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長谷川伸全集〈第9巻〉

軍医は泣いた、居合せた人々も泣いた。二階堂のこの崇 ◇ 高な心に感動したのだ。 二階堂義勇兵のこれとおなじようなことが、それより十二百名の日本人義勇兵の中から、幾つかの話を取次いだ 後に、このときの日本人義勇兵の幾多の勇と情とその他と 二、三年前にある。 明治三十七年一月二十八日、黒溝台の戦のとき、仮繃帯が、第二次世界大戦の日系アメリカ人の欧洲戦場で発露し 所にはこばれた負傷者は、順番に手当をうけていた、とこた、幾多のそれと、ーー第四四二部隊と総括して云われる ろが渡辺義夫軍曹はあとからあとから来る負傷者を先に手ところのーー符を合せた如く、同時のことにして同一の事 そう うづくま 当をうけさせ、自分は一隅に躑踞っていた。負傷した一将実を誤伝したのではなかったろうかと、錯覚するほどの相 校がそれと心づき、手当を受けよといったら軍曹は、私よ似さがあることに注意されたい、かくの如きは次の如く海 り重傷のものが沢山います、私は後廻しに致しますと答え外の日本人の血の中に、昔の日本が伝存されていたことと た。これはおなじところで戦った分隊長が書いた『血痕』なり、われわれの間に残される宿題が、ここにもあるので にある。 首山堡の戦いは八月三十日 ( 明治三十七年 ) だった。歩兵第一次世界大戦に関する事例は、次の一つだけを挙げて 第二十一聯隊 ( 広島 ) の一人の兵が、右手に負傷して十五、他は略すことにする。 ドイツの有名だったエムデン号の最後について、倫敦に 六町うしろの丘にある仮繃帯所へ行った、そこは関帝廟に くつつけて張った天幕の下だった。続々くる負傷者の中住む画家牧野義雄は、日本海軍は世界の視聴をあつめたエ ムデン号の所在を捕捉し得たのだが、功を英国軍艦に譲っ 、左手と右足に負傷した大尉がいた、順番がその大尉に たのであると、イギリスの紳士に語った。その話はその紳 なると、急を要する兵があるでしよう、それから先にどう そといった。負傷兵達は大尉殿どうぞお先へと涙声になっ士をひどく不快にさせ、牧野は途方もない嘘吐きだ、そん なことがある筈がないと、その後はロをきくことさえしな ていったが、大尉は腹部貫通銃創の兵を手当させ、それか ら後で、肩を挫いた兵と一緒に手当をうけた。これは右手くなった。だが、やがてしてその紳士は、イギリスの責任 に負傷して、その時そこにいた兵が著した、「兵車行』にの地位にある人物から、そのことは牧野の語った通りであ るといわれ、紳士は急いで牧野を訪い、自分の非を率直に ある。 打明けて詫びたということが、「滞英四十年今昔物語』 ( 物

本当は怖いだけじゃない放射線の話

ーセント排除されるというものではない。 活性酸素によって細胞やが傷を受けてしまった場合には、 3 の「その損傷を修 理・回復する . ための機能が働く。この修復機能として代表的なのが、傷ついたの 修理復元だろう。 前述したように、私たちの細胞は呼吸を原因とする活性酸素につねに狙われている。一 ぜ個の細胞中にできる活性酸素の量は、一日あたり十億個にのばるとの計算があり、これに よって QZ< が受ける傷も一日あたり百万個にもなるとの説がある。 の それでもたいていの細胞 ( ) が平気でいるのは、大半が「一本鎖切断、であること でから、ただちに酵素によって正しく修復されるためである。問題となる「二本鎖切断。が 浴起きる可能性は一千万分の一程度だから、一個の細胞で一日あたり〇・一個ほどの を 線損傷発生数になるという。 放 これにくらべ、自然放射線による活性酸素が原因の QZ< 損傷のほうが、「二本鎖切断 然 自 となるケースが多いといわれる。つまり、その分だけ自然放射線による損傷のほうが深刻 に思えるのだが、 発生数そのものがずっと少ない。 第 人体が浴びる自然放射線の平均量から計算すると、一個の細胞が「一年平均。で受ける

諸星大二郎特選集 3 遠い世界

ま一目ョ ′′ク朝 ・動 今は時々 アルバイトを しながら、 日本中を 旅行している。 ( あの一瞬の 老人の 嬉々とした 表情が 忘れられ なくて : 国立から 私立の 理科系へ 志望変更した あたしは、 そこで 動物学を 専攻し : ・ ぼうや ガードレールの こすったような傷が ついてるてしよ、 この傷がどうして′ ついたかわかる ? これはね、グリフォンが 体がかゆくてこすリつけた 時にてきるのよ グリフォンの体は カたいか、ら : ノイ あたしは もう三年も堂 グリフォンを / イ探して いるのよ : 子バート」霪を

長谷川伸全集〈第14巻〉

吉十郎はこの一件が表沙汰になる時は、番頭も組頭も安ういう応急手当があった後へ玄忠が来て、本式の手当を加 穏でいられるはずはない。勿論、死傷者の家々も、当日詰えたので、源十郎は命をとりとめた。 合いで逃げ隠れた一同も身の破滅、家の亡失は免がれられ玄忠が二階から下りてくると、山城守と大久保とが膝を しんだんがき ぬことだ。それを救うのは一大事業だが同時に、池田吉十詰め寄せて談判した。急病人の診断書をつくれというので 郎一身のためでもあるが、多くの者のためでもある。将来あった。玄忠は不承知だったが、相手が御書院番頭と組頭 おのれに上々吉がやってくること疑いなしと思われたのなので、後難は決してあるまいと思い、承知して死傷者六 おもで で、早速いい出した。 人みんな急病という診断書をつくった ーー・即死三人、重傷 あさで 「この騒動を押し隠し、一同の無事安穏をはかるが肝腎か一人、軽傷一人、それに自殺した外記も加えて六人。 と存じます」 刃傷のあったのは、七ッ ( 午後四時 ) だが、それでは届出 と探りを入れてみた。と、渡りに船と酒井山城守が第一が遅くなってしまったから、辻褄のあうように六ッ ( 午後 に賛成したので、吉十郎はそれから実行の手段を説き出し六時 ) としなくてはならぬと吉十郎がいい出すと、大久保 た。といっても、この時に首尾一貫した方法が出来ていた が逃げ去りの番士を集め、七ツではない六ツだ六ツだと のではなく、差当り死傷者を急病人ということにするだけ しい渡す。ごたごたしている間に時が経ち、漸く御番医の の小智恵だけだった。が、組頭大久保六郎右衛門が、それ診断書附が出来たので、山城守が届書をつくり御目付から より以前に、西丸当番の御目付新庄鹿之助に、刃傷のこ「駕籠断り手形」を貰いうけようとしたが、御目付新庄鹿 と、四、五人怪我の事を届出てあるので、大久保は困った 之助は、「最初は怪我人四、五人といい今度は急病人六人 顔をした。しかし「内談」にしない限りは、自分の頭の上とし 、い、前後不揃い故、断り手形は差出されぬ」と拒絶し にも火は燃えてくるので、賛成するより外なかった。 はたと、当惑したのは山城守以下、関係の番士一同であ 記大久保は御番医藪原玄忠を二階から呼び下した。玄忠が 外くるまで番士は逃走仲間の神尾五郎三郎の尻の斬り疵だけ の手当はしたが二階の間部源十郎は抛っておいた。支配違 松 いの表六尺の菰田源太郎という若者が、番士の腰抜けを舌外記の父松平頼母の処へは、刃傷があって間もなく、御 打ちして嗤い、ずかずかと二階へあがって手当をした。そ坊主が知らせてきた。 こ 0

オリエント急行殺人事件

きすぐちしら 「傷口を調べたかったんです。」 ボワロはしっと見たあとでいった。 さ 「ひどいものだ。めちやめちゃ刺してある。傷はいくつありますか ? 」 「十二だと思います。ほんのかすり傷もありますが、ひとつで命とりになるようなの も、三つばかりあります。ただ : し ボワロは、医師の顔をしっと見つめてきいた。 したい 「死体になにかふしんなところがありますか ? けつかん 「ええ、こことここの傷を見てください。ふかい傷で、血管まで達しているのに、ほ しゆっけっ とんど出血していません。」 「どういうことですか ? 「この傷をうけるまえに死んでいたということです。」 はんにん 「犯人がいちど逃げてから、また刺しに、ひきかえしてきたのでしようか。それもへ んな話だ。ほかになにかありますか ? 」 みぎわき 「右脇の下の傷を見てください。どうやって刺したか、このえんびつでためしてみて かお いのち こっ 4

心を育てる偉人のお話 1(野口英世、ナイチンゲール、ファーブル他)

ま 本 け ば ら し で る は 方のが 菌え傷 た じ 法おふ が 風 め を そる と て 見 ろえ け し、 つ し 伝ーけ いひ を お 染芫だ ばど し そ 病し い た ろ し、 研た 菌えと と し 究 : ゅの のき 所ヒが ろ 病 は を と か 気き つ 北えを数弯ら が く 里ーく時し人あ り 柴わ間間り しも のま 伝一郎くた かす 染と した ら 病 : よい らな だ土 か う べし、 ら 人 う はな で 破はち み いか ん す傷に るに な 風死しとあ を そ のん る 守まれ ばで 局ま破 は ば る いし い傷 か 菌えま 執風 た をい が菌え り め か やま に でと 働 す てい き日 軍人とお医者さん きたざとしばさぶろう 北里柴三郎 はしようふう ぐんじん はたら

本当は怖いだけじゃない放射線の話

QZ< 損傷が約二個。一日あたりにすると、〇・〇〇五個ということになる。このうち二 本鎖切断は五〇回に一回の割りだから、一個の細胞の一日あたりでは一万分の一個の < 損傷という計算になる。 さらにくわしく検証するには、一本鎖切断と二本鎖切断の両方の修復失敗率を考える必 要があるとされる。しかしそれを待つまでもなく、自然放射線による「切断事故。 の発生率は、酸素呼吸による切断数とくらべていかに小さいことか。それだけ 、な < 修復機構にとっては「楽な作業」であることも想像がつくというものである。 の なそうはいっても、修復ミスはあるだろう。そこまで考えないかぎり、自然放射線といえ とい、つ人がいるかもしれない てども袖断できない、 び 浴 を 線 修復不可能だとガン化するか 射 放 然 自 ここでもまた主題を先に述べてしまおう。仮にが傷ついて細胞が死ぬようなこと とい、つのか 3 があっても、そのまま人体への悪影響または被害につながるとはかぎらない、 第 ポイントである。

長谷川伸全集〈第7巻〉

に近づけた。その途端に引繩を砲手がひいた、今度は不発合わせた峰尾が、「金子さんとはその日これこれのいでた でなかったから、中世古は即死、砲手と助手とで、傍にい ちでしたか」と聞くと、「そうだ」という答えだ。峰尾は た四人が重軽傷を負った。これ以外に死傷者なしである。嘘を吐かぬ性質だったから、「それなら私が撃った」とい 上の山藩は首級をあげること五、砲殺七、重軽傷を負わったので騒動になりかけた。人が仲へはいって辛うじて事 せた数は多くして不明、分捕りは小銃五、鞍を置きたる馬なきを得た。それともう一ツ、おなじ事柄だが、意味の違 一、刀三、陣羽織二。それだけに激戦でもあり、犠牲が多う逸話が上の山側の間に残っている。それは峰尾が金子を っこ 0 , 刀ュ / 撃ったと聞き、たびたび呼び出しをかけたが遂に出てこな 〔戦死〕成橋十内、鈴木角助、小川栄太郎、栢倉嘉伝 いので、そのままになってしまったというのである。峰尾 次、早坂助市、渡辺藤五郎 ( 以上・砲隊 ) 、師岡藤三郎 ( 槍隊 ) では呼び出しがかかったら引ッ込んでいたとも思えない。 鯖江藩にも死傷があったはずだが詳らかでない。岩槻藩 〔重傷死〕金子六左衛門 ( 二十七日死 ) 、滝ロ俊作 ( 二十六 日死 ) 。 には死者はなかったはずである、これも又確かなことは今 のところわかっていない。 〔重傷〕穴原五平次 ( 槍隊 ) 、高橋祐八 ( 砲隊 ) 。 〔軽傷〕門奈惣右衛門、三輪彦兵衛、青木新太郎 ( 槍幕軍のうちにも死傷者があった。″別手組の石井貞太郎、 隊 ) 、五十嵐総之助、小松幸太郎、倉藤富弥 ( 砲隊 ) 。 長半蔵その他戦死。十二月二十五日、長半蔵は羽織に真鍮 合計十七人。 で家紋をつけていた、それに銃丸があたって留まったが戦 九人の戦死者は芝二本榎松光寺の墓地に葬ったが、大正死した。石井貞太郎は胸を射たれ、二十日許り後に死去し 十四年九月一一十六日、市区改正で取払いのため、山形県上た〃ということが、井上頼圀の手記にある。 の山に改葬、金子六左衛門 ( 清邦・得所 ) の記念碑は、昭和 ◇ 十七年七月、上の山月岡城趾の西南端に建てられた。 これは金子六左衛門戦死の後日譚であるが、峰尾小一郎 彳の話になるが庄内の石原倉右衛門は鶴岡城が開城とな はその翌年の春、信州追分の戦いに敗れ、岩村田で捕縛とる直前に、越後ロで敵手に仆れたが、占領軍の参謀黒田了 なり、明治三年三月赦されて東京に帰った後、何年経って介 ( 清隆 ) と、その背麦こ、こ 彳ししオ西郷吉之助 ( 隆盛 ) のひそか からだか、或る席上で上の山の旧藩士が、「金子さんを射なる同意によって、死せる石原を抗戦の責任者として、藩 ったものが今にも知れたら刺し違えて死ぬ」といった、居主以下の救解をはかり、仙台藩や桑名藩のように引責の割

長谷川伸全集〈第9巻〉

首と手足とに枷鎖を加えられていた。これはこの次にあるび来たって、ついに捕えられ、四十五円そのとき奪われ、 遼陽へ送られてから、山口県の虎・四十一歳と滋賀県の 軍夫のと同じく、ロ供書に拠ったものである。 香川県の順・四十五歳と兵庫県の順・五十歳という、お音・二十三歳と一緒になった。山口県の虎は凍傷のため遼 なじ名の第五師団の軍夫は、二月十七日秀巌で敵七名に襲陽の南三里のところで、空家へはいって寝ていると、毛布 われて捕えられ、香川の順は十三円と毛布三枚と持物を悉を盗みにきた者があるので追払い、寒さに苦しみ火を焚い く奪われ、兵庫の順は四円奪われ、中国出兵監というに百ていると老人がやってきて、ここにいては危ないから逃げ 三十日間縛られたままで置かれた、捕虜になったとき二人ろと教え、食べ物をくれて行った。その食べ物を口にして かか とも凍傷に罹っていたが薬をくれたことはなかった。遼陽いるところを、村の者が乱入してきて捕え、十一円余をそ へ移されたのは旧暦の五月二十七日だったという。捕虜交の時に奪われた。 滋賀県の音は熊本県の九・四十歳と、加藤某と、もう一 換日は旧暦の七月八日だ。 山口県の秀・三十六歳と同県の新・四十四歳、それから人名を知らない男と、隊付の違う軍夫ばかり四人で凍傷と これも同県の弥・四十四歳と三人の軍夫は、鳳凰城から海病気のため、三月六日遼陽へ七里ばかりのところで、歩け 城へ進むとき、凍傷のため、海城から八里のところで泊っなくなって一つところへ落合った、そこを敵に捕えられ、 ていた二月二十八日の夜中、八、九人の敵に乱入されて捕滋賀の音は五十五円三十銭を、熊本の九は二十六円余を奪 えられ、秀は四十円と委託品と手荷物を奪われ、新は二十われ、名の判らない軍夫は射殺され、加藤某はどういう訳 一円五十銭、弥は六円五十銭を奪われた。秀は病気ばかりしか海城附近へ送り返された。 て苦しんだが一服の薬もくれなかった。新は遼陽で訊問さ福岡県の宇太・三十三歳という軍夫は、前にいった三人 すね の軍夫が捕えられ、一人の軍夫が射殺された日、半里ばか 一れたとき樫の棒で左足の脛を四、五十回殴られて気絶し、 篇四十日ばかり歩けなかったが治療どころではなかった、そり違うところで、疝気と凍傷に苦しんで隊に遅れ、三日間 志の後コレラの軽いのに罹 0 たとき、一回の診察があり、一飲まず食わずでいたところを、六人の敵が来て、頭に重傷 を負わせて捕えた。一週間ばかり医者が診てくれたが、沁 服の薬をくれた、それだけだ「たが幸いに自然と治 0 た。 るのに百五十日もかかった。所持の十三円五十銭は奪われ 本弥は病気をしなかった。 愛知県の市・二十歳は凍傷のため鞍山店にいた三月五日てなかった。 の夕方、毛布を盗みにきた三人の者を追払ったところ、再以上の十一名のロ述を併せると、食料は高梁や粟粥で月

長谷川伸全集〈第10巻〉

っぺショレー とにあることは私の「日本捕虜志』に漏れている。 ノカ正格だが、おれの文章に於ては、折っポショ ルが正格さ。 これを伊藤にいわせるとこうなる。大違えだね。品丿 2 一大怪物 遊びにゆきましようと誘うと、遊びは吉原に限ると遅塚さ んがいうのさ。それからおれが品川をワザと褒めあげる 明治二十七年 ( 一八九四年 ) 七月下旬、日清戦争の従軍記 せいかん と、ご老体は吉原を褒め立てるがね、全部これが本で読ん者遅塚麗水そのほかが、成歓の戦いのすぐあとで、敵の堡 だものばかりで、実地はすこしもご存じなしさ、そこがお塞の一つに、顔と脚に重傷をうけた清国兵が、地を這って れの方の付け目で、ますます品川を褒めると、ああいう人いるのを見た。血まみれのその敵兵は、麗水の前に這いよ やっき だから躍起となって吉原を褒める、そこで以て、一番角カって、哀泣して命乞いをやりかけたが、這う力がなくなり でこいといったのが遅塚さんの方さ。さて、勝負がついた泥のなかに臥し、合掌して涙をながし続けている。そこへ ので、さあ品川へご案内しましようといったら、ご老体お騎兵大尉某がやってきて、清国兵の傷を一見して麗水を顧 がまぐち もむろに蟇口をとり出し、一円五十銭おれにくれて、一人み、君よ筆を以て舌に代え、この負傷者に殺さるることな の方が気が揃っていいから一人でゆきなと、ご本人は電車しと告げてくれという。 麗水は手帖に鉛筆で、日本の軍隊は至仁至慈、決して敵 へのって行っちゃったのさ。 この話、どちらかが間違っているらしく聞えそうだが、 の負傷兵を殺さず、日本軍隊のうち赤十字の記号をえがけ 実は両方とも本当なので、ただ、麗水は話を短くするためる小旗をもつ一隊は、実にお前たちのような負傷兵に薬を 折っポショル折っぺショルだけをいい、伊藤も話を簡略にあたえ治療を施すもの、程なくここにも来るから心を安ん するため品川褒め吉原褒めだけをやった、その違いだけでじて待て、と書いてみせた。 の ある。 この敵兵は文字がよめるとみえ、拝んだり頭をさげたり 許それはそれとして、私は十五歳ぐらいのとき、古本で買したあとで、血と泥にまみれた手をあげて、鉛筆を紙をと 足 って読んだ麗水の「陣中日記』 ( 明治二十七年刊 ) を、その乞うらしいので、その通りしてやると彼は、十余の文字を かいたので読むと、日く願わくば馬一頭をひき来りて我を 我後、流浪のうちに売ってしまい、それから六十何年間か、 縁がなくて読まなかったが、近ごろポロポロのひどい本を医官のところへ連れていってくれ、その恩天の如し。 そのあとは「陣中日記』の原文を引くから、それで見て 買ったので拾い読みをした。ということのために、このあ