子どもたち - みる会図書館


検索対象: 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎
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1. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

道々、あれはてた田畑のあいだをいきますと、むこうから、大きい子どもが何人かで、 かやがやさわぎながらくるのにあいました。 りゅうぽ / 、 その子どもたちは、めいめい、せなかに、流木をしよっています。それは、山の木と ちがって、しろくはげて、ほねのような色になっています。みんなこうして、たきぎを かわ・り いえて ひろいに川原へいって、家の手だすけをしているのです。 きんじろう このときも金次郎は、自分のおさないことをざんねんにおもったのでした。 りゅうばく ところが、この子どもたちは、流木ひろいだけでなく、さかなとりにもむちゅうに なっていたのでした。 おお おおみす ふだんですと、大きな川でなければとれないさかなが、大水のあとは、どこででもと れるといって、大さわぎなのです。何人かの子どもたちは、それぞれ、さかなの入れ物 をもっていました。 きんじろう あんまり、がやがやうれしそうなので、金次郎は、そばへいって、ざるの中をのぞい みちみち こ おお こ たはた かわ じぶん なんにん おお こ - な なんにん やま き もの

2. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

その、あることとはなんでしよう。 し 1 」と きんじろう じぶん 金次郎は、自分を、まだ子どもだとおもっていました。子どもの仕事は、弟のあそび し ) 」と あいてをすることぐらいがちょうどよくて、のら仕事はつけたりでよいものと、かんが えていたのでした。それを、これではならないと、さとったのです。 おとな きんじろう それからというもの、十さいの金次郎は、大人にもまけないかくごで、畑仕事にせい をだしました。 その年もくれ、お正月をむかえ、春ともなると、のら仕事は、い ります。 きんじろう もうじき十一さいになる金次郎は、生まれつきからだが大きく、じようぶなところへ、 ( オオしカノ \ になりました。 よくはたらくので、ますますりつよよこ、ゝ きんじろう と・つ お父さんがよわくて、おもうようにはたらけなくても、ともかく金次郎がたのもしい しようねん 少年なので、一家はしあわせな気持ちでくらしていたのです。 とし か しようがっ こ はる ・つ し一」と おお こ っそういそがしくな はたけしごと おとうと

3. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

むらひとびと きんじろう 金次郎は、心の中で、なみだをながしてかんしやしました。村の人々の、このしんせ おとな つにむくいるためには、大人にまけずはたらくことだ、とちかうのでした。 やく やく につきゅう まして、こんどの工事のお役は、ただばたらきのお役ではなく、日よう ( 日給 ) をだし てくれるのです。それをおもうと、子どもだからといって、一人まえにはたらけないで ュよ、 っそ , っ , も , っしわけない、 と自分にいいきかせました。 ねんきんじろう 一七九八 ( 寛政十 ) 年、金次郎が十二さいの夏、いよいよ、酒匂川堤防工事ははじまり ました。 し 1 」と し 1 」と 工事の仕事は、のら仕事などとはまたべつな、カのいる、あらっぽい仕事でした。 っちづ じゃりはこび・がけくずし・あなほり・くい打ち・土積み・まつまるたはこび・ーーどれ きんじろう ひとっとっても、子どもの金次郎にはむりなことばかりでした。 きんじろう それでも金次郎は、十四、五さいにはみえるたいかくにたよって、がんばりました。 がんばるのはよいのですが、あんまりがんばると、かえって大人のめいわくになるか かんせい こころなか し一」と じぶん こ なっ ちから さかわがわていば・つこ・つじ おとな ひ

4. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

す。 りようり きんじろう 畑からかえったお母さんが、大よろこびでこいの料理をしているとき、金次郎は、そ ばへいっていいました。 はんぶん 「お礼に、おじいさんに半分あげてよ。 なんばい なんばい これをきいたお母さんは、ごちそうにありつけたよろこびより、何十倍も何百倍も、 きんじろう 金次郎の心をよろこんだのでした。 なによりのおみやげ ふだんはきよらかなれで、夏の子どもたちには天国のこの川。名を酒匂川といいま どおおみず 酒匂川は、十年に一度は大水になる、と、むかしからいいったえられていました。 おおみず いいったえどおり、ついこのあいだ、大水があって、つつみがきれ、つなみのように さかわがわ はたけ こころ ねん かあ かあ な おお なっ てんごく かわな さかわがわ

5. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

三つのあだ名 きんじろう とにかく金次郎のように、人なみはずれたはたらきものの勉強家は、よく村の人々か ら、かわりものあっかいされがちです。かわりものには、すぐあだ名がっきます。 さいしょのあだ名は、「土手ばうず」というのでした。 どて 「ほら、土手ぼうずがきた。」 きんじろう 金次郎がきた、といわないで、土手ぼうずがきた、というのです。 きんじろう さかわがわどて このあだ名のおこりは、金次郎が、おさないころから酒匂川の土手でよくあそんでい たから、ついたにちがいありません。子どもは、だれだって、川のつつみであそぶのが きんじろう すきですが、金次郎にだけあだ名がついたというのは、 いかにかれが、よくつつみであ きんじろう こう金次郎は、い っそうふかくさとったのでした。 どて ひと どて こ べんきようか かわ むらひとびと 1 10

6. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

そんだかがわかります。 おとうとともきち きんじろう 金次郎にしてみれば、つつみは、自分であそぶのにもよく、また、弟の友吉をあそば せるのにも、もってこいのあそび場だったからなのでした。 おおみす きんじろうあたま また、おさなかった金次郎の頭には、大水のおそろしさがこびりついていて、自分で まいにちかわ は気がっかないでも、毎日、川やつつみをみないではいられなかったのかもしれません。 にのみやそんとく これは、のちに、おおくの人のためになって、二宮尊徳とよばれるようになったほど ごころ こ かわ ひと の人ですから、子どもながらも、川やつつみをどうしたらよいか、というしんばい心も とかんかえてもまちがいではないでしよう。 あったのかもしれない、 ーぶしんのときには、まえにもかいたように、あんなにねっしん それがしようこに、 でした。 また、つつみをかためるために、自分のたいせつな日よう二百文で、まつなえをかい、 さかぐち それを坂口のつつみにうえもしました。 かわ ひと じぶん じぶん もん じぶん 111

7. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

もわかりますから、 ーへいく気はないのです。もちろん、両親にはないしょのさかなと りですから、ききにいくわけにもいきません。 ゅうき きんじろう 金次郎は、ちょっとしょんぼりしてしまいましたが、かれは勇気のある子どもです。 と・も 1 ち それにせなかの友吉は、おなかはくちくなるし、これからたのしいことになりそうなの おお で、大はりきりです。それをおもうと、やめられません。 きんじろう みず ばしょ 金次郎は、水のひききれない場所をさがしてあるきました。 みち ほんとうに大きなさかなが、道ばたのみぞなんかにおよいでいるのでした。畑と畑の きんじろう おお あいだのみぞで、金次郎は、大きなきんぶなをとりました。ざこもとりました。 きんじろう もう金次郎はむちゅうです。畑や山すそのみぞで、さかながとれるなんて、ゆめのよ うでした。 きんじろうともきち 金次郎も友吉も、どろと水で、びしよびしょです。 きんじろう と、金次郎は、がけ下の水のわきでている、たまり水の中に、黒い大きなこいが、し おお かわ みす したみず はたけやま みずなか りようしん くろおお はたけ はたけ

8. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

きんじろう けれど金次郎は、すこしもへばりません。へばるどころか、ますますげんきです。 こ 十四さいといえば、子どもざかりで、たべざかり・あそびざかり・ねむりざかり・わ きんじろ・つ : 。なにもかも、ざかりざかりの年ごろですが、この中に、金次郎のあ んばくざかり : てはまるものが、ただ一つだけありました。 きんじろう カらだが大きいだけに、しよくよくもとくべ それは「たべざかりーです。金次郎は、ゝ つでした。じつに、気持ちよくたべたのです。 よくたべて、まっくらなうちにおきて、片道四キロの山々ーー箱根のふもとの久野山 みたけやま やさしばやま だとか、矢佐芝山だとか、三竹山などへ、たきぎをとりにいってくるのです。ときには、 おうふく 二往復する朝もありました。 じかん きんじろう じかん おうふく この往復の時間だけが、このころの金次郎の勉強の時間だったのです。もう寺子屋へ きんじろう したくとなっていました。 いくなどということは、金次郎にはゆるされないぜ、 そら ほん 4 ~ い・つ / 、 「大学」という本を、ふところにいれてでて、空があかるんでくるとよみはじめます。 あさ かたみち べんきよう おお やまやま はこね なか てらこや くのやま

9. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

けんめい勉強できたことは、かえっておじさんのおかげだった、とさえおもうのでした。 えんぞう きんじろう えんぞう それにつけても、わすれられないのは、いとこの円蔵です。金次郎は、円蔵のしんせ こころ しよう つは一生わすれまい、と心にちかうのでした。 きんじろう こうして、おじさんの家をでた金次郎は、こんどは、やはりしんせきで、村の名主を おかべぜんえもん っとめる岡部善右衛門という人の家ではたらくようになりました。 がくしゃ かねも ひと ぜんえもん 善右衛門という人は、村いちばんの金持ちで、そのうえ、村でならぶもののない学者 でもありました。 きんじよ がくもん すけ その長男の伊助という人も学問がすきで、近所の子どもをあつめて、手習いをおしえ ていました。 こういう家ですから、人におしえるばかりでなく、自分たちも勉強のために、ときど こ・つぎ おだわら き小田原から先生をまねいて、講義をきいていました。 すけ がくもん きんじろう 金次郎は、ふだんは伊助について、学問をならいましたが、先生がこられた日には、 ちょうなん べんきよう せんせい ひと ひと ひと こ じぶん むら せんせい べんきよう て むら ひ なぬし 1 14

10. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

ほんよ しようねんきんじろうぞう がら本を読む少年金次郎の像がたっています。 ねん にのみやきんじろうそんとく 明治十三 ( 一八八〇 ) 年から明治十九 ( 一八八六 ) 年ごろにかけて、二宮金次郎 ( 尊徳 ) が こくていきようかしょ てほんのうそん にわかに国定教科書にとりあげられ、子どもたちの手本、農村のまもり神としてもてはやされ ました。 もはん がくしやせいじ それまで日本の歴史のうえで、模範となる人物としてとりあげられていたのは、学者や政治 ぶしよう きんじろうとうじよう 家や武将ばかりでした。そこへ農民の子である金次郎を登場させたのは、どうしたわけでしょ ぜいきん そのころ、日本の農村はたいへんまずしく、税金がはらえなくて、村をすててでていく農民 じゅうみんけんうんどう こんみんとう があいつぎました。このため自由民権連動がおこり、困民党がたちあがり、政府をこうげきす て る火の手がひろがりはじめていました。 せいふおお へんか おも 政府は大きな変化をもたらさないで、これをかいけっする手だてはないかと、思いだしたの にのみやそんとく が二宮尊徳でした。 そんとく 尊徳は、勤勉と倹約で、農村のたてなおしをやりとげました。また、政治にはいっさい口ば か ひ きんべんけんやく につばんれきし につばんのうそん のうそん のうみん じんぶつ ねん むら がみ くち のうみん 177