幽学 - みる会図書館


検索対象: 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎
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1. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

れきしじんぶつじてん しもうさのくに ちばけんか 歴史人物事典 ( 天保六 ) 年に、下総国 ( いまの千葉県 ) 香 とりぐんながべむらす 取郡長部村に住みつきました。 おおはらゆうがく くる 、大原幽学 そのころ、農民のくらしは苦しく、しかも きびしく米をとりたてられるので、長部村の 一七九七 ? 、一八五八年 人たちは土地を捨ててにげたり、やけになっ おおはらゆうがく ねっちゅう 大原幽学は生まれた年も生いたちもわかっ てかけごとに熱中したりしていました。 ゅうがく だ ゅうがく とち ていません。しかし、幽学がのちに幕府に出 これを見た幽学は、農民たちに土地や田植 ゅうがく こびとめつけ ほうかいりよう したとどけによると、幽学は小人目付という え法の改良などの農業技術をはじめ、住まい おとうと たかまつひこくろう もの どうじ 役目をしている高松彦九郎の弟で、小さいこ衣類、食べ物などの改良を教えると同時に、 よ・つし あいちけん にんげんみち ろに尾張藩 ( いまの愛知県 ) の武士の養子に かけごとをやめ、正しく生きる人間の道をす なったとしるされているそうです。 すめました。 ゅうがくぶし じゅがくぶつきよう ゅ・つがく せんぞかぶくみあい さんぎようくみあい その後、幽学は武士をやめて、儒学、仏教、 幽学はさらに先祖株組合という産業組合を しんとう まな ながべむらのうみんしどう 神道などを学びながら諸国を歩き、一八三五作り、長部村の農民を指導しました。つまり、 やくめ おわりはん ご ・つ しょこくある としお ばくふ ねん ひと てんぼう こめ み とち ねん のうみん ただ のうぎようぎじゅっ かいりようおし のうみん ながべむら たう 186

2. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

くみあいいんきようどう たはた ゅうがく 長い年月、ろうやにつながれていた幽学は この組合員は共同で田畑をたがやし、その田 はた っ くみあいいん ながべむら 畑からの収人を積みたて、組合員がくらしにやっと許されて長部村にもどりました。しか きん せんぞかぶくみあい 困るようなことがあれば、その積みたて金でし、先祖株組合はつぶされ、農民たちの生活 はあれはて、またも、かけごとにふけってい 生活をたてなおすのです。 こ・つちせいり このほか、耕地整理、土地の交換などもるありさまでした。 しごと ひとり おも さいばいぎじゅったか のうぎよう 行って栽培技術を高め、一人でも農業をやめ「農民を救う仕事は、一時は成功しそうに思 ちからあ けつきよく る者のないように力を合わせることを教えまえたが、わたしの力がたりないために、結局 お 失敗に終わってしまった : : 。」 ゅうがく ばくふ ゅうがく 幽学は幕府に対する怒りと、自分の考えが このため、長部村は優良の村になり、幽学 ものかずおおあらわ おも かな をしたう者が数多く現れました。 思うようにいきわたらない悲しみから、六十 ゅうがくわるおし せつぶく ところが、幽学は悪い教えを農民にひろめ二歳で切腹して死にました。村の人たちは幽 ばくふ せんぞかぶくみあい るということで、幕府にとらえられてしまっ 学におわびすると、先祖株組合をもういちど つく たのです。 作ったといわれます。 せいかっ こま もの しゅうにゆう ながべむらゆうりようむら とち のうみん っ こうかん た しつばい ながねんげつ のうみんすく ゆる し ちから じ のうみん せいこう むらひと ( きりぶち輝 ) じぶんかんが せいかっ あきら 18 7

3. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

まつだいらさだのぶせいけん ていとく 権にかわって、松平定信の政権にかわったときにはじまり、アメリカの提督ペリーが、四せき ねんかん くろふね の黒船をひきいて、浦賀沖にあらわれ、開国をせまった約七十年間にあたります。 せんほっかいどう せんながさき せん つうしよう このあいた、ロシア船が北海道に、イギリス船が長崎に、アメリカ船が神奈月 ( ーこきて通商を につばん もとめ、国をとざしてねむりつづけてきた日本のとびらをたたきました。これにしげきされて、 だいにほんえんかいよちぜんす のうただたか まみやりんぞう こんどうもりしげしげぞう 近藤守重 ( 重蔵 ) 、間宮林蔵らの北方探検がおこなわれ、伊能忠敬は「大日本沿海輿地全図」を たかのちょうえい らんがく いカくおし ながさきせいよう 完成しました。ドイツ人シーボルトがきて長崎で西洋医学を教え、蘭学をまなんだ高野長英・ わたなべかざん 渡辺崋山らがとらえられました。 おおしおへいはち おおさか いっぽう、大阪では天保のききんで、米のねだんがつりあがったのをきっかけに、大塩平八 おうみ 郎の乱がおこり、近江では四万の農民がたちあがって大一揆をおこしました。 このように、ほんの一部分をあげただけでもわかるように、国の内も外もはげしくゆれうご くる き、やがて明治維新へとなだれこんでいく夜明けまえの苦しみにみちみちていました。 しだい そんとく しかし、尊徳の心は、これらの時代のうごきには、まったくむけられませんでした。おなじ し 1 」と のうせいか さとうのぶひろ のうそんしどうしやおおはらゆうがくおおくらながつね 時期にかつやくした農政家の佐藤信淵や、農村指導者の大原幽学・大蔵永常などの仕事にも目 けん ろう らん しん こころ ・つらがおき てんぼう ぶぶん まんのうみん ほっぽうたんけん かいこく こめ だいいっき や うちそと かながわ め 1 7 9

4. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

あかゆき 赤い雪ふるか : しんねん 信念の一生・ : にのみやきんじろうねんびよう 二宮金次郎の年表 : ・ 解説 : 歴史人物事典 あおきこんよう 青木昆陽 : ・ おおはらゆうがく 大原幽学 : ・ 表紙絵・さし絵 / 中村英夫 かいせつ れきしじんぶつじてん ひょうしえ いっしよう え なかむらひでお 186 184 とみたこ - つけい 富田高慶 : やすながさにお ・ : 保永貞夫 188 176 172 159 140

5. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

しょ ばくふ その後、昆陽は幕府の本をとりあっかう書 この意見をとりあげ、さっそく昆陽に命じて しよもつぶぎようにん とうきようだいがくりがくぶふぞく こいしかわやくそうえん 小石川の薬草園 ( いまの東京大学理学部付属物方になり、書物奉行に任ぜられました。 こんよ・つ よしむねめいれい う しよくぶつえん さらに、昆陽は、吉宗の命令でオランダ人 植物園 ) に、さつまいもを植えさせました。 まな ほうえき がいこ ~ 、 からオランダ語を学びました。外国と貿易な 「うむ。味もいいし、かんたんにできる。 こんよ・つせいよう さこくえどじだい よしむねよろこ しゅうかく あき 秋にたくさん収穫できると、吉宗は喜んでどをしない鎖国の江戸時代に、昆陽は西洋の オランダもじりやく がくもんべんきよう いんさっ 昆陽の書いた「蕃薯考」を印刷し、種いもと学問を勉強したのです。そして、「和蘭文字略 - 」う ほん かくち し「しょに各地へ配り、さつまいもの瑟壥を考」などの本をあらわしました。 がくもん こんよう らんがく 昆陽の蘭学 ( オランダの学問 ) は直接には すすめました。 やく おきなわたねがしま さつまいもは中国から沖縄、種子島、薩摩役にはたちませんでしたが、このオランダ語 ちしきまえのりようたく った った こんようまえ か 1 」しま ( いまの鹿児島 ) に伝わり、昆陽の前にも何の知識は前野良沢らに伝えられ、オランダの がくかいばうしよかいたいしんしょ ほんしゅう にん 人もの人が本州に持ってきて栽壥しています医学の解剖書「解体新書」を出版するもとに こんよう ( きりぶち輝 ) が、このことから有名になった昆陽を、甘藷なりました。 先生とよぶようになったのです。 せんせい こんよう いけん ひと ちゅうごく ばんしょこう ゅうめい こんようめい たね さつま かんしょ なん もっかた こんよう ほん しゆっぱん ちよくせつ あきら しん 18 5

6. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

かお 万兵衛おじさんは、きびしい顔ではなしだしました。 よる 「ずっとまえから、おまえのへやに、夜おそくまであかりがついているが、あれはなに をしているのだ。」 「はい、勉強をしているのでございます。 がくもん 「ひやくしようには、学問はいらぬ。ねぶそくすると、あしたの仕事にさしつかえる。 以後、けっして夜ふかしをしてはならん。 「はい きんじろう こうがくしん そうはこたえたものの、金次郎の向学心はおさえられるものではありませんでした。 し′」と ( ねぶそくしても、つぎの日の仕事にさしつかえがなければ、かまわないだろう。でも、 ( し。オしカら、そうだ、こうしよう。 ) おじさんにしんばいをかけてま、ナよ、ゝ ひかり きんじろう と、金次郎は、あんどんに、ぬいだきものをかけて、光がもれないようにして、その後 も勉強をつづけました。 まんべえ べんきよう べんきよう し 1 」と

7. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

ころざしは、、 しよいよはげしくなっていました。 きんじろう 金次郎は、おじさんがこういう人ですから、ここにいるあいだに、心をきたえ、農業 こころ のぎじゅっをすっかりおばえてしまおう、と心をきめました。 み がくもん 学問も、しつかり身につ しかし、一家をたてなおすには、そればかりではたりない、 やぎよう けるひつようがある、とかんがえました。それで、夜業をすますと、まいばんおそくま ほん かながしら で、あんどんをひきよせて、ねっしんに本をよみました。まえにならった「仮名頭」や ふくしゅう だいがく 「実語教、などを復習し、「大学」もよみなおしました。 あるタがた、くらくなってから、のらからあがってきますと、おじさんが、炉ばたに きんじろう きちんとすわって、金次郎をまっていました。 きんじろう 「金次郎、ちょっとここへおいで。」 「はい どま きんじろう 金次郎は、土間にぎようぎただしくたって、頭をさげて、きくしせいをとりました。 じつごきよう ゅう か ひと あたま こころ ろ のうぎよう

8. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

* 著者紹介 打木村治 1904 年 , 埼玉県に生まれる。早稲田大学経済 学科卒業。しばらく大蔵省に勤務。のち , 「文 学評論』に「喉仏」を発表。その後『文学界』 に「或る手工業者」などを発表し農民文学作 家としての地歩を固めた。戦後児童文学の執 筆を始める。「天の園」「十六歳」などを発表。 芸術選奨文部大臣賞などを受賞。 * 画家紹介 なかむらひでお 中村英夫 1929 年 , 東京都に生まれる。雑誌や書籍のさ し絵などて活躍し , のちに油絵にすすむ。新 自然協会の設立に参加。毎年同協会展に出品 するほか , 飯田画廊等て個展をひらいている。 うちきむらじ

9. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

ともきち とみじろう 友吉はおいかけてきて、はらをたててなきだします。せなかの富次郎も、つられてな きんじろう きだします。金次郎は、そこではじめて気がついて、 ともきち とみじろう 「おお、友吉か。これこれ、富次郎もいたか。一一人してなぜなく。朝からなくやつがあ るか と、こんなちょうしです。 きんじろう ともきち とみじろう 金次郎は、十一さいになった友吉が、二さいの富次郎をおぶっているすがたをみると、 なんねん じぶんともきち 何年かまえ、自分が友吉をおぶったすがたをみるようで、なっかしいのでした。 さかわがわおおみず とう すると、酒匂川の大水を、ふしぎとおもいだすのです。そうして、お父さんが、たた わけもなく、こいしくなるのでした。 おだわら しよってきたたきぎは、、 月田原の町へもっていってうるのです。夜ふけまで夜なべし てつくったわらじゃなわも、たきぎといっしょにもっていってうるのです。 おだわら だいが′、 小田原のゆきかえりにも、「大学」をよみます。 まち ふたり あさ

10. 農と村に生きた尊徳 二宮金次郎

す。 りようあお 良の青びようたんで、おぜんのまわりを、ひょこひょこあるきまわっています。 しようがっ おぜんといえば、お正月だというのに、お正月のごちそうは、なに一つありません。 がんじっ きんじろう くのやま じつは、一兀日のけさも、金次郎は久野山からかえってきたところなのです。ふところ だいカ / 、 あおぞらきようしつ べんきよう きんじ には、まだ「大学」がはいっています。ねっしんな青空教室の勉強で、このころの金次 ろう がくもん み 郎は、学問もずいぶん身についてきていました。 きんじろう よっか 「金次郎や、そういえば、三、四日すると、大かぐらがまわってくるね。 「そうですね。 「どうする。」 かやまむら 栢山村では、正月には、家ごとに、大かぐらがまわってあるくならわしになっていま かどぐち ビーヒャラ、ラ、テケテン、テケテン、と門口にくると、十一一銅 ( いまのやく百二、三 かね えん 十円 ) の金をださなければならないのです。そのことを、もうお母さんはしんばいして しようがっ しようがっ かあ どう