ーレよノ、、レ」、つ ないぶかんさっ ないし一よ、つ こふん うに、内視鏡 ( 古墳の内部や、食道や胃の内部を観察する器具 ) を使って、キツネ と、つじ しやしん すあな の巣穴の中をのぞいたり、写真にとったりすることができたでしよう。でも当時は、 み すあな キツネが使わなくなったのを見とどけたうえで、巣穴をこわして見る以外に、その ないふ 内部のつくりやようすを調べる方法がありませんでした。 ー刀 ひあ ふゅ その日会った「ケマ」は、冬のさなかに見かけたスマートな姿とは、うって変わ しゆっさん み って、ずんぐりと胴がふくらんでいました。キツネの出産は、身ごもってから五〇 おも す、つにち 数日と聞いていましたので、おそらく、あと数日で子を産むのだろうと思いました。 よ わたくし はんしゃてき 「ケマ」と呼ぶと、ほとんど反射的にチラッと私のほうをふりむいただけで、そ どろい すがたみ のまま小走りに、土囲のかげにかけこんだきり、その日は、ついに姿を見せること はありませんでした。 「ケマ」親子 力いこん もりばっさー こやしゅ、つい 四月も、そろそろ末になると、私たちの小屋の周囲は、開墾のための森の伐採が、 がっ すえ ないふ おやこ わたくし み すうじっ ひ すがた み つか し・刀し
いものの、生後わずか四か月で、おどろくほどり 0 ばな、野生のハンターに成長し ていたのです。 さり・ げんや 霧の原野 こんせんげんやほっかいとう とうぶ くしろ ねむろちほうひろ げんや 根釧原野 ( 北海道の東部、釧路と根室地方に広がる原野 ) の七月は、俗にガスと呼 去、り・ ミ一り・ ほんしゅ、っちほ、つ さんかん ばれる霧の季節です。この霧は、本州地方の山間で、秋のころよく見られる霧やも まいとしりゆ、つひょ、つ ながで うみあ やとはちが 0 て、毎年、流氷が流れ出る海明けのころ、はるか北太平洋からオホー はっせい おお おも いりゆ、つむ ック海にかけて発生する、つぶが大きくて重い移流霧といわれる海霧のことです。こ どかいじよ、つ はっせい れは、一度海上で発生すると、つぎからつぎへと、袵充されながら、風におされて ないりくふか しんにゆ、つ えんがん げんや 内陸深く進入し、たちまち、広大な沿岸の原野を、、つ 0 とうしく暗く冷たい低温の べールに、おしつつんでしまいます。 のうむ このあたりでは、こうした濃霧の日が、一年のうち % 以上もあります。ことに七月 ー刀し・カ の開花どきには、月のうち、晴れの日がほんの数日で、残りの二〇数日は、非情にも、 きせつ つき こうだい ねん すうじっ やせい
れんじつつか あな ノウサギといえば、この動物は、一度ねぐらにした穴を、二度も三度も、連日使っ どっか おも つか 日 てみたり、中一日おいて使ったり、そうかと思うと、一度使っただけで、そのまま、 日 ある かならず、歩いてき 活すててしまったりします。そして、そのねぐらにとまるときは、 いた方向とは、まったくちがった方向に、横っとびに身をひるがえしては、数メートル やす あな しやしん なかゆきあな もはなれた、ブッシュの中の雪穴 ( 別ページの写真のような穴 ) にとびこんで休みま れ まツてのシれ ま しネい地ちュ たのる点ー す し にや のい ボと Ut ぶそ住すっ むた ーさタ ンえーのであ あンあはたと りは は ままて ま たしき D と 森台れ たまのに す場ば月竃がな そ 所鬟のあ れそ にのそか明象りと で な理りしらる ら由うて出でい沢えは て夜支がな つは たま翌き なあか かだ日と E どり た のわのの よかタ粤場ばノ小をの うりぐ所ょウさで にまれにサなす せまむギ湿匕 遠んでかは地ち や じ 出でそっそのく かうとれくば けし動 3 かれ地ち なたからるが い夜支ずま た なに なにさ とど く ん がは プ見み も あ りキっ D ッら ほ、つ一」、つ なか どうぶつ ま、つ、」、つ よこ すう 101
こうざんしよくぶつ あたりのお ~ 世畑で、一日じゅう、高山植物の実を食べてくらします。そして、日ご やまお とに寒さがましてくるにつれて、どんどん山を降り、ヤマブドウや、コクワやドング たいりよう ひか ふゅあな リなどをあさりなから、冬の穴ごもりにそなえて、皮下に大量の脂肪をたくわえま あな おな また、このヒグマと同じように、穴ごもりする小さなシマリスやナキウサギたちも、 このころ、草の実や、木の実などを、その場で食べたり、巣にはこんだり、ためこん ふゅ だりして、さかんに動きまわります。そして、そんな冬じたくのために、いそがしく 山を登り降りする小さな動物たちを狩るために、たくさんのキタキツネが、とちゅう でまちぶせたり、追いかけたりして、一日じゅうかけまわります。 ひがし だいせつざん ちょうどそのころにはまた、大雪山から東へ二〇〇キロメ 1 トルもはなれた、 おこな どうぶつ おな 私たちの住む原野でも、ま 0 たく同じようなことが、動物たちによって行われて いました。 だいはんしよく その年は、エゾャチネズミという小さなノネズミか、、大繁殖をした年だ 0 たので、 はっせいちあっ それを目当てに、たくさんのキタキツネが、その発生地に集まってきていました。 どうぶつ
「ケマの子たちは、どれくらいに育ったか、見当がつく ? 」 「さあーーーこ ぜんご 「生まれたときは一〇〇グラム前後だけど、おそらくはもう、親からえさをもらっ て食べているころだから、五〇〇グラムくらいにはなっているだろうね。」 はや 「そんなに早く ? 」 「これからは、もっともっと、育ちが早くなる。まあ、かいつまんでいえば、一三 にちぜんご 日前後で目があき、二〇日くらいで、親のあたえるえものの肉を食べはじめ、動きが かつばっ 活発になり、体重も、そのころからめつきりふえつづける。四〇日ごろには、一キ そだ ログラムぐらいになる。クマもそうだが、 " 、 月さく産んで大きく育てよ ~ ということ わざは、そんなところから出たんだ。」 ほっかしと、つ A 」、つ凵 1 ノ、、ぶ ほ、つ、」 タイチーじいさんは、おもに、北海道の東北部から北部にかけて、野生動物の宝庫 げんやもり どうぶつ すがた といわれた原野や森で、動物たちの生きる姿を、もう何年にもわたって、つぶさに じゅ、つ しぜんなかある お見てきたのです。しかも自由に、自然の中を歩きつづけてきた男らしく、 どこでも、そうした生きものたちの社会のふしぎさを、こともなげに語れるのだと たいじゅう おや はや 。け・んレ」、つ ほくぶ なんねん おお おとこ おや やせいどうぶつ いつでも、
ひちか 旅立ちの日も近い子ギッネたち たびだ 84
わかもの 0 て、見るからに、つやつやと療 0 た若者ギッネに成長していました。五頭の子ギ とうめす とうおす ツネのうち、三頭が雄で、二頭が雌でした。 子わかれの日 すあな 巣穴をはなれはじめたころは、母ギッネにまつわりついていて、まずはどこへいく げんや おやこ にもいっしよという、はた目にもほほえましい親子づれでした。でも、この原野にそ なつおわ むらさきいろ ろそろ、うす紫色のヤマハギの花が咲きみだれる、夏の終りごろになると、私た かおあ ちと母ギッネの「ケマ」が顔を合わせることはあっても、もうそのときは、子ギッネ の姿がいっしよとはかぎりませんでした。 おやこ 「そうなっても、親子は、一日のうち三度や五度は、どこかでかならず会っている とろい しいました。といっても、モセウシナイの土囲 ものだよ。」と、タイチーじいさんは、 あそ すあな の巣穴や、そのまわりには、子ギッネたちがもどったようすもなく、遊んだあとさえ なくなっていました。 すがた せいちょう 」、つ わたくし
3 子わかれの季節 あし めん すがた ギッネたちが、まったく姿を消してしまった日から、ちょうど五日めの夕方、この さわ 沢のホームレンジから去っていきました。「ポン・フレチノ」は、五頭の兄弟ギッネ わたくし からたちい のうちでも、一ばん体が小さく、私たちの目には、いつも母ギッネの「ケマ」の はんめん あま 足に、しつこくまつわりついて、はなれない「甘えんほう」に見えました。その反面、 ひめい きようだい ほかの兄弟ギッネが、母ギッネにはげしくかまれて悲鳴をあげているときでも、ち れいせい やっかりとすわって、じっとそれを冷静にながめていられる、といったずうずうしい 面も、もっていました。 子ギッネたちは、どこへ : わたくし ところで、私たちは、「この子ギッネたちが、親ばなれしたあと、いったん、ど じふんりようち せいかつけん こをどのようにして、自分の領地とか、生活圏としてさがしていったか。」というこ 一よ、つみ とに、興味をもっていました。 はっしんき げんざい かがくぎじゅっすす 科学技術の進んだ現在なら、それぞれの子ギッネの首輪に、発信機をつけて放し、 おや くびわ と、つ きようだい ゅうがた
しす もう、何ごともなかったかのような、静けさにかえっているのでした。 だいそうげん こうした光景は、はるか南のサバンナ ( 大草原 ) で、命をおとしたレイヨウやガ そうげんそうじゃ ゼルに群らがる、ハゲワシやハイエナ、ジャッカルといった、草原の掃除屋を見るよ ゅうだち げんば うです。その現場は、とてもさわやかとはいえませんが、それにしても、タ立の去っ げんや たあとの風景のように、この北の原野も、さり気なく、さばさばと見えるのでした。 「ポ 1 ン」の足あと れっしやじこ 歹車事故の いったい何をしていたのでしよう。リ ところで、そのころ「ポーン」は、 すちく わたくし おなみちある ひまち あった、つぎの日、町から、いつも同じ道を歩いて、私たちの住む地区にやってく ゅうびんぶつ わたくし る郵便屋 ( 配達員 ) さんが、その日は、私のところに郵便物がなかったのに、寄っ てくれたのです。 ′、 4 つよ、つ 「いいニュースですよ。」と、かれは、さももったいぶった口調で、いってから、 すうけん うえある はや せんろ 「じつは今朝がた早く、線路の上を歩いてましたら、そこから二〇数間 ( およそ五〇 みなみ いのち
1 キツネとの出会い ーも . り・ まいにちかよ 力いこんち よくじっ ぬれわらじ 、ます ) 。そして、その翌日から森の開墾地へ毎日通いながら、二 「濡草鞋」ともいし ひとす ほったてごや 〇日ほどかけて、やっと、掘立小屋ではありましたが、はじめて人の住める家を、こ 、も . り・ の森に建てました。 じぶん す じぶん みち やせいち 見よう見まねとはいえ、こうして、未知の野生地に、自分の住まいを自分でかまえ こころしゆっぱってん ・カ わたくし ることができたという、その誇りとゆとりか、私たち一家の心の出発点にもなり かんさっ せかい と、つじ わたくし ました。同時に、私にとって、それから、北の野生の生きものたちの世界を観察す おも る、よりどころにもなったと思っています。 私たち一家が、ここに落ち着いたのは、二月の下旬でしたから、そろそろ、この 北国にも、春のきざしが、見えはじめるころでした。 きたぐに 北国の春 こおり ほそさわがわ 力いこんごやのきした 開墾小屋の軒下を流れる、小さく細い沢川は、まだ、張りつめた氷こそ落ちては ひ みずおと いませんでしたが、その下を流れる水音は、日ごとに大きくなっていました。また一 わたくし はる はる み きたやせい がっ おお お