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EXPO 2005 AICHI, JAPAN 愛地球博 公式ガイドブック

uo 一 20 60 一←の 0 一 t20 RepubIic Of Madagascar マダガスカル共和国 5 / 30 ( 月 ) アフリカ EXPO MAP ・習都 : アンタナナリポ まんにん ・人口 : 1 , 690 万人 ・由主賴 : 58.7 芳 k 耐 ・フレントシップ希町額田町 アフリカ策海岸沖にある也界で 4 目に大きな島。地質学的、生 學に畛しい島で、生息する野生動の 70 ~ 80 % はこの朝のも のである。日本を含め各国の学黹調団の研対まとなっている。 ・ようどをん '@Alamy/AFLO FOTO AGENCY Mali マリ共和国 グローバル ナショナルテー MAP 10 ? し 0 と ・首都 : バマコ まんにん ・人朝 : 1 , 200 万人 ・由主面積 : 124 万 k 耐 ・フレンドシップ希面・甚目寺町 229 をようどうをん 部で、 西アフリカの内陸国である。北部と中部はサハラ砂漠の一 罠が生活している。南部は国の申央部を貫流するニジェール川の流 とセネガル渓谷にし、この国の農耕地菷となっている。 AFLO FOTO AGENCY MaIaysia マレーシア 108 EXPO 愛・地球博 広場 し 0 と ・首都 . クアラルンプール まんにん ・人口 : 2 , 300 万人 ・由主面 : 33 万 k 耐 ・フレンドシップ希町村 : 常滑市 東南アジアの中央部にある熱の国で、マレー半島の南半分とボル ネオ島北西海岸地からなる。国王の葯 5 分の 4 は森林や湿地帯で、 海岸から山岳部までの地磯は、ゴム園、バームヤシ園が広がっている。 AFLO FOTO AGENCY

アジア稲作文化への旅

おもな海外調査歴と本書との関連 1963 ~ 64 年タイ、ラオス 1964 年インド、パキスタン、セイロン、マレーシア、 ン 1965 年タイ ( Ⅱ「サンパトンの一年から」 ) 、ラオス 1968 ~ 69 年カンポジア、タイ、フィリピン フィリピ 1971 ~ 72 年インド ( Ⅲ「インドは稲作文化圏か」 ) 、セイロン 1974 年ビルマ ( I 「東南アジアのジャポニカの稲ーーー上ビルマ での経験」とⅡ「シャン州とカチン州の短い日々」の一 部 ) 1975 年ネパール、インド ( I 「アッサムへの未完の旅」の一 1978 ~ 79 年インド ( I 「アッサムへの未完の旅」の一部 ) 1979 年 1979 年 1980 年 1981 年 1982 年 1983 年 1983 年 1985 年 1985 年 1985 年 1986 年 ビルマ ( Ⅱ「シャン州とカチン州の短い日々」の一部 ) インドネシア、マレーシア、スリランカ、インド 中国 ( 北京、上海、江南一帯 ) アメリカ合衆国 ( Ⅳ「アメリカの稲ーーーシンデレラ・ク ロップ」 ) 中国 ( I 「雲南・西双版納へ」 ) インドネシア ( Ⅳ「稲を拒みつづける島々」 ) スリランカ ( Ⅲ「セイロン島の稲作ーー大陸と島の交 インドネシア ( スマトラ ) 、マレーシア フランス、イギリス、アメリカ合衆国 ( ハワイ ) ノヾングラデシュ、ビノレマ プルネイ、バングラデシュ

アジア小農業の再発見

・ / 、ノイ ビベトナム ビルマ ラオス ヴィエ、チャン ノ / ・ノ・、ノ・ (. / ン一ン・カーイ マハーサラカム ピサヌローク ・カラッソ コンケーン チャイヤプーン ナコンラチャシマー チ \ タイヤ ( コラート ) ブリラム ウポンラチャタニ チェンマイ・ ( ・カンポジア ( ナ・川 。 / ヾンコク ・バッタンバン 0 0 ら タ イ湾 スラタニ ソンクラー マレーシア )

アジア小農業の再発見

り、それはクーデターで生まれた軍事政権下の韓国、長く続く戒厳令下の台湾国民党政府、シンガ ポールへと移転されてアジア Z —を生み、さらにタイ、マレーシア、インドネシアといった ;[email protected] < Z 諸国へと広がっていく。 安達の所説 ( こ戻ると、〈農業近代化〉とは、この「権威主義的開発体制」の農業への適用にほかな らないということがわかる。その意味では、農業近代化というのは、日本を含め、成長のアジアに 特有な農業の展開過程であるということができる。経済開発すなわち工業化に向けての農業の面か らの適応形態として、中央集権的な体制のもとで官僚主導によって進められた上からの農業合理化・ 効率化の過程が、農業近代化といわれるものなのである。アジアでもっとも早く経済成長の過程を 通り抜けた日本で、まず農業近代化がはじまったゆえんもここにある。 以下、アジアにおいて真っ先にこの道を駆け抜けた日本の歩みを追い、農業近代化とは何なのか を具体的に検証する。 第 2 節農業近代化の展開 心と暮らしの近代化 農業の合理化・効率化は前述したように、農業技術面では機械化・化学化・装置化という形で、 また農業経営・土地利用方式の面では単作化・専門化・大規模化という形で進められた。またそれ

アジア小農業の再発見

前になっている。 豊かになった日本の村では、田畑で働くのは年寄りばかりになり、耕すものがいなくなって、田 や畑が次々と捨てられる状況が進んでいる。藤三郎さん自身もこの春、二十三年間めんどうをみて きた。フドウ園を放棄した。それでも都会に比べれば食うものも水も空気も格段においしいではない か、いまの時代にこれほどの贅沢はあるか、というところで藤三郎さんは豊かさと愉央さを味わう。 それは、開発と成長がもたらした「豊かさ」に対する異議申し立てでもある。 いまアジアの村を歩いていると、農業が次第に崩れてきている現実に出くわす。ここでいう農業 とは、大規模なプランテーション農業などではなく、アジアの村々で代々行なわれてきた伝統的な 農業をさしている。かって狸森にもあった、それぞれの地域の風土に合わせて工夫され、発展して きた農業である。農民的な生産の仕方、暮らし方に根ざした小さい農業、と言い換えてもよい。そ うした農業を営む人々を、本書では小農民と表現した。 このアジアの多くの小農民がいま藤三郎さんの経験を追体験しつつある。理由も同じ、「成長のア ジア。である。一九五〇年代後半の日本に始まるアジアの経済成長は、韓国、台湾などなど東アジ アに受け継がれ、続いてタイ、マレーシア、インドネシア、さらに中国、ベトナムなどアジア社会 き 主義国、そして南アジアへとアジア全域に及ぼうとしている。そのなかを人々は、豊かさを求めて ま ひた走りに走ってきた。いま、″成長のアジア〃は経済危機にみまわれ、暫時の休息を強いられてい

アジア小農業の再発見

プロローグ 減農薬運動を提唱し、実践している福岡県の農業改良普及員宇根豊の文章である。宇根は誠実な 農業技術者として、農業近代化技術といわれるものに疑問を持ち、そうではない技術の発展方向を 一貫して追求している人である。こうしてレイチェル・カーソンの『沈黙の春』 (Silent sp 「 ing) の世 界はこの国の当たり前の光景になっていった。 緑の革命がもたらしたもの 日本の経済発展のパターンは、時間差を伴って韓国、台湾などアジアへ、そしてタイ、 マレーシア、インドネシアなど < Z 諸国へ、さらには中国、ベトナムなどアジア社会主義圏 へと引き継がれていく。そこでは、それぞれの国や地域がおかれた歴史的、社会的、経済的さらに は風土的条件に規定されてさまざまなバリエーションを生みながらも、東アジア型経済発展ともい える成長パターンがつくりだされるのである。 日本を含めそこに共通して見られることは、農業破壊と環境破壊である。いま東アジア全域で、 日本のそれをいっそう凝縮させたスピードで農業・環境破壊が進んでいる。農業と環境を食い物に することで経済発展を獲得する、そこに諸国・諸地域に通底する東アジア型経済発展の共通基盤が ある。ではそれは、どのように進んだのか。 ここにも前史がある。″成長のアジア″の基礎をつくったのは、一九六〇年代後半からはじまるア ジアにおける″緑の革命〃であった。緑の革命はコメと小麦の高収量品種の導入を契機としてはじ * 2

EXPO 2005 AICHI, JAPAN 愛地球博 公式ガイドブック

一のの 0 一 9 5 タイ館 1 インドネシア館 2 オーストラリア 3 カンポジア館 みん リ 9 舅 なみたいへいようきようどうかん 1 2 太平洋共同館 8 プルネイ・ダルサラー館 10 マレーシア館 1 1 ' - オス館 8 / 12 8 / 17 H タイ王国 インドネシア共和国 ーユーシーランド 4 / 21 H A オーストラリア 6 / 3 屮・ミくーロ尽 9 / 20 5 / 10 フィリビン共和国 カンポジア王国 8 / 9 シンガポール共和国 キリバス共和国 サモア独立国 ソロモン藷朝 ツバル トンガ王国 バヌアッ共和国 バプアニューギニア バラオ和鹵 フィジー箕和 マーシャル話朝国 ミクロネシア蓮 5 / 18 D プルネイ・ダルサラーム国 ベトナム狂会主義共和 9 / 5 H 8 / 31 H A マレーシア ラオス人民民主共和国

アジア小農業の再発見

Q< は、露骨に日本企業の海外進出の道具であったが、その性格は、原型とされた賠償に始まる。 一九五一年のサンフランシスコ講和条約を受けて、日本政府は賠償請求国と個別に折衝を重ねて その結果、一九五四年にはビルマと総額七二〇億円の賠償支払いで交渉が成立し、その後、フィ リピンとは一九〇二億三〇〇万円、インドネシアとは八〇三億九〇〇万円、南ベトナムとは一四〇 億四〇〇〇万円の賠償支払いが決まっていった。それ以外に準賠償として韓国、ビルマ、タイ、シ ンガポール、マレーシア、カンボジア、ラオス、ミクロネシアとの間に総額二四五二億七七〇〇万 円の支払いが締結され、賠償は一九七六年のフィリピンに対する支払いを最後に、準賠償は一九七七 年のビルマに対する支払いを最後に終了したとされている。 これら賠償は一体何に使われたのか。賠償の仕掛人の一人・久保田豊との関連で賠償案件を見て みる。久保田は元内務省技官で戦前は日本窒素 ( 現チッソ ) の子会社・朝鮮窒素の関連会社で主に朝 鮮半島の水力発電所・ダム開発に従事していた。当時東洋一とされた鴨緑江ダムをはじめとして朝 鮮半島北部のダムはほとんど久保田が手がけたと言っても過言ではない。朝鮮半島の水力発電開発 に従事していた久保田だが、日本陸軍の南進に伴う東南アジア侵略に伴って、中国南部から東南ア ジアにかけても開発適地を求めて出向いていく。海南島から日本軍の占領下のフランス領インドシ ナ ( 現ベトナム、カンボジア、ラオス ) 、オランダ領ジャワ、スマトラ ( 現インドネシア ) へと出向いては 数々の開発計画を構想しながらも、戦況が不利になったため、朝鮮半島へと戻ることを余儀なくさ

世界 2016年07月号

を獲得、キックバックとして七億ドルを贈賄したという疑惑 ルや元などの通貨、石油や穀物などの先物、株式の指数に基 がもたれた。が中心となって動き、スイス、ルクセン づく金融派生商品などの総称を「マネー」と呼ぶが、このネ プルク、シンガポール、オーストラリア、タイで資金洗浄ル ットワークの中では、マネーの名義の書き換え、交換、分割 ートを捜索、が金の出所であることを突き止めた模様だ も容易である。高リスクのマネーの一部分のリスクを非常に が、犯人がコンピュータ上の送金で次々と名義を変えていた 低く、残るマネーのリスクを非常に高く操作することによっ ため、その追及は困難を極めた。 て、きれいなマネーと猛毒のマネーに分けることもできる。 デリバテイプを扱い、世界の金融を牛耳るのは、シティ、 実際、サププライムローン問題の際にそのようなことが仕組 モルガン、といったアメリカの投資銀行である。投 まれた。決済期日の変更飛ばしもできる。保険 (OQØ= ク レジット・デフォルト・スワップ ) をかけ、さらにこれらの金融資銀行は、顧問料次第、手数料次第で、どんな悪知恵でも働 かせて顧客の希望に応える。つまり、巨悪は投資銀行である。 派生商品を預かって増殖させることもできる。しかも、これ ヘッジファンドはその手先にすぎない。投資銀行が要求する らの手法はすべて合法である。その総称を「金融工学」とい 誰かが 「相応の手数料」は、案件にもよるが、たとえばギリシャの う。要はトランプのババ抜きと同じと考えればよい。 財政赤字を消した時のように ( 後述 ) 、請け負うリスクの大き 最後にババ = 不良債権を握らされる。 コンピュータ上でどんなことでも容易に行なえる例として、 さと金融派生商品の希少性に応じ巨額にのばることもある。 マリスク・ヘッジで節税 マレーシア首相への送金事件を挙げてみよう。二〇一五年七 企業のタックス・ヘイプン外の合法的節税の最大の方法は、 月、マレーシア開発公社 1 ( 一 MaIaysia DeveIopment 「 d) 影 丿ヾテイプにおけるリスク・ヘッジである。リスクをへッ 師から同国首相ナジプ・ラザクの個人口座への約七億ドルの振、デー / なら ジするとは、利潤の変動を均すということである。利潤が上 金込が発覚した。直ちに、出所はではなくサウジから 際の送金であり、不正ではないという報道が流された。その後、下に大きく変動すれば査定が高くなるが、リスクを減らして 国 変動を抑えると、利潤にも上下のぶれが少なくなり、税額を ゴールドマン・サックス ( 以下、 r-n) の東南アジア責任者テ 件 事イム・ライスナーが今年初めに急遽帰米していたことが分か低くすることができる。特に節税するつもりがなくても、デ 文 リバテイプでリスク・ヘッジをやっていれば、節税になるの マ った。は二〇一二年から一三年にかけて 1 の六五 ナ 億ドル相当の公債を発行する業務を請け負い、高額の手数料である。その分だけでもアメリカでは三・六 5 四・四 % の節税

アジア・アフリカの稲作

第 2 章 (t/ha) アジア・アフリカ稲作の多様な生産生態と課題 環境重視栽培段階とい えなくもない。アフリ カ諸国でも、同一国内 に、焼畑や低湿地での 稲作など粗放段階のも のから灌漑稲作地域で の資源多投型稲作ま で、様々な段階ものが 混在している。アジ ア・アフリカの稲作は その立地環境が多様で あるとともに、発展段 階からみても極めて多 様である。 マレーシア 2 3 4 5 6 7 1860 0 1 量 収 中国 ベトナム インドネシア フィリピン ノヾングラデシュ スリランカ ネ / ヾール パキスタン ・韓国 1880 1900 1920 1940 1960 1980 2000 2020 年 図 2 ー 12 明治以降の日本の水稲籾収量の推移曲線上 にプロットした、 2009 年のアジア各国の籾 収量 ( 農林水産省および FAO の資料をもとに作成 ) 75 めて重要になっている。このことは、日本とて例外ではあり得ない。 1970 年頃か 踏まえて、より生産性と持続性の高い稲作への発展の道筋を明らかにすることが極 いる。それゆえ、アジア・アフリカのそれぞれの地域稲作の立地環境と発展段階を を招いたり、あるいは稲作の持続性や環境を脅かすなどの深刻な問題を生じさせて 滞しており、そのことが食料の安全保障を不確かにしたり、農村社会の貧困や袞退 しかし、すでにみてきたように、ほとんどすべての国・地域とも稲作の収量は停 大変なことかが理解されよう。 考えると、東アジアを除くアジア・アフリカ諸国の稲作収量を高めることがいかに 代以前ということになる。日本が今日の稲作にたどり着くまで要した年数の長さを 平均収量は 2t / ha 以下であり、この図からははみ出るが、その収量レベルは江戸時 が約 100 年前の明治末期の収量水準にあるといえる。アフリカ諸国の多くは現在の 「緑の革命」開始当初の今から約 50 年前の収量に相当し、インド、タイ、ネパール 中国の稲作収量は現在の日本と同水準にあり、ベトナム、インドネシアが、日本の な収量の増加曲線上にプロットすると図 2 ー 12 のようになる。この図から、韓国、 みにした現在のアジア・アフリカの国別平均収量を、明治以降の日本稲作の歴史的 このように、同一国でもその稲作には様々な発展段階が存在するが、それらを込