西南戦争 - みる会図書館


検索対象: 明治維新の功労者 西郷隆盛
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1. 明治維新の功労者 西郷隆盛

まごころの人 さいごうたかもりせいなんせんそう 西郷隆盛が西南戦争のはて、鹿児島で戦死した一八七七 ( 明治十 ) 年から、すでに百年以上 さいご・つ いっこうおとろえません。「西郷」とよび たっています。それでもその人をあがめる気持ちは、 さいご・つ すてにする人はあまりなく、たいてい「西郷さんーと、したしみ、うやまいをこめたよび方を しております。 しゅうがくりよこう ちゅうがくせい かごしま わたしは、中学生のころ、はじめて鹿児島に修学旅行にいき、そして西郷さんが最後にこ ど けんがく ほぞん もったほらあななどがたいせつに保存されているのなども見学しました。その後も二度ほどそ かみ ち なんしゅうじんしゃ か ) 」しま の地をおとずれましたが、鹿児島にも銅像があり、また南洲神社として神としてまでまつられ こころふか ており、この地の人のうやまいの心の深さを知りました。 せいなんせんそう さいごうたかもりたいしよう ( いただいた薩摩がわは約四万人で、そのうち戦死者は約五 この西南戦争で西郷隆盛を大将こ とち ふしようしややく まんにん 千、そして負傷者は約一万人あり、また、この戦いで土地の一万三千戸近くがやけたと、記 録にのこっております。 ひと ち ひと ひと ひと かごしませんし どうぞう し さつま たたか やく まんにん まん ねん こちか さい 1 」・つ せんししややく ねんいじよう かた

2. 明治維新の功労者 西郷隆盛

、を 1 を誉第 しみん 」「士民の家はみなやけて、のこると ころは二十分の一にすぎない。それ ふる で七百年来のたからものや、古い記 録はうばわれたり、火にやけてほと たんどなくなった。」 せいなんせんそう しる のと、西南戦争のことを記した本にあ 。な本ります。しかし、この戦争の中心人 さいごうたかもり くハ月ハぶつ 物であった西郷隆盛を、鹿児島の人 戦はほとんどうらみの目で見ていない しる 西どころか、まえに記したように、銅 像や神としてまつって、なっかしん でいるのです。これはいったいどう してでしよう。 せいなんせんう ぞうかみ ねんらい ぶん か一」しまひと ほん どう 180

3. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ちょうてき みあ と、そこにきた人は、なっかしそうにそれを見上げます。 え とうきようけんぶつ 地方から東京見物にきた人も、絵はがきなどで見知っていて、じかにその目で見ることがで きねん しやしん 0 、記今」にい っしょに写真をとったりして、うれしそうです。 どうばん どうぞうだいいし その銅像の台石にはめられた銅板には、 し ぜんねんめいし さいごうたかもりくん 前年 ( 明治 「西郷隆盛君のすぐれたてがらはだれもが知っている。いまさらいうまでもない。リ ひとびとかんげき 二十二年 ) 正三位をおくられた。この天皇のおぼしめしは、多くの人々の感激するところであ どうし どうぞう ともざね る。吉井友実が、同志とはかり銅像をたて、その人をしのばうとしたところ、天皇からもお金 ょにん さんせいしゃ をくださった。そして賛成者が二万五千余人もいた。明治二十六年から工事にかかり、三十年 にできあかった。 み といった意味のことが漢文で記してあります。 きどたかよしおおくばとし さい 1 」うたかもり 西郷隆盛は、この本でのべたように、明治維新に大きなてがらがあり、木戸孝允・大久保利 せいなんせんそうお かんぐんたたか しん 通とともに、維新の三傑とよばれるほどでした。しかし西南戦争を起こして官軍と戦ったため、 朝敵の名をつけられてしまいました。 みち ちほう ねんしようみ - な ひと ほん かんぶんしる けっ ひと まん てんのう しんおお ひと おお ねん め てんのう み か ね 1 7 7

4. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ぶたい ばくまっ 幕末のはげしい時代の舞台におどりあがり、 えどじようあ はまぐりごもんへん 蛤御門の変、江戸城明けわたし、 戊辰戦争などにかつやくし、 こ・つろうしゃ しんさいだい 明治維新最大の功労者といわれながら、 せいかんろん 「征韓論」にやぶれ、ついには朝敵となって、 せいなんせんそう 西南戦争をたたかい、 城山のつゆときえました。そのときから、 でんせつえいゅう 伝説の英雄となった西郷隆盛は、 しったいどんな人だったのでしようか。 ひとあい 「天をうやまい、人を愛するー さいこうたかもり このことばとともに、西郷隆盛は、いまもなお、 にほんじんこころ 日本人の心に生きています。 しろやま し ん ん そ つ てん ひと じだい さいごうたかもり ちょうてき

5. 明治維新の功労者 西郷隆盛

どくる つづいて島津久光にうとんぜられて二年余の、二度も苦しい島送りの生活をせねばなりません でした。 てんかうご しかし、大きな天下の動きは、かれのすぐれた才能・人柄をそのままうずもれさせておきま もくてき きようと せん。ようやくよびもどされて、京都に上るや、幕府をたおし政権を朝廷にかえすことを目的 だいそう じっげん とさ ちょうしゅう だいかつやく に、大活躍をはじめ、長州・土佐の志士とむすんで着々とそれを実現させました。そして大総 かっかいしゅうかいだん えどじようこうげき さんほ・つ 督府の参謀として、江戸城攻撃に当たり、幕府がたの勝海舟と会談し、それを中止させ、江戸 しる を兵火からすくったことはまえに記したとおりです。 こうした大きなてがらをたてたにもかかわらず、その後故郷にかえっていたのを、ふたたび ちょうせんもんだい りくぐんたいしようか さんぎ めいじせいふ まね こ缶ぜられ、陸軍大将を兼ねました。ところが朝鮮問題で、その意 招かれて、明治政府の参議 ( しがっこうひ・り やくだ 見がいれられなか「たため野に下り、鹿児島にかえり、私学校を開いたことなどが、政府がわ ひげきてき せいなんえき に誤解されました。ついにおされるままに、西南の役をおこし、悲劇的な最期をとげるに至り ました。それにもかかわらずしたわれているのは、わが身をかえりみず、まことの人として維 新の大業をやりとげたからです。 しんたいぎよう しまづひさみつ おお おお ねんよ か 1 」しま のぼ ばくふ さいの・つひとが・り ばくふ ちゃくちゃく こきよう しまおく せいけんちょうてい せいかっ ひと えど 183

6. 明治維新の功労者 西郷隆盛

ちょうていない ぽんゅび まつだいらよしなが 五本、六本と指をおっていった松平慶永は、 「そんなふるい頭で、この時勢がのりきれる 「やはり、あなたのほかにはございません。 とおもっているのですか よしのぶ ぜんしようぐんこうけんしよく ちょっきょ と、前将軍の後見職にあった慶喜のまえへっと、どなりつけるほどの熱意で、勅許をとり よしのぶ じだい おお きだしました。慶喜はなかなかうんとはいし 時代の大きなながれにはさ つけました。が、 いえもち ねんばくふ ませんでしたが、 けつきよく、家茂の死後、 からえず、一八六七 ( 慶応三 ) 年、幕府をと はんとし ねん よしのぶ やく半年たった一八六六年のくれ、やっと十じることをせまられた慶喜は、日本が二つに だいしようぐん せんそう ほうかん 五代将軍となることをひきうけたのです。 われて戦争になることをうれえて大政を奉還 しようぐん よしのぶ うえの じいん こんなんをかくごで将軍となった慶喜は、 し、上野の寺院にはいってきんしんしました。 せんそう ふりちょうしゅう ばくふ とくがわけ すんぶ 不利な長州との戦争をやめ、幕府をおうえん 三百年つづいた徳川家は、こののち、駿府 ぐん しずおかけん まん 1 」く よしのぶ してくれるフランスの力をかりて、財政・軍 ( 静岡県 ) 七十万石の一大名にされ、慶喜は、 たやすかめのすけ とくがわいえさと こ、つま , つ、 制の改革にのりだしました。まオし あとを田安亀之助 ( 徳川家達 ) にゆずり、一 しよがいこく ねん 朝廷内にあっては、諸外国からせまられてい 九一三 ( 大正二 ) 年になくなりました。 ひょうごかいこう あらいひでお る兵庫開港をはんたいする公家たちを、 ( 新井英生 ) ほん かいかく ちから ざいせい ねん たいしよう あたま けいお・つ だいみよう じせい につばん 1 8 9

7. 明治維新の功労者 西郷隆盛

けっ さいごうおおくぼ 明治維新の三傑 ( 三 k のすぐれた人 ) とよびますが、このうち、西郷・大久保の まち にちろせんそう ふたりまでが、この町でそだ「たのです。また、日露戦争 ( 一九〇四 5 〇五年 ) おおやまいわおとうごうへいはちろう にてがらのあった大山巌・東郷平八郎なども、ここからでています。 こきちちちさいごうきちべえ さつまはん 小吉の父、西郷吉兵衛は、薩摩藩につかえた武士でしたが、くらいはきわめ こキ t) ち - てひくく、もらうろく ( さむらいのきゅうりよう ) もすくないうえに、 小吉をかし なんじよ らに、四男三女の子どもをかかえていたので、たいへんびんぼうでした。 ふゅよる それは、さむい冬の夜のことでした。たくさんのきようだいがいるので、ふ とんがたりません。 「おれは、ふとっているから、あたたかいよ。おまえたちがかけるがいい。」 おとうと と、小吉は、うすいふとんを一まいかけ、あとは、弟や妹たちにかけてやるの でした。 しん こ ひと いもうと ねん

8. 明治維新の功労者 西郷隆盛

げんじ がっしま 一八六四 ( 元治 1 ) 二月、島ながしをゆるされ、鹿児島にかえる。一、八六 = 一年薩摩藩 がっ きようと ぐんくばりやく かんたい こ・つ 三月、京都にのぼり、軍賦役となる。九月、 イギリス艦隊と交 おおさかかっかいしゅうかいけん がっせいちょうそうとく 大阪で勝海舟と会見する。十一月、征長総督戦 ( 薩英戦争 ) 。 とくがわよしかつめい 徳川慶勝の命をうけ、長州藩と話しあいをす一八六四年四国連 ごうかんたい る。 ( 三十八さい ) 合艦隊、下関を攻 一八六六 ( 變応 2 ) 一用、坂本竜馬のせわで、京都で長州の木。 どたかよし さっちょうれんごう 戸孝允にあい、 薩長連合のやくそくをとりき ねんめいじてん める。 ( 四十さい ) 一八六七年明治天 一八六七 ( 慶応 3 ) 十二月九日、王政復古となる。十一一印、参与皇が位に「く。大 せいほうかんおうせいふつこ となる。 ( 四十一さい ) 政奉還。王政復古 一八六八 ( 町治 1 ) 二月、東征た総督府参となり、江戸〈すすの宣『〕。 がっここのかすんぶ ししややまおかてったろう む。三月九日、駿府で幕府の使者山岡鉄太郎一八六八年江戸を にちたかなわはんてい かっかいしゅう とあう。三月十三日、高輪の藩邸で、勝海舟東京とあらため、 えどそうこうげき がつよっか とあい、江戸総攻撃をやめる。四月四日、江 明治と改元。 どじよう 戸城あけわたしにたちあう。 ( 四十一一さい ) ナいおう がっ ばくふ らようしゅうはんはな しものせき

9. 明治維新の功労者 西郷隆盛

そうさい かんりんまる 総裁をしていた海舟は、 四百トンの咸臨丸は、日本からはじめての太 たいめん とくがわけ にちかん 「徳川家の体面だとか、武士の意地などとい 平洋横断にのりだし、三十七日間かかって、 , つ、小さなことにこだわっているときではな みごとにサンフランシスコにつきました。 にっぽん ぐんかんぶぎよう きこく 1 」 。もし、日本が二つにわれてあらそってい 帰国後、海舟は、軍艦奉行となり、一八六 しんりやく かいぐんそうれんじよ ねん るすきに、外国に侵略されたらどうする。」 三年には、神戸に海軍操練所をひらき、ひろ しんせいふさんほうさいごうたかもり か ~ 、はん く各藩から生徒をあつめて、日本海軍の養成と、みんなをなだめ、新政府の参謀西郷隆盛 まちせんそう とはなしあって、江戸の町に戦争をおこすこ に力をそそぎました。 えどしよう ねんしようぐんとくがわよしのぶ となく、ぶじに江戸城をあけわたしたのです。 一八六七 ( 慶応三 ) 年、将軍徳川慶喜は、 かいぐんきよう めいししんせいふ えどばくふ じつけんちょうてい 海舟は、明治新政府で、一時、海軍卿など 政治の実権を朝廷にかえし、江戸幕府をとじ すいじん えどじようこうげき しんせいふ ました。しかし、新政府が江戸城攻撃のほうをつとめましたが、まもなくやめて、「吹塵 りくぐんれきし ひかわせいわ かいぐんれきし ばくふ しんをかえないため、幕府がわについていた録」「海軍歴史」「陸軍歴史」「氷川清話」など よせい ほん こうげき 人たちにも、攻撃をむかえうとうという意見の本を書いて余生をすごしました。 あらいひでお ばくふりくぐん ( 新井英生 ) がつよくなりました。このとき、幕府の陸軍 へいようおうだん ひと ちから こうべ けいおう にっぽん にほんかいぐんようせい カ かいしゅう じ 187

10. 明治維新の功労者 西郷隆盛

つぎつぎとうちたいらげられてしまいました。 うえのやま しようぎたい あいづらくじよう はこだて 上野の山にたてこもった彰義隊、会津落城とともに花とちった白虎隊、函館 ごりようかく えのもとたけあき にはしった榎本武揚の五稜郭のたたかいなど、たくさんのものがたりをのこし たのも、このときでした。 がつようか ねんごうめいじ 九月八日、年号を明冶とあらためました。 がつめいじてんのうきようと せんか こうして、戦火もおさまった十月、明治天皇は京都の御所を出発されて、江 ど ち とうきよう 戸の地へみやこをうっされ、名を東京とあらためました。 さいごうきちのすけ おおくば てんか 天下がおさまったので、西郷吉之助は、あとを大久保たちにたのみ、十一月 か 1 」しま はじめにふるさとの鹿児島へかえり、武村というところへひっこんでしまいま きちのすけ やがて、朝廷では、吉之助に維新の大業にたいするほうびとして、二千石、 ちょうてい しんたいぎよう たけむら ごしよしゆっぱっ びやっこたい ごく がっ え 1 5 2