叟 - みる会図書館


検索対象: とんち小僧から名僧に 一休
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1. とんち小僧から名僧に 一休

そうじゅんしつぼう だが、すぐには門弟にくわえられませんでした。しかし、宗純は失望しませんでした。 きんじよ かそうひと かんしん そして、近所でいろいろ話をきけばきくほど、華叟の人となりに感心しました。 た 華叟はびんばうな生活をしていました。食べられないことすら、ときどきありました。 かそ・つ しんねん しん だが、華叟は信念をまげず、じぶんの信ずるままにふるまっていました。 そして、でしにたいしてもきびしく、でしたちのうちには、しんぼうができずに、に げていくものがたくさんいました。 ーし そうしゅん しおんかん かんか 宗純は、、 しままでの師の恩も感じてはいますし、たしかにいままでの師の感化もうけ てはいましたが、、 しままでの師は、 いくぶんじぶんをあまやかしてくれていたことも し 知っていました。 そうじゅん くぎよう 宗純は、おしやかさまやだるまにもまけない苦行がしたかったのです。だから、華叟 ひと こんばん のもとでしんぼうできない人がおおいときくと、なおさらそういうところで、根本から きたえなおしてもらいたくなったのです。 かそう もんてい せいかっ はなし ーし かそう

2. とんち小僧から名僧に 一休

「こんなかわり者には、さわらないほうがいい」 といって、ひっこんでしまいました。 かそうひる かえ そうしゅん もんせん 華叟が昼すぎに帰ってみると、宗純はすまして門前にすわりつづけています。 かそう 華叟もはじめて、 ( このばうず、ふつうの男とちがうな。 ) おも と思いました。 かおみ そして、あらためて、このばうずの顔を見ました。 おお ( この男はぞんがい大ものかもしれないぞ。 ) かそうおも そう華叟は思わないわけにはいきませんでした。 「はいったらいいだろう。」 そういいました。 おとこ もの おとこ

3. とんち小僧から名僧に 一休

しがけん なのかかん けんおう いしやまかんのん 一四一四 ( 応永幻 ) 謙翁なくなる。石山観音 ( 滋賀県 ) に七日間 びわこ み こもるが、さとれず、琵琶湖に身をなげよう としてすくわれる。 ( 二十一さい ) ぜんこうあんかそう しゅぎよう おうみくにかたた 一四一五 ( 応永 ) 近江の国堅田の禅興庵の華叟のもとで修行を はじめる。 ( 二十二さい ) しゅぎよう きようと 一四一六 ( 応永 ) 生活にこまり、京都に出て内職しながら修行 する。 ( 二十三さい ) おうえい 一四一八 ( 応永為 ) 華叟より「一休ーの号をさずけられる。 ( 二十五さい ) おうえい 一四二〇 ( 応永 ) 華叟より、さとりをひらいたという印証をわ一四二〇 5 一四二八 年このころ、大 たされるが、うけなかった。 ( 二十七さい ) おうえい かんご いっきゅうよる かそうびようき 一四二一 ( 応永 ) 華叟が病気になる。一休は夜もねないで看護ききん・えき病が りゅう・」う 流行し、おおくの ( 二十八さい ) する。 ししゃ 1 」こまつじようこう 死者がでる。 ( 三十四さい ) 一四二七 ( 応永 ) 後小松上皇に拝謁する。 しようちょう ( 三十五さい ) 一四二八 ( 正長 1 ) 華叟、堅田でなくなる。 おうえい おうえい おうえい おうえい せいかっ かそう かそう かそうかたた いっきゅう はいえっ ごう ないしよく いんしよう ねん びよう 195

4. とんち小僧から名僧に 一休

他人のことが頭からはなれませんでした。他人のばかさ、うそ、いつわりが目につい ていました。 によいあん だいとくじ 二十九さいのとき、大徳寺の如意庵で、華叟の師の三十三回忌がもよおされました。 しゆっぜき だいとくじ 大徳寺のぼうさんはみんな、それぞれりつばなころもをまとって出席しました。 すみ ひとり いっきゅう その中でただ一人、一休さんは、色のあせた墨ぞめのころもに、しりきれのきたない ぞうりをはいていました。 「おまえはなぜ、ちゃんとした身なりをしてこないのか。」 こた 華叟がとがめると、一休さんはヘいぜんとして答えました。 「にせぼうずのなかまいりはごめんです。」 たにん かそう なか あたま いっきゅう み かそう たにん し め

5. とんち小僧から名僧に 一休

しゅぎよう そうじゅん しかし、宗純は、そんなことにはおどろきませんでした。むしろ、それを修行のたし にしました。 きようと かね かえ また、金がなくなると、京都へいって、香づつみなどをつくって、金をもうけて帰っ しゅぎよう てきて、それでまた修行をつづけました。 そうじゅんくすり ゅびき あるとき、宗純は薬をきざんでいて、あやまって指を切りました。すると、血がひど ながで く流れ出ました。 み それを見て、華叟がいいました。 ゅび 「わかいのに、なんというやわらかい指をしているのだ。」 かそう そうじゅん こころなか だが、華叟はもちろん、宗純をにくんでいるのではありませんでした。心の中では、 そうじゅん そうじゅん 宗純をおもんじていました。だが、宗純のこだわりをなくすためには、あまやかしては し ならないことを知っていたのです。 おも この男こそ、きたえればきたえるほど、ものになる男だと思ったにすぎませんでした。 おとこ かそう こう おとこ かね ち

6. とんち小僧から名僧に 一休

ぢややひとやす つまり、この世は、まえの世から、のちの世へ いく、道中のかけ茶屋で一休みしてい かぜ あめ るようなもの。ほんのつかのまのことだから、どんなに風がふき、雨がふろうとも、し んぼうしよう。いや、どんなあらしがやってきても、ゆうかんにたちむかっていこう、 み という意味です。 かそう 華叟は、それを見るといいました。 「おまえの名は、これから一休としたらいいだろう。」 そうじゅん こうして、宗純は、一休となったのです。 と・つじよう いよいよ一休さんの登場です。 そうじゅん 一休さんとなった宗純は、その後もゆだんはしませんでした。 ねん それから二年たって、ほんとうにさとったという印証を、師の華叟からあたえられま いっきゅう かみひ したが、 一休さんは、その紙を火の中へすててしまいました。 いっきゅう たよ いっきゅう よ み いっきゅう いっきゅう よ なか よ いんしよう どうちゅう かそう

7. とんち小僧から名僧に 一休

しゅぎよう くるしい修行 そうじゅん けっしんつよ しゅぎよう それから宗純は、ますます決心を強くしました。そして、だれについて修行したらい いか、ねっしんに師とするにたる人をさがしました。 いろいろの人につてをもとめて会ってみました。あるいは、うわさをいろいろきいて ひと であ みました。が、これという人には出会いませんでした。 そうじゅんしつばう おうみくに しがけんかたたぜんこうあん だが、宗純は失望しないでもとめました。そして、近江の国 ( 滋賀県 ) 堅田の禅興庵の ひと かそうろうし しようすいじ 華叟老師 ( のちに祥瑞寺を開く ) こそ、じぶんのもとめる人だということを知りました。 そうしゅん しようかいじよう 宗純はまっすぐに、だれの紹介状ももたずに、華叟の門をたたきました。 「わたしがまちがっていました。見ていてください。きっとさとってお目にかけます。」 「よくいってくださった。わたしは一生、いまのおことばをわすれません。」 ひと し ひら ひと あ み しよう かそうもん め し

8. とんち小僧から名僧に 一休

こえ 京都に帰「てきたときの、母のきびしいさとしの声がきこえてきました。 おも 人々は、一休さんといえば、いつでも人をばかにしている男のように思「ていますが、 一休さんの一面には、気持ちがこまかく、なみだもろいところがあるのは、かくせない 事実です。 ねんぶつ はかまえあたま 一休さんは、の墓の前に頭をさげると、べつに念仏もとなえませんでしたが、はじ てらかえ いっきゅう つもの一休さんにな「て、じぶんの寺に帰「てきました。 めてやすらかな、い かお そして、なにごともなかったような顔をしていました。 しようちょうがん 一休さんの師、華叟が死んだのは、正長元 ( 一四二八 ) 年六月、一休さんが三十五さい のときでした。 びようき 華叟はこしの病気がおもくな「て、いすにすわ「たまま、小便も、大便もたれ流し、 下においたうつわにうけるというありさまでした。 たけ でしたちは当番で、これを竹ばしや、はけなどを使「てしまっしましたが、一休さん した じじっ は ひと つか ねんがっ し う ん おとこ いっきゅう だいべん いっきゅう な ルが

9. とんち小僧から名僧に 一休

そうじゅん もんぜん 宗純は、はじめたずねて、はっきりことわられると、ゆるされるまで門前でまっこと こころ を、いにきめました。 かそう こんき 華叟とじぶんと、どっちが根気がいいカ そうじゅんよる こすい ふねなか 宗純は夜になると、湖水にうかんでいる船の中でねました。そして、朝になると寺の もんぜん 門前に出かけていきました。 にち こうして、四、五日がすぎました。 あさそうじゅん てら もんぜん ある朝、宗純はいつものように、寺の門前にいました。すると、華叟がでしをつれて そうじゅんみ 出てきました。宗純を見ると、 お 「このまえのばうず、まだいるな。水をぶつかけて追いはらえ。」 で そういって、出かけていきました。 そうじゅん お おも でしたちは、ほんとうに水をもってきて、宗純にぶつかけて追いはらおうと思いまし そうじゅん たが、宗純は、そんなことにはおどろきません。で、水をかけるほうが気がひけて、 で で みず みず みず かそ・つ あさ てら

10. とんち小僧から名僧に 一休

と えいきよう こまっしょ・つこうぶつぼう 一四三三 ( 永享 5 ) 後小松上皇に仏法を説き、宝物をたまわる。 しようこ・つ ( 四十さい ) その後、上皇なくなる。 えいきよう かそう きようとだいとくし 一四四〇 ( 永享 ) 京都大徳寺で、華叟の十一二可引をいとなみ、 ふつか のちだいとくじ ( 四十七さい ) 二日の後、大徳寺をさる。 かきっ しよううさんたかっきし 一四四二 ( 嘉吉 2 ) 譲羽山 ( 高槻市 ) に、尸寺をつくる。 ( 四十九さい ) ぶんあん そう だいとくじ しさっ すうにんそう 一四四七 ( 文安 4 ) 大徳寺の一僧が自殺したことから、数人の僧一四四六年このこ しよううさん のうきようげんかんせい がとらえられる。このため一休は、譲羽山に ろ、能狂言が完成 だんしき ごはなぞのてんのうめいれい こもり、断食するが、後花園天皇の命令でやする。 める。 ( 五十四さい ) ねんだいとくし ( 六十二さい ) 一四五五 ( 康正 1 ) 「自戒集」を編纂する。 一四五三年大徳寺 みようしようじ ふつこ・つ やましろくに きようとふ かさい が火災にあう。 一四五六 ( 康正 2 ) 山城の国 ( 京都府 ) 薪村の妙勝寺を復興し、 しゅうおんあん いっきゅうじ 酬恩庵 ( 一休寺 ) と名づける。 ( 六十三さい ) だいとくじ かそう 力いき 一四六〇 ( 寛正 1 ) 大徳寺で、華叟の三十三回忌をいとなむ。 ( 六十七さい ) かんしよう - 」・つしよう ・」・つしよう しかいしゅう へんさん たきぎむら ほうもっ いっきゅう ねん 196