、月あかりにすかして、それをよんで、大きくうなずくと、だまっ げつしよう て月照からふでをかり、 おぶね みち ふたつなき道にこの身を捨て小舟 なみ かぜ 波たたばとて風ふかばとて かお とかきおわって、月照にわたすと、ふたりは顔をみあわせて、につこりとほほ えみました。 ひらの みずおと とっぜん、ザプンという大きな水音とともに、よこぶえをふいていた平野に みず 水しぶ 0 かふりかかって去」ました。 ひらの おどろいた平野が、ヘさきをみると、いままでそここ すがたがみえません。 ふね 「しまった。船をとめろ。」 つき げ おお おお ーいたはずの、ふたりの
げ し よ たむろしているまっただ中に、はいってこようとはおもいませんので、だれひ とり、あやしむものもいませんでした。 ちゃみせ きちのすけ 吉之助たちは、てきのうらをかいて、ぶじに茶店をでると、 しゅんさい 「俊斎どん、このようすでは、奈良もあぶない。大阪へでて、薩摩へおちのび よう。」 と、かごをいそがせるのでした。 ふね 大阪にも、とりてがせまってきたので、船にのりこむと、やみ夜にまぎれて おきへこぎだし、海の上をにげるようにして、やがて下関につきました。 さつま きちのすけ ここから、吉之助は、藩のようすをみるために、一足さきに薩摩へかえり、 ふねはかた 月照たちは、さらに船で博多へいきました。 げつしよう 幕府のとりかたの目をくらまして、しのびあるいているうちに、月照たちは、 おおさか うみうえ め はん なら おおさか ひとあし しものせき さつま よ
こ - っ くなった。わがいのちは公にささげたもの。このうえは、ただ公のおはかのま えではらをきり、公のあとをおうばかりだ。 ) きちのすけ 吉之助は、こうかんがえると、ふるさとの薩摩へかえるしたくをはじめまし このえただひろこう た。そして、近衛忠熙公のやしきへおいとまご、 しにいくと、さすが公家の中で じんぶつ このえこう もなだかいすぐれた人物だけに、近衛公は、すぐ、それとみぬいてしまいまし このえこう そう げつしよう 近衛公は、かねてお気に入りの僧の月照をよぶと、 「西郷は死ぬかくごじゃ。そちは、よく話をして、おもいとどまらせてくれ。 と命ずるのでした。 げつしよう 月照は、西郷にあい さい 1 」 - っ 「西郷どの、あなたのむねのうち、おさっしもうしあげます。しかし、いまは、 あなたが京都をたって、国へかえるときではないようにおもわれますが : ・ : ・。」 さい 1 」・つ きようと さいごう まよし さつま