朝鮮 - みる会図書館


検索対象: 明治維新の功労者 西郷隆盛
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1. 明治維新の功労者 西郷隆盛

かんしよく さんぎ 衛都督・参議というくらいのたかい官職にのぼっていました。 一八七三 ( 明治六 ) 年の夏ごろから、わが国と朝鮮のあいだに、いろいろと ゝ、よもんだいがもちあがりはじめました。 やっ力しナ ひとせいじ たいいんくん ちょうせん そのころの朝鮮は、大院君という人が政治のけんりよくをにぎ「ていて、鎖 こくしゅぎ 国主義 ( 国をとざして、外国とこうしようしない ) をかたくまもり、ちょうど、幕 につばん力いこ / 、 末の日本と外国とのかんけいにもにていました。 ちょうせん 日本がまじわりをもとめ、開国をきぼうしているのに、朝鮮は、外国とのま じわりをいっさいしりぞけ、なんど使いをおくってもしようちしません。その にほんせいふ , っえ、日本政府に、 にほんじん力いこうかん ちょうせん 「朝鮮にいる日本人の外交官を、日本へひきあげさせてもらいたし といってきました。 まっ えととく にっぽん ねんなっ につばん つか ちょうせん 六一 1 5 7

2. 明治維新の功労者 西郷隆盛

どくる つづいて島津久光にうとんぜられて二年余の、二度も苦しい島送りの生活をせねばなりません でした。 てんかうご しかし、大きな天下の動きは、かれのすぐれた才能・人柄をそのままうずもれさせておきま もくてき きようと せん。ようやくよびもどされて、京都に上るや、幕府をたおし政権を朝廷にかえすことを目的 だいそう じっげん とさ ちょうしゅう だいかつやく に、大活躍をはじめ、長州・土佐の志士とむすんで着々とそれを実現させました。そして大総 かっかいしゅうかいだん えどじようこうげき さんほ・つ 督府の参謀として、江戸城攻撃に当たり、幕府がたの勝海舟と会談し、それを中止させ、江戸 しる を兵火からすくったことはまえに記したとおりです。 こうした大きなてがらをたてたにもかかわらず、その後故郷にかえっていたのを、ふたたび ちょうせんもんだい りくぐんたいしようか さんぎ めいじせいふ まね こ缶ぜられ、陸軍大将を兼ねました。ところが朝鮮問題で、その意 招かれて、明治政府の参議 ( しがっこうひ・り やくだ 見がいれられなか「たため野に下り、鹿児島にかえり、私学校を開いたことなどが、政府がわ ひげきてき せいなんえき に誤解されました。ついにおされるままに、西南の役をおこし、悲劇的な最期をとげるに至り ました。それにもかかわらずしたわれているのは、わが身をかえりみず、まことの人として維 新の大業をやりとげたからです。 しんたいぎよう しまづひさみつ おお おお ねんよ か 1 」しま のぼ ばくふ さいの・つひとが・り ばくふ ちゃくちゃく こきよう しまおく せいけんちょうてい せいかっ ひと えど 183

3. 明治維新の功労者 西郷隆盛

いたがきたいすけ けん せいふ これにたいして、政府では、二つの意見がありました。板垣退助らは、 しゅうこうじようやく にほんじん ふざん 「日本人をまもるために、兵をひきいてプサン ( 釜山 ) にわたり、修好条約をむ すぶべきだ。」 というのにたいして、西郷は、 せいふ かんこくちょうせんせいふ 「おいどんは、政府のせきにんある大使をおくり、韓国 ( 朝鮮 ) 政府をといて、 ふかくはんせいさせ、もし、おこって使いのものに害をくわえたとき、はじめ て兵をさしむけるのがよいとおもう。」 というのでした。そのうえ、 「その使いには、どうか、おいどんをやらしてもらいとうごわす。」 . し と、死をかくごして、使いの役をみずからかってでたのでした。 だじようだいじんさんじようさねとみ これをきいた太政大臣の三条実美は、 つか さい 1 」 - っ つか つか 158

4. 明治維新の功労者 西郷隆盛

たび 「わが国にとってたいせつな人物を、そんなあぶないところへや「て、もしも のことがあったら、それこそとりかえしがっかない。」 とおどろいて、なかなかさんせいしません。 しかし、西郷は、 ( このようなことは、一日もはやくかたづけねばならない。 ) さんじようきよう がっ とおもい、ねっしんに三条卿をときふせたところ、八月におこなわれた政府の かいぎ めいじてんのう 会議で、西郷が朝鮮にいくことにきまり、明治天皇のおゆるしをもらうことも できました。西郷のよろこびはたいへんなものでした。一身をなげう「て、国 のためにつくすときは、まぢかにせまったのです。 いわくらたいし ねんがっ おうべい そこへ、岩倉大使の一行が、一八七三 ( 治六 ) 年九月、ながい欧米しさつの がっ ねん ないかくぜんいん 旅をおえてかえ「てきました。さ「そく、十月十四日、二年ぶりに内閣全員に さいごうちょうせん さいご・つ さい 1 」・つ にち じんぶつ しん せいふ

5. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ちょうてき しき 1 」むものはかりでした。なかには、フラ はよばなしく一いくさしょ , っと、 へいき かんぐん ンスから軍隊や兵器をかりて、官軍をやつつけようというものもありました。 にっぽん かっかいしゅう しかし、けらいの中でも、日本のいまのありさまをよくしっている勝海舟だ かんぐん 「幕府が、い ま、ひっしとなって官軍に手むかえば、たやすくやぶれさるとい こんにち こノ、ない うこともありますまい。しかし、ム「日のじせいは 、いたずらに国内のあらそい に時をついやすべきではなく、国をあげて日本をまもるべきときです。いま、 4 は ちょうてい 朝敵のけがれた名をうけるのは、なんとしてもしのびがたいことです。朝廷に したがうのがよいとおもいます。」 ごころ よしのぶ と、ま心をこめて、慶喜をいさめました。 とくがわよしのぶ 徳川慶喜は、勝のことばにうごかされて、上野寛永寺にひきこもって、あと ばくふ ぐんたい ひと かっ て にっぽん うえのかんえいじ 14 0

6. 明治維新の功労者 西郷隆盛

かいぎ せいしき よる会議がひらかれました。ところが、その席で、西郷が使いにいくのを正式圓 にしようだくするどころか、大久保のはげしいはんたいがとなえられたのです。 ちょうせん にほんこ / 、ない 「朝鮮のことは、 いましばらく、時機をまちたい。まず、日本国内の政治をと せんしんこく ぶんめいこく とのえ、わが国を、ヨーロッパやアメリカなど先進国におとらぬ文明国にそだ てあげるほうがさきである。」 がっかいぎ 「いや、このことは八月の会議で、すでにきまっていること、もうぎろんはむ ようである。」 ひばよ かってのしたしい友、大久保と西郷とは、火花をちらすようないきおいで、 かいぎ ぎろんをはじめ、会議は、いつはてるともわかりませんでした。よく日もひき かいぎ つづいて、会議がひらかれましたが、どちらも、がんとしてゆずりません。 みつかご かいぎ りようは その三日後にもちこされた会議のさいちゅうに、両派のあいだにいたばさみ ともおおくば おおくぼ さい 1 」・つ せき さい 1 」・つ つか じっ

7. 明治維新の功労者 西郷隆盛

こうじよかずのみやこうめいてんのう これは、十四代将軍家茂と、皇女和宮 ( 孝明天皇の妹 ) をけっこんさせて、江 ど きようと ちょうてい 戸の幕府と京都の朝廷のなかを、うまくまとめようというのです。 これをきいた勤王がたの人々は、すっかりはらをたててしまいました。朝廷 でも、こうした幕府のわがままをおさえつけるために、カのあるみかたがほし いとおもい、薩摩の島津久光にたいして、 じようきよう ごしょてんのう 「御所 ( 天皇のすむところ ) をまもりに、いそいで上京せよ。」 とのめいれいがくだされました。 じようきよう ひさみつ このうえもないめいよと、久光は、いよいよ上京することにきめました。こ えど しょはんしゆく きようと のときにあたって、京都や江戸のようすがよくわかり、諸藩主や公家たちのあ いだをまとめるうでまえのものがいて、久光をたすけなくては、とても朝廷の しんらいにこたえることができません。 さつま だいしようぐんいえもち きんのう しまづひさみつ ひとびと ひさみつ いもうと ちから ちょうてい ちょうてい え

8. 明治維新の功労者 西郷隆盛

しようぐんしよく けっしん とくがわけ 「わしは、将軍職をしりぞくことを決心いたした。このまま、徳川家がつづく せいけん なら、いまのうちに、朝廷に政権はおかえしいたそう。」 けっしん と、さいごの决心をいいわたしました。 くわなはんしゅまつだいらさだあき たいせいほうかん そのあくる日、朝廷に桑名藩主松平定敬をおくり、大政奉還のことをねがい でました。 こころなか 幕府のおもだったけらいたちは、心の中で、 たいせいほうかん 「まさか、大政奉還を、そうかんたんにおとりあげになることはあるまい きっと、それにはおよばず、ともうされるだろう。」 と、かんたんにかんがえていました。 しようぐん もっとも、これまでのならわしでは、将軍ほどのものがやめたいとねがいで てんか れば、かならず一どは、ひきとめられたからでした。これは、あまりに天下の ばくふ ひ ちょうてい ちょうてい 12 8

9. 明治維新の功労者 西郷隆盛

よしのぶちょうしゅうついとうぐんそうとく ついに、おゆるしがくだり、慶喜が長州追討軍総督となりました。 さつま ちから しかし、長州とたたかうには、どうしてもつよい薩摩の力がひつようです。 きちのすけ ばくふあいづはん そこで、幕府と会津藩からは、たびたび力をかすようにと、吉之助のところへ きちのすけ さいそくがきましたが、吉之助は、どこまでも長州とたたかいたくないので、 ちょうてい あいづちょうしゅう 「会津と長州のわたくしごとのあらそいには、手をだしたくない。朝廷のめい れいのほかは、兵をだしません。」 と、のらりくらり、にげていました。しかし、朝廷からめいれいがくだったと しうので、しかたなく、 ごしょ 「では、御所のおまもりをするだけの兵力をさしむけましよう。」 こころ といって、なるべく長州のうらみをふかくしないように、、いをくだいていまし ちょうしゅう ちょうしゅう へいりよく ちから ちょうしゅう ちょうてい て

10. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ようすにうとい、幕府のけらいたちのみこみちがいでした。朝廷では、このこ とをまちかまえていたのです。 いわく , り とうばくみっちよく このときにはすでに、岩倉・西郷などのうごきにより、討幕の密勅が薩長へ ちょうてい たいせいほうかんもう わたされていたのでした。ですから朝廷では、大政奉還の申し出をうけとると、 ただちに「ゆるす。」とのごさたをくだしました。 よしのぶ ・は′、しん 慶喜をはじめ、幕臣たちは、 「あっ。」 といっておどろくとともに、ふんかいしましたが、もう、あとのまつりです。 きちのすけ ばくふ せいけん 吉之助は、幕府がたが政権をかえしたのは、かたちばかりのものであって、 ノ、・つ去」 兵をおこして、薩長とたたかおうという空気がつよいことを、みてとりました。 さつま さつまへい そこで、いそいで薩摩へかえると、 いさましい薩摩の兵三千あまりの軍をひ さっちょう ばくふ さい 1 」・つ ちょうてい で ぐん さっちょう 1 2 9