きゅうしゅう りんざいぜん まず栄西は、九州で臨済禅をひろめはじめ これでやっと栄西のかんがえがみとめられ、 ひえいざんだい かまくらばくふ ましたが、比叡山の大はんたいとこうげきをこんどはぎやくに、鎌倉幕府のてあついほご ぜんしゅう きんし きようと じゅふくじ てんだい しんごん うけ、禅宗の禁止をもうしわたされました。 をうけ、鎌倉に寿福寺、京都に天台・真言・ しゅうは べんきようどうしよう これにたいし栄西は、 禅という三つの宗派をかねた勉強の道場とし さいちょう ぜん けんにんじ 「禅というものは、最澄もいっているように、 て、建仁寺をひらきました。 だるま ぼだいだるま しゅうきようかい 達磨 ( 菩提達磨 ) がインドからったえたただし ふるい宗教界に、あたらしい血をそそぎこ ぜん りんざいぜん ぶしかいきゅう い仏法である。もし、禅のおしえがまちがつんだ栄西の臨済禅は、武士階級にかんげいさ さいちょう こいけないものなら、最澄のかんがえもまちれ、大きなえいきようをあたえました。 ちゅうごく につばんてんだいしゅう かいということになり、日本の天台宗はなり栄西はまた、中国から茶の実をもちかえり、 きっさようじようき たたないのではないゝ。 茶のつくりかたをつたえ、「喫茶養生記」とい はんろん と反論しました。さらに栄西は、一一九八 ( 建う本もあらわしています。 かまくらじゅふくじ こうぜん 1 」こく 久九 ) 年、この主張やかんがえを「興禅護国栄西は、鎌倉寿福寺で、七十五さいでなく ろん しよもっ あらいひでお なりました。 ( 新井英生 ) 論」と題した書物に書きあらわしました。 きゅう ぶつぼう ねん えいさい しゅちょう えいさい けん ぜん ちゃ えいさい ほん えいさし えいさい おお かまく・り えいさい ちゃみ ち 207
ねんえいさい そこで一一六八 ( 仁安一一 D 年、栄西は宋 ( 中 てんだいさんあいくおうざん 国 ) にわたり、天台山や阿育王山で、あらた そうてんだいしゅう めて勉強しなおしましたが、宋の天台宗は、 ぜんしゅう いつのまにか禅宗をとりいれていました。 にんげん 一一四一 5 一ニ一五年ぜん 禅とは、かんたんにいえば、人間はどう生 びっちゅうくにおかやまけん にんげんこころ 備中の国 ( 岡山県 ) に生まれた栄西は、明庵きるべきかをかんがえ、人間の心のなかに、 こころ につばんりんざいしゅう 栄西ともよばれており、日本に臨済宗をひら仏の心をめざめさせようとするものです。そ こころ ざぜん いた人です。 のために、座禅をくんで心をしずめ、きれい こころ てんだいしゅう 十四さいで比叡山にのぼり、天台宗をおさな心で、かんがえをめぐらせるわけです。 さいちょうでん 一一八」ハ ( 文治一 D 年、ふたたび宋へわたっ めた栄西は、三、四百年もまえに、最澄 ( 伝 ぜんしゅう てんだいしゅう じだい りんざいぜんりんざいしゅう しやかい 教大師 ) がひらいた天台宗も、時代や社会のた栄西は、禅宗の一派である臨済禅 ( 臨済宗 ) ぜん てんだい しゅうせい うつりかわりにおうじて修正するひつようのをまなび、このあたらしい禅によって、天台 う しゅう けっしん あることを、つよくかんじました。 宗を生まれかわらせようと决心しました。 ぎようだい ようさい えいさい ひと ひえいざん ねん れきしじんぶつじてん 歴史人物事典 栄西 う えいさい みようあん ねん ほとけ べんきよう ぶんじ にんあん ねん そうちゅう 206
いっきゅうぜんじ 3 一休禅師の巻 一生考えぬけ : とっととゆけ : 手を出すな、頭を出すな : 一休旅ごろも : ・ ごはんをいただきたい : ようじん ようじん ) 」用心、 ) 」用心 : せんす屋をたすける : たけにすずめ : し ちち あ 死んだ父に会いに : おなら一ばっ : し 死にとうない : て いっきゅうたび しようかんが だ や まき あたまだ ワリ ・ 4 4 -0 ・ 8 一休の年表 : ・ かいせつ 解説 : れきししんぶつじてん 歴史人物事典 えいさい 栄西 : せっしゅう 雪舟 : ・ あしかがよしまさ 足利義政 : ザビエル : ひょうしえ みすさわけん 表紙絵・さし絵 / 水沢研 しばたしん カット / 柴田慎 いっきゅうねんびよう ワ ~ 8 ワ ~ ワ ~ ワ ~ ワ ~ え 市、 白 弦 198 194 、ちかわはくげん
「きようは、これでおしまいにいたします。」 人々はぶつぶついいましたが、 一休さんが出てきたので、ありがたがって、べつに苦 じよう 情もいいませんでした。 こうぎよう ここんとうざい ろうにんおも かね 古今東西に類のない興行は、こうしておわりましたが、浪人は思いがけない金がは かえ って、ぶじにふるさとに帰ることができました。 ちち あ 死んだ父に会いに えちぜんふくいけん 越前 ( 福井県 ) の永平寺に、禅居禅師という人がいて、一休さんを尊敬していました。 し し かみどんや ぜんご あるとき、禅居の知っている大きな紙問屋のだんなが死にました。ところが、そのむ き ちち おやこ・つこ・つ すこが大の親孝行もので、父が死んだのをあまりなげいて、気がへんになりました。 ばんと・つ ぜんご ばんとう 番頭たちはしまつにこまって、禅居のところにそうだんにきました。禅居は番頭にい ひとびと し え じ ぜんごぜんじ おお し せんご いっきゅう で ひと いっきゅう そんけい 170