二宮尊徳 - みる会図書館


検索対象: 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎
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1. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

ほうとくくん とみたこうけい か そんとく 尊徳のでしの富田高慶が書いた「報徳訓」のなかのことばです。 ほ・つとくしほ・つ そんとくかんが ほうけんしやか、 どうとくてき そんとく これが尊徳のいう「報徳仕法」で、尊徳の考えはあくまで封建社会の中での道徳的なもので 、しこ。しかし、また、 とち みち 「わたしの道は、あれた土地をひらくことをもってっとめとする。」 がくしゃ そんとく ともいってるように、尊徳のえらさは、ほかの学者たちのように、りくつで教えるのではなく、 しぶんじっこう じっさいに自分が実行して教えたところにあります。 きんしろう しようねんじだい そんとく この本でもわかるように、尊徳は金次郎の少年時代に父母に死にわかれ、びんぼうのどん底 みち たいけん みち じぶんある で、さんざんくろうしました。その体験から、農民をすくう道は、自分の歩いてきた道しかな みち しつこう しん いと信じ、それを実行したのです。でも、それは遠まわりの道でした。 せんりみち 「千里の道も一歩ずつ歩んでこそいきつける。山をつくるのも、一すのこの土からなる。どん なことでも、たゆまずはげみつとめれば、かならず大きくなるのだ。」 は・つとくしゃ そんとくひと そんとく 尊徳の人がらをしたって、たくさんのでしができましたが、尊徳の死後、「報徳社ーがつくら かんこ・つ ほうとくき にのみやおうやわ そんとくせいしん れ、「報徳記」「二宮翁夜話」が刊行され、尊徳の精神はうけつがれています。 ほん つ あ おし のうみん やま とお おお し っち 182

2. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

ほうとくしほ・つてんち なかどうり 報徳仕法 ( 天地と世の中の道理に、徳をもって報いるやりかた、、といういみ。 ) は、ひろく ほ - っ」′、しほ・つ そんとく 知られ、尊徳はたのまれれば、どこへでもでかけていき、報徳仕法のしどうにあたりま そんとく とみ また、尊徳のもとには、おおくの人々がこの仕法の教えをうけにきて、その中から富 たこうけい あごいんしようしちおかだりよういちろう ひと 田高慶、安居院庄七、岡田良一郎などのすぐれたでしたちがあらわれました。この人た ほ・つと′、 . しは・つ かくちのうそん そんとく ちは尊徳の報徳仕法をひろめ、各地の農村のたてなおしに力をつくしました。 たよ にのみやそんとく こうか 二宮尊徳の名まえは、日本じゅうにひろまりました。そうして、一八四四 ( 弘化一 ) 年、 ばくふ につこ・つしんりよう け・い . か′、 五十八さいのとき、幕府から、日光神領のあれ地かいたくの命をうけ、その計画をたて、 ねんそんとく じっこう それから九年めの一八五三 ( 嘉永六 ) 年、尊徳六十七さいのときには、いよいよその実行 ばんねん にとりかかるという、いそかしい晩年をむかえました。 そんとく けんこ・つ このころ、人なみすぐれてじようぶだった尊徳も、ようやく健康がすぐれず、たびた そんとく やまい び病のとこにつくようになりました。しかし、尊徳はすこしでもよくなると、日光の し ねん ひと よ につばん ひとびと むく ち しほ・つおし ちから につこう ねん 1 7 0

3. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

すてたなえをひろって、米をみのらせ、 さいこ・つ どりよくひと いっか 一家を再興した努力の人。 にのみやそんとく たか、二宮尊徳は、こご にんげん それだけの人間だったのでしようか。 そんとく ほ・つと′、しほ - っ 尊徳が考えだした「報徳仕法」の しそ・つ じっこう その思想と実行は、 えけいざい 藩や家の経済をたてなおし、 ほろびかけた六百あまりの村々を みごとによみがえらせました。 につばんのうぎようおお いま、日本の農業が大きくかわっていくなかで、 っち そんとく 一生を土に生きぬいた尊徳を もう一度、みなおそうではありませんか はん いっしよう かんが ど こめ むらむら

4. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

「なるほど。そのひまに、ひやくしようたちが死んでもかまわない、とお「しやるので すな。よろしゅうございます。使いのかえるまで、わたしたちはまっことにしましよう。 ただし、わたしたちも、ひやくしようとおなじように、なにもたべずにいましよう。」 じぶん そんとく 人のまごころというものは、つよいものです。尊徳の自分をわすれて、ひやくしよう こころ じゅうやく たちをおもう一念は、ついに、重役たちの心をうごかしてしまいました。 しろこめぐ・り お城の米倉はひらかれました。 かず このときにすくわれたひやくしようの数は、四万三百九十にもな「たということで す。しかも、小田原からは、一人もうえ死にをださなか「たのでした。 ねんにのみやそんとく 一八三七 ( 天保八 ) 年、二宮尊徳が五十一さいのときのことでした。 そんとく えど その年の三月、大久保忠真公は、江戸のやしきで、ついになくなりました。尊徳は、 しは - っそんとく おだわらはん ただざねこうゆいごん / 田原藩にも、桜町三か村でや「た仕法 ( 尊徳は、このような 忠真公の遺言にしたがい、ト たてなおしのやりかたを「報徳仕、とよんでいました。 ) をおこないました。 ひとり さくらまち まん そん 16 9

5. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

た そうまはんのうぎよう れきしじんぶつじてん 「相馬藩も農業がおとろえ、立てなおしに苦 歴史人物事典 うう そんとくせんせい のうそん 労している。尊徳先生のでしになって、農村 とみたこうけい た ほうほうおし を富田高慶 の立てなおしの方法を教えていただこう。」 そんとく 高慶はこう考えると、尊徳のところにでし そんとくゆる 一八一四 5 一八九〇年 入りしようとしました。しかし、尊徳に許さ とみたこうけい にのみやそんとく そんとく いえちか はんとし 富田高慶は二宮尊徳のいちばんのでしで、 れないため、尊徳の家の近くに住み、半年も そんとくおこな ほ・つとくき づよ つづ 尊徳の行ったことや、その一生を「報徳記」ねばり強くたのみ続けました。 し か こうけ、 そんとく ねっしん にゆうもんゆる に書きのこした人として知られています。 この熱心さに入門を許された高慶は、尊徳 ふくしまけんそうま しっしんちから 高慶は、陸奥国相馬藩 ( いまの福島県相馬の第一のでしになって、一心に力をつくしま さいとうよしたかじなん まなし そうまはんしゆかろう 市 ) の武士、斉藤嘉隆の次男で、十七さいのした。部の譖を聞いて、相馬藩主や家老た とうきよう で そんとく かたかんしん ときに江戸 ( いまの東京 ) に出て、十年ほどちも尊徳のやり方に感心し、の農村の立て じゅがく がくもんべんきよう 儒学という学問を勉強しました。 なおしをたのみました。 そんとくひょうばんき そんとく そのころ尊徳の評判を聞き、 でも、尊徳は年をとり、仕事もいそがし し むつのくにそうまはん ひと いっしよう ねん ねん かんが し 1 」と う す 18 8

6. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

その余はわれを責むるのみなり そんとく 尊徳のこの歌は、そのくらしぶりと、考え方をよくあらわしています。 おだわらにのみやじんじゃ しようぞうすうしゅ そんとく 尊徳の肖像は数種ありますが、小田原二宮神社にあるのが、もっともよくそのすがたをあら そんとく おかもとあきてる わしている、といわれています。これは岡本秋暉という画家が、しようじのすきまから尊徳を 写生したものだからです。 とくっちとく 農の徳、土の徳 にのみやそんとくでん そんとくおし 二宮尊徳伝をよむと、さかんに「仕法」ということばがでてきます。これは尊徳の教えにも どくじ かた いえけいざい むらふつこう とづく独自の事業のやり方ということで、藩や家の経済のたてなおしの意味にも、村の復興を さす意味にも使われます。 とく とく とく 「農の徳にむくいることがなければ、農の徳をうしなう。農の徳にむくいれば、農の徳をうる っちとく っちとく っちとく ことができる。土の徳にむくいることがなければ、土の徳をうしなう。土の徳にむくいれば、 っちとく 土の徳をうることができる。」 しやせい のう つか じぎよう のう かんがかた はん のう 181

7. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

ほんよ しようねんきんじろうぞう がら本を読む少年金次郎の像がたっています。 ねん にのみやきんじろうそんとく 明治十三 ( 一八八〇 ) 年から明治十九 ( 一八八六 ) 年ごろにかけて、二宮金次郎 ( 尊徳 ) が こくていきようかしょ てほんのうそん にわかに国定教科書にとりあげられ、子どもたちの手本、農村のまもり神としてもてはやされ ました。 もはん がくしやせいじ それまで日本の歴史のうえで、模範となる人物としてとりあげられていたのは、学者や政治 ぶしよう きんじろうとうじよう 家や武将ばかりでした。そこへ農民の子である金次郎を登場させたのは、どうしたわけでしょ ぜいきん そのころ、日本の農村はたいへんまずしく、税金がはらえなくて、村をすててでていく農民 じゅうみんけんうんどう こんみんとう があいつぎました。このため自由民権連動がおこり、困民党がたちあがり、政府をこうげきす て る火の手がひろがりはじめていました。 せいふおお へんか おも 政府は大きな変化をもたらさないで、これをかいけっする手だてはないかと、思いだしたの にのみやそんとく が二宮尊徳でした。 そんとく 尊徳は、勤勉と倹約で、農村のたてなおしをやりとげました。また、政治にはいっさい口ば か ひ きんべんけんやく につばんれきし につばんのうそん のうそん のうみん じんぶつ ねん むら がみ くち のうみん 177

8. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

しをいれませんでした。さらに、家がらや身分のないものでも、勉強にはげみ、まじめに努力 そんとく りつしんしゆっせ てほん してはたらけば、尊徳のように立身出世できる、というお手本でもありました。 ひやくしようぶんやす 「百姓はあくまで百姓の分に安んずべきである。 そんとく ときめいじせいふ きんじろう 尊徳のこのことばとともに、時の明治政府にとって、金次郎はまことにつごうのよい人間像 としてうつったのでした。 きようかしょ きんじろう 教科書にのった金次郎のすがたは、それからながいあいだ、国民の頭にしみこみました。し そんとく ほうけんせいど じだい かし、それだけの尊徳だとすれば、封建制度のもとで、時代のうごきには目をむけず、政治の やくにん じんぶつ 批判はせず、幕府の役人になって、ひたすら土と村にとりくんだ人物、というイメージしかう かんできません。 そんとく にんげん はたして尊徳は、それだけの人間だったのでしようか。 じる きもの めし汁ともめん着物で にのみやそんとく とくがわいえなり たぬまおきつぐせい 二宮尊徳の生きた時代は、徳川家斉が十一代将軍となり、それまでのみだれた田沼意次の政 ひはん ひやくしよう じだい みぶん だいしようぐん っちむら こくみんあたま べんきよう にんげんぞう どりよく 178

9. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

あい、あさのかみしもはひつようありません。」 そんとくおだわら こういって、尊徳は小田原へむかいました。 かんしん そんとく ただざねこう あとで、このことをきいた忠真公は、いよいよ尊徳に感心したのでした。 おだわら ただざねこう おだわら 小田原へかけつけてみますと、忠真公のいわれたとおり、小田原には、まったく米が ぽてまえ しにん ないのでした。死人こそまだでておりませんが、その一歩手前でした。 じゅうやくかいぎ そんとく さっそく、尊徳をまじえての重役会議がはじまりました。 こめひと おだわら にのみや 「二宮どの、はるばるとおくより、ごくろうでござった。さて、小田原じゅうに米が一 つぶもないとなると、こまったことでござる。いカカいたしたものかな : こめ おだわら 「おことばではございますが、なるほど、小田原じゅうに、いま米はありません。だが、 あらせればある、とわたくしはおもうのでございます。」 てじな 「あらせればある : : : ? そんな手品のようなことができるかの。」 しょ こめ ばしょ おだわら このお城の米倉だけでございます。 オだ一か所 : 「小田原で、米のある場所は、こ、こ しろこめぐ、り こめ 16 7

10. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

にのみやきんじろう ニ宮金次郎がつくったます ( 上 ) にのみやきんじろう と , ニ宮金次郎がつかっていた ひだり おぜんと茶たく ( 左 ) をむけることはありませんでした。 そんとく 尊徳は生まれながらの百姓でした。だからこそ、 むらむらある はうとくしほう ひたすら「報徳仕法」のために努力し、村々を歩 むら そんとく きつづけました。尊徳のたてなおした村が六百か ひと そんいじよう 村以上といったら、おどろく人もあるのではない でしょ , つか きものちゃいろ そんとく そのときの尊徳は、もめんの着物に茶色のしま のはおり、ももひき・きやはん・ぞうりというそ あめ まつな身なりで、かさは雨のときだけ、すげがさ か、たけの皮のかさをかぶりました。食事はあた たかいめしにしる、にまめとつけもので、べんと , つは、にぎりめしに , つめぼしでした。 みたす もめんきもの めし汁と木綿着物は身を助く じる かわ ひやくしよう どりよく しよくじ 1 8 0