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検索対象: 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩
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1. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

していって捜しまわるというのも、みつともないことをす 大将は、「なんとも嘆かわしい有様で死なせてしまった ひょうぶ もの 3 るものよと世間の噂の種になることだろう。またあの兵部と思っておりました女が、この世に落ちぶれて生きており きようのみや 卿宮も、もしこのことをお聞きつけになろうものなら、き ますとか、人が教えてくれました。どうしてそんなはずが 語 ひと 物っとまた恋しくおなりになって、あの女がせつかく発心し あろうとは存じますけれど、自分からすすんで恐ろしいこ とをして私から背き去るようなことはありますまいと、 て踏み入った仏の道をもじゃまなさるにちがいない。じっ 源 ひと は宮にそうした考えがあって、それで后の宮にそのことを常々そう思っております、そうした性分の女でございます から、人が話してくれました様子からすれば、そうしたこ 口外なさらぬようになどと申しあげておかれたからこそ、 ともございましようかと、その人にふさわしい話のように 后の宮はそうした思いがけないことをお耳にしていらっし やりながら、この自分には、こんなことを聞いたがとお漏存ぜられまして」と言って、これまでより多少くわしくお しくださらなかったのだろう。宮までがこのことにかかわ聞かせ申しあげなさる。兵部卿宮の御事はいかにもはばか ひと りありげに、それでもさすがに恨みがましいようなおっし り合っていらっしやるのであれば、自分としてはあの女を ひと どんなにせつなく恋しく思おうとも、あのときあのまま死やりかたはなさらずに、「その女のことをまたこれこれで んでしまったのだと考えることにしてきつばりとあきらめと、宮がもしお耳にしておられるのでしたら、この私をき ひと っと見苦しく好色がましい男とでもお思いになりましよう。 よう。あの女が再びこの世にたち戻ったとあれば、いっか おうせ ひと その女がそうした身の上になっているということを、私は 遠い将来に、あの世での逢瀬をなども、あるいは親しく語 まったく知らなかったことにして過すことにいたしましょ り合う機会もなくはあるまい。もう一度自分が取り戻して そうず う」とお申しあげになるので、后の宮は、「僧都がこの話 逢おうなどとは思わぬことにしよう」とあれこれ思案に乱 をしてくれたのでしたが、ほんとにそら恐ろしいような夜 れて、后の宮はもう何もおっしやってはくださらないだろ のことでしたから、あまりよくも聞いていなかったことな うと思われるけれども、そのご意向もうかがいたいので、 のです。宮のお耳にはいっているはずはありません。聞く 后の宮にしかるべき機会をつくってこう言上なさる。 うわさ

2. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

になそられるようになる。その苦悩の種はいうまでもなく、薫への申し訳なさ、匂宮の執拗な好色癖、匂宮 の言葉に従った場合に予想される中の君の不興などであるが、それにもまして心を苦しめるのは、たださえ 語苦労の多い母親をいっそう心配させることであった。死後に備えてひそかに反古紙を焼くなどしながらも、 氏最後まで心に掛かるのは、親に先立っ不幸の罪の深さであり、懐かしい骨肉への思いであった。 源 入水決行の夜を目の前にして、京の母から手紙が来る。文面には「夢の中にあなたがひどく胸騒ぎのする ような姿で現れたものだから、目が覚めてから読経を方々でさせたりしておりますが、そのあとも眠れなか ったせいか、たった今ついうとうとしたところ、世間で不吉だと言われるような夢を見たものですから。す ぐにもとんで行きたいけれど、少将の方 ( 浮舟ノ妹 ) のお産が近いものだからーーーよく気をつけて、近所の お寺で読経をさせなさい」とある。母の言うとおり使いを寺に出した間に、 浮冊は返事にただ一首の歌を書 きつける。 のちにまたあひ見むことを思はなむこの世の夢に心まどはで 「せめてあの世でお会いしたい。お母様もそう思ってくださいねーというのである。折から、寺ではさっそ く読経が始ったらしい。鐘の音が風に乗って聞えてくる。浮舟は独り言のように歌う。 おと ね 鐘の音の絶ゆるひびきに音をそへてわが世つきぬと君に伝へよ 「君」のさすものは、もはや母以外にはない。母は、悪い虫の知らせか、胸騒ぎがするといってきた。浮舟 めのと の乳母もまた胸騒ぎがした。女房の右近は「そんなにいつもいつも悩んでいらっしゃいますもの、物思いを する人の魂は身を脱け出してさまようと言いますから、母君の夢見も悪いのでしよう」と言う。母と子のつ ながりは、乳母までも抱き込みながら、日常の次元を越え神秘な霊魂の交流を思わせるものに達している。

3. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

あり 尋ね歩かんもかたくなしなどや人言ひなさん。また、かの宮も、聞きつけたま一愚かしく見苦しいの意。世評 を気づかう。 さまた へらんには、 ニ匂宮が知ったら、と想像する。 かならず思し出でて、思ひ入りにけん道も妨げたまひてんかし。 三浮舟がせつかく決意して入っ 語 た仏道をもじゃまするに違いない 物さて、さなのたまひそなど聞こえおきたまひければや、我には、さることなん 氏 四匂宮はそのつもりで、中宮に、 源聞きしと、さるめづらしきことを聞こしめしながら、のたまはせぬにゃありけ薫にはお 0 しやるななどと申しお かれたので。このあたり、中宮が 薫に浮舟の噂を詳しく言わなかっ ん。宮もかかづらひたまふにては、いみじうあはれと思ひながらも、さらに、 た理由を推測しようとする。 やがて亡せにしものと、思ひなしてをやみなん。うっし人になりて、末の世に五浮舟の一件を聞いたと。「の たまはせぬにや : ・」に続く。 六中宮のみならす、匂宮も。 は、黄なる泉のほとりばかりを、おのづから語らひ寄る風の紛れもありなん。 セ自分は、浮舟をせつなくいと しいと思いながらも、以下、浮舟 わがものにとり返し見んの心はまたっかはじなど思ひ乱れて、なほのたまは を死んだものと諦めようとする。 一一けしき ずやあらんと思へど、御気色のゆかしければ、大宮に、さるべきついでつくり〈浮舟がこの世の人として立ち 戻ったとあれば、遠い将来には、 来世のことぐらいを。「黄泉」 ( 冥 出でてそ啓したまふ。 途の意 ) の和風訓みによる。 いっかは再会して語り合う機 薫「あさましうて失ひはべりぬと思ひたまへし人、世に落ちあぶれてあるや九 会もあろう、の意。「風の紛れ」は、 うに、人のまねびはべりしかな。いかでかさることははべらんと思ひたまふれ風の戯れのような、ふとした機会。 浮舟を断念しようとしながらも、 ど、心とおどろおどろしうもて離るることははべらすやと思ひわたりはべる人彼女への愛憐が底流する気持 一 0 中宮が私には、やはり。 のありさまにはべれば、人の語りはべりしゃうにては、さるやうもやはべらむ = 薫は中宮の真意が知りたいの あキ一ら・

4. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

く思った人なのであった。一つ家で顔を合せていたときは、 になるのがつろうございまして、なんの言葉もございませ 4 まことに意地悪で、いやにいばっていてこ憎らしく思われん。どんなにか情けない姿をしておりましたでしよう私の たのだけれど、母君がじつにかわいがっていて、宇治へも有様は、世にも不思議なとごらんになりましたでしようが、 語 物ときどき連れておいでになったので、少し大きくなってか ああしたことで私は正気も失せ、魂などとかいうものも以 氏 らは、互いに姉、弟と思うようになった子供心を思い出す前とは別もののようになってしまったのでしようか、なん 源 につけても、夢のような心地がする。なによりもまず、母としても、それまでのことを、自分ながらまるで思い出す きのかみ の様子を尋ねてみたくてーーそのほかの人たちについては、 ことができないのですが、紀伊守とかいった人が世間話を しぜんにだんだんと耳にするけれども、母君がどうしてい していたようでした、その話のなかに、私が昔暮していた らっしやるかははのかにさえ聞くことができないのだから所のことかと、かすかに思い出されてくることがあるよう と、この弟を見るとかえってじつに悲しくてならず、ほろ な心地がしました。そののち、あれやこれやといろいろ考 ほろと泣かずにはいられなかった。 っこ , つにはっきりとは思い出しま え続けてみましても、 わらわ せんのに、ただ一人いらっしゃいました母君が、私をどう 〔九〕浮舟、小君との対この童がいかにもかわいらしくて、 面をしぶる小君不満女君に多少似ていらっしやるような かして一人前冫 」こ、とひとかたならず、いを労していたようで きようだい 感じもするので、尼君が、「ご姉弟でいらっしやるようで ございますのを、まだこの世にご無事でいらっしやるだろ すね。あなたに申しあげたいとお思いのこともおありなの , つかと、挈、の一とばかりが 1 刄がかりで、非しく田学っ一とが でしよう。内へお通ししましよう」と言うのを、女君は、 ときおりございますが、今日この使いの人を見ますと、こ なんの、今は自分がこの世に生きているものとも思っては の童の顔は、まだこの子の幼かったときに見たような心地 いなかろうに、普通ではない尼姿に面変りしていて、不用がしますにつけても、ほんとにこらえられないほど懐かし 意に顔を合せるのも恥ずかしいと思うので、しばし間をお ゅうございますけれど、ムフとなっては、こうした人からも、 いてから、「いかにも私が隠しだてをしている、とおとり 私がこの世に生きているのだとは知られずに終りたいと思

5. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

ものけ 様で、物の怪めいてわずらっておりますので、ちょっと この私の命もこれで尽きたのだと、母君に伝えておくれ ) かみ 3 でもそばを離れることはならぬと、守からきつく言いわ巻数を寺から持って帰ってきた、それにこの歌を書きつけ みずきよう たされておりますので、そちらの近くのお寺でも御誦経ておいたが、その使者が、「今夜はとても京へは帰れませ 語 物をおさせなさい ん」と言うので、何かの木の枝に結びつけておいた。 めのと 氏 と書いて、そのためのお布施の品や僧に遣わす手紙などを 乳母は、「どうしたことか変に胸騒ぎがします。母君の 源 とのい 書き添えて持ってきた。女君は、自分が今生の終りと覚悟お手紙にも夢見が悪いとおっしやっていました。宿直の人 している命であることも知らずに、母君がこうして縷々と は十分にお勤めしなさい」と女房に言わせているのを、女 書いてよこされるのも、ほんとに悲しいと思う。 君はこらえがたい思いで聞きながら横になっていらっしゃ 寺へ使いの者をやっている間に、母君への返事を書く。 る。乳母が、「何も召しあがらないのは、ほんとにいけま ゅづけ 一一 = ロい残しこ、 オしことはたくさんあるけれども、はばかられるせん。お湯漬なりと」などといろいろに世話をやいている ので、ただ、 のを、女君は、「自分ではしつかりしているつもりのよう のちにまたあひ見むことを思はなむこの世の夢に心ま だけれど、ほんとにこうも醜い年寄になってしまって、自 どはで 分がいなくなったらどこでどう暮してゆくのだろうか」と ( 後の世でまたお会いできると思ってくださいまし。この世お思いやりになるにつけても、ほんとにしみじみとかわい の夢のようにはかない縁にお心を迷わされずに ) そうなというお気持である。この世にとうとう生きていら 読経の鐘の音が風にのって聞えてくるのを、女君は、じっ れなくなった子細をそれとなく話しておこうなどとお思い と聞き入りながら、横になっていらっしやる。 になるにつけて、まず胸がつまって言葉より先に涙があふ おと 鐘の音の絶ゆるひびきに音をそへてわが世つきぬと君れてくるのを、人目に隠そうとなさるところから、もう何 に伝へよ も言われない。右近が、おそば近くに寝ることにして、 ( 鐘の音の消えてゆこうとする響きに私の泣く音を添えて、 「そんなふうにして、ただ悩んでばかりいらっしゃいます るる

6. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

そで つれづれと身を知る雨のをやまねば袖さへいとどみか 女君は、宮のお描きになった絵を、ときどき見て泣かず さまさりて 2 にはいられないのだった。このような宮との関係はいつま ( 悲しいわが身の上を思い知らされる雨が所在なく降りやみ でも続くはずもないのだと、あれやこれやと考えあきらめ 語 ませんので、川の水かさが増すばかりか、この私の袖までも 物ようとはするけれども、大将に引き取られて宮とのご縁が 涙でいよいよ濡れまさっております ) 絶たれてしまうのは、まことにせつないことと思わずには 源 とあるのを、下にも置かずにごらんになる。 いられないのであろう。 あまぐも 「かきくらし晴れせぬ峰の雨雲に浮きて世をふる身を三一〕薫、女ニの宮に浮大将が女宮にお話などをお申しあげ 舟引取りの了解を求むになるついでに、「失礼なことをと もなさばや ( あてどなく不安にこの世を過しているこの身を、空も暗く お気にさわりはしないかとはばかられるのですが、やはり ひと 晴れ間もない峰の雨雲に変えてしまいたいものです ) この私にしてからが長年世話しておりました女がございま 煙となって雲のなかにはいってしまいましたら、もうお目すのを、見苦しい所にうち捨てておきますものですから、 たいそう物思いがちの様子なのが気の毒ですので、近くへ にかかれなくなりましよう」と申しあげたので、宮は声を あげて泣かずにはいらっしゃれない。そうはいっても、こ呼び寄せてやりたいと存じております。私は昔から世人と は別様の考えをもっておりました者でして、この世の中を の自分を恋しく思っているにちがいないとお思いやりにな るにつけても、物思いに沈んでいるであろう女の姿ばかり何事によらず普通並とちがった生活をしていきたいものと 思っておりましたのですが、こうしてあなた様に連れ添わ が目の前にありありと浮んでお見えになる。 「まめ人」の大将のほうは、女君の返事をゆっくりとごらせていただくことになりまして、それにつけてもこの世を んになりながら、「ああかわいそうに。どんなにもの思わ捨ててしまうこともできにくうございますので、今までは ひと 誰にも知られないようにしておりましたその女のことまで しく暮していることだろう」とお察しになって、ほんとに 気がかりになりまして、このままでは罪つくりになりそう 恋しいお気持になっている。 ( 原文五五ハー )

7. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

じようず こうちき 、。ほんとにお裁縫がお上手なのですから」と言い、小袿「それにしても、お思い出しになることがたくさんおあり ひとえ の単衣をお渡しするのを、どうにもたまらないお気持にな でしように、どこまでも隠しだてをなさるのが情けのうご られて、気分がわるいからといって手も触れずに臥せって ざいます。私はこうした世間の人の着物の色合いのことな いらっしやる。尼君は、この急ぎの縫い物を捨ておいて、 どは久しく忘れてしまっておりますので、上手には仕立て 「どんなご気分なのです」などと心配していらっしやる。 られませんが、それにつけても亡き娘が生きていてくれた くれないひとえ うちき 紅の単衣に桜の織物の袿を重ねて、「あなたにはこうした ら、などと思い出すのでございます。あなたにも、こんな お召し物をお着せ申したかったのでした。なんとも情けな ふうにお世話申されたお方が、この世にいらっしやるので すみぞめ い墨染ですもの」と言う人もいる。女君は、 はないでしようか。私のように目のあたりに娘を死なせて あま′ ) ろも そで 尼衣かはれる身にゃありし世のかたみに袖をかけてし しまった者でさえ、やはりムフごろはどこにいるのかしら、 のばん せめてどこそこと尋ねあてるくらいはしたいと思わずには ゆくえ ( 尼衣の姿に変りはてたこの身に、このはなやかな袖をうち いられないのですから、あなたの行方が分らずに心配申し しの かけて在俗のころの昔を偲ぶことにしようか ) ていらっしやる方々もございましょ , つに」とおっしやるの と書いて、「なんとつらいことか、この世のことは何によ で、女君は、「俗世におりましたころまでは一人はいらっ らずいっか知れわたってしまうものだから、この自分が亡しゃいました。ここ幾月の間にもう亡くなられたかもしれ くなりでもしたあとに、あれこれと聞き合せたりなどして、 ません」と言って、涙の落ちるのを隠すようにして、「な みもと 習 ああまで人を遠ざけ身許をひた隠しにしていたのかと思う まじ思い出すにつけても、かえってつらくてたまらない気 かもしれない」などとあれこれ思い乱れては、「過ぎ去っ持になりますので、申しあげようにも申しあげられないの 手 たことはすっかり忘れておりましたが、このようなお仕立でございます。なんの隠しだてをいたしましよう」と、言 葉少なにお言いつくろいになった。 て物をご用意なさいますにつけて、なんとなくもの悲しい 気持でございます」とおおらかにおっしやる。尼君が、

8. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

てしまいました。なんとも見苦しい有様で世を捨てておら っしやったりもいたしました。まして、多少でも分別がっ れる尼君のおそばでどうやってお過しでいらっしゃいます くようになりましてからは、世間並のことはあきらめて、 か」とお尋ねになる。女君は、「もうこの世に生きていとせめて後生だけでも安楽にとの気持を深く抱いていたので うはないと決心いたしました身が、不思議なことに今まで ございましたが、だんだんと命の果てるときが近くなりま 生き長らえておりますのを情けなく存じておりますものの、 したせいでございましようか、ほんとに気弱くなっていく 何かにつけてお世話くださいましたお心づかいのほどは、 ばかりでございますので、やはりぜひにも」と言って、泣 ふがいないこの私にもよく分らせていただいておりますが、 き泣きお頼みになる。 しよせん やはりどうしても世間並の気持になれませんで、所詮はこ 僧都は、「合点のゆかぬこと、これほどの器量であり容 の世に生きていられそうにもなく存ぜられますので、どう姿に恵まれているものを、どうしてその身を厭わしく思う ものけ か尼にしてやってくださいまし。この世に生きておりまし ようになったのであろう。そういえば、物の怪もそんなこ ても、普通の女のようにして暮していけそうもない身の上とを言っていたが」と、あれこれ思い合せてみると、「そ でございまして」とお申しあげになる。僧都は、「まだこ れなりの子細があってのことであろう。本来なら今まで生 れからさき前途の長いお年ですのに、どうして一途にそう きていられるはずもなかった人なのだ。すでに悪い霊に目 思いたたれることがありましよう。かえって罪業をつくる をつけられてしまったのだから、このままではまったく恐 ほっしん ことになります。なるほど出家を思いたって発心なさった ろしく危ういことた」とお思いになって、「事情はどうで 習 当座はいかに道心が堅固でいらっしやっても、年月がたつあれ、そのように決心しておっしやるのだから、それは御 と、女の御身というものはまことに多難なものでして」と 仏のいかにも殊勝なこととおほめになることですし、法師 手 おっしやるので、女君は、「まだ幼うございましたころか の身としても反対申すべきことではありませぬ。ご受戒の 四ら、いつも物思いの絶えぬ身の上でございまして、親など ことはいたってたやすくお授け申すことができますが、今 もいっそ尼にしてしまったらなどと思ったり、またそうお 日は急な御用で山を下りてまいりましたので、今晩中に一

9. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

あるじ か」と、しいて尋ねるのを、女君はほんとに顔向けもなら三〕浮舟、小野の僧庵この住いの主の母尼君も、身分のあ ぬ思いで、「どうしてなのか不思議な目にあっておりまし に不幸な半生を回想する人なのであった。娘の尼君は、も かんだちめ た、その間になにもかも忘れてしまったのでしようか、以 と上達部の北の方だったが、その夫君が亡くなられた後、 前のことなどはまるで覚えていないのでございます。ただ ただ一人の娘をそれはそれは大事に育てて、立派な家柄の きんだち かすかに思い出すことと申しては、どうぞしてこの世に生君達を婿に迎え手厚くもてなしていたのだったが、その女 きていたくないと思い思いして、夕暮になると端近くばん君が亡くなってしまったので、情けなく悲しいことと思い にわさき やりと外を眺めておりましたうちに、庭前の近くに大きな つめて、髪を下ろして尼になり、このような山里に住むよ しの 木がありましたが、その下から人が出てきて私を連れてい うになったのだった。明け暮れ絶えず恋い偲んでいる娘の くような心地がいたしました。それよりはかのことは、自 思い出のよすがとして、せめてその娘になぞらえられるよ 分ながら自分が誰なのかさえも思い出すこともできかねる うな人でも見つけ出したいものと、所在なくまた心細い のでございます」と、その言い方もまことにいじらしく話日々のなかで嘆き続けていたところへ、こうして思いがレ して、「私がこの世にまだ生きていたということは、なん ない人の、しかも器量といい物腰といい、亡くなった娘に そして誰にも知られとうございません。もし聞きつける人立ちまさっているような人を得たのだから、現実のことと でもあったら、それこそ大変なことになります」と言って いう気もせず、不思議な心地がしながらもうれしく思って お泣きになる。あまり尋ねるのをつらく思っておられるの しる。この尼君も年はとっているものの、まことにこぎれ たしな 習 で、それ以上は尋ねることができない。かぐや姫を見つけ いで嗜みがあり、人柄も上品である。 たという竹取の翁よりもさらに珍しい心地がするので、ど この小野の地は、以前に住んでいた宇治の山里よりは水 すき 手 うかした隙にでも消え失せてしまうのではないかと、尼君の音もおだやかである。住いの造りざまも雅趣のある所で、 木立もおもしろく植込みなども風情があり、趣向をこらし は落ち着かないお気持になっていらっしやるのであった。 ている。しだいに秋になってゆくにつれて空の様子も心に

10. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

( 原文一八〇ハー ) でさまよっていかなければならないのか、ひたすらに、も でいるのもこうした山里の風情にそぐわずおもしろくな うこの世には無きものとして、誰に見られも聞かれもせず、 い」と思うので、帰ろうとするのを、尼君は、中将の笛の 忘れられたままで終りたいもの、と思いながら臥せってい 音までが残り惜しい気持になって、 らっしやると、中将が、一通りの悩み事でもあるというの ふかき夜の月をあはれと見ぬ人や山の端ちかき宿にと まらぬ だろうか、ほんとに深く嘆息をもらしてはひそやかに笛を よふ 吹き鳴らして、「鹿の鳴く音に」などと独り言をつぶやい ( 夜更けの月の風情がお分りにならないお方なのでしようか。 ている様子は、真実、わきまえのない人ではなさそうであ 山の端に近いこの家に泊ろうとなさらぬのは ) る。「過ぎ去った昔のことが思い出されるにつけても、か と、どこかととのわない歌を、「女君がこう申されるので えって胸の痛むことですし、それに今から新たに思いを寄す」と言うので、中将は胸をときめかせて、 ねゃいたま せてくださりそうなお方も、これまたいらっしやりそうに 山の端に入るまで月をながめ見ん閨の板間もしるしあ もありませんから、この世のつらさの見えぬ山路と考えさ りやと せていただくわけにもまいらないのでしよう」と言って、 ( 山の端に月が入るまで眺めていましよう。寝間の板葺きの すきま いかにも恨めしそうにしてお帰りになろうとするので、尼 隙間から光が漏れ入るように、わたしもあのお方にお近づき が得られようかと ) 君は、「どうしてこのせつかくの月夜を中途でお見捨てに なるのでしよう」と言って、いざり出ていらっしやる。中などと言っているうちに、この大尼君が、笛の音をかすか 習 将が、「いえもう。あちらの里のお気持もよく分りました 耳にしたものだから、さすがに感にたえてにじり出てき ので」と言い捨てて、「あまり好色がましくふるまうのも せき 手 さすがに具合がわるい。ほんのちらと見えた女の姿が目に 〔一六〕母尼和琴を得意げ大尼君は話の途中で咳をしながら、 に弾き、一座興ざめるあきれるほどのふるえ声で、昔のこ とまったばかりに、所在ない心をも慰めようと思いたって ひと 来たのに、この女があまりよそよそしく引きこもったきり となどかえっておくびにも出さない。 この中将が誰なのか いたぶ