検索 - みる会図書館

検索対象: 聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代から 272件ヒットしました。

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


「 < 列 上 の 推 古 九 年 」 の 養 老 五 年 に 何 が 起 こ っ て い た の か ま た 、 太 上 天 皇 ・ 天 皇 ・ 皇 太 子 の 三 者 が そ ろ っ て い た 時 期 は 、 七 一 五 ( 霊 亀 元 ) 年 か ら 七 二 一 ( 養 老 五 ) 年 、 な ら び に 、 七 三 八 ( 天 平 十 ) 年 か ら 七 四 八 ( 天 平 二 十 ) 年 ま で の 二 期 と な り ま す 。 言 い 換 え ま す と 、 こ の 時 期 は 、 「 神 祇 祭 祀 」 と 「 政 治 」 と い う 二 つ の 大 権 を め ぐ っ て 「 太 上 天 皇 。 天 皇 」 と 「 天 皇 皇 太 子 」 と い う 二 つ の あ り 方 が 想 定 さ れ る こ と に な り ま す が 、 権 限 的 に は 「 太 上 天 皇 0 天 皇 ー の ほ う が 優 位 で は な か っ た か と 考 え ら れ ま す 。 そ こ で 、 「 < 列 上 の 推 古 九 年 ー を 見 て み ま し よ う 。 「 列 上 の 推 古 九 年 」 は 七 二 一 年 の 養 老 五 年 と な り ま す 。 養 老 五 年 は 元 明 太 上 天 皇 の 崩 年 と な り ま す 。 そ し て 、 こ の 年 は 、 元 明 太 上 天 皇 の 崩 御 に と も な い 、 元 正 天 皇 と 皇 太 子 首 皇 子 ( の ち の 聖 武 天 皇 ) の 二 者 に よ る 統 治 体 制 、 す な わ ち 、 「 天 皇 。 皇 太 子 」 体 制 が 確 立 さ れ た 年 で も あ り ま す 。 「 太 上 天 皇 ( 神 祇 祭 祀 ) 。 天 皇 ( 政 治 ) 体 制 ー か ら 「 天 皇 ( 神 祇 祭 祀 ) 0 皇 太 子 ( 政 治 ) 体 制 」 へ シ フ ト さ れ た 年 代 と な り ま す 。 こ こ に 、 為 政 者 と し て の 「 皇 太 子 」 が 出 現 す る こ と に な っ た と 言 え る で し よ う 。 第 二 章 に お い て 、 第 二 蔀 の 首 と な る 辛 酉 の 年 と し て 位 置 づ け ら れ る 推 古 九 年 条 に 「 九 年 春 二 月 。 皇 太 子 初 興 ニ 宮 室 于 斑 鳩 ご と 見 え 、 皇 太 子 が 斑 鳩 宮 を 興 し た こ と が 、 極 め て 重 要 な 歴 史 的 事 象 と 認 識 さ れ て い た 可 能 性 を 述 べ ま し た 。 「 << 列 上 の 推 古 九 年 」 の 七 二 一 年 に お い て 、 皇 太 子 首 皇 子 が 「 天 皇 皇 太 子 」 体 制 の も と で 、 名 実 と も に 執 政 権 者 と い う 定 義 に お け る 皇 太 子 と し て の 立 場 を 確 か な も の と し た 年 と な る の で す 。 七 二 一 年 に 皇 太 子 首 皇 子 が 治 天 下 の 権 を 掌 握 し た こ と に 、 推 古 九 200

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


表 Ⅳ ー 4 各 史 書 に お い て 分 権 体 制 を 担 う 立 場 は 、 権 力 集 中 に よ る 独 裁 の 防 止 な ど の な ん ら か の 理 由 に も と づ 子 皇 太 い て 、 人 類 の 普 遍 的 統 治 の あ り 方 の 一 つ と し て 、 古 今 東 西 に お 天 徳 明 聖 兄 皇 い て 試 み ら れ て き た 形 態 で は な い か 、 と 考 え ら れ る の で は な い 用 子 法 皇 太 王 宮 皇 皇 で し よ う か 。 天 皇 倭 上 天 天 こ こ で 、 こ う し た わ が 国 に お け る 分 権 体 制 が 各 史 書 や 金 石 文 皇 姫 に お い て 、 ど の よ う な 立 場 に お い て 表 現 さ れ て い る の か を ま と 手 香 め て み ま す と 、 表 Ⅳ ー 4 の よ う に な り ま す 。 酢 宮 な お 、 「 天 以 兄 日 以 弟 」 に お い て 、 倭 王 が 「 兄 」 と さ れ て い 祀 幻 僚 幻 祭 皇 皇 る 問 題 に つ い て 、 こ の 時 期 、 山 背 大 兄 皇 子 、 押 坂 彦 人 大 兄 皇 子 、 お お え 手 天 間 , 古 人 大 兄 皇 子 、 中 大 兄 皇 子 な ど 、 「 大 兄 」 を 名 に 含 む 人 名 が 香 古 部 宮 酢 推 穂 斎 后 皇 皇 太 天 天 多 々 所 見 さ れ る こ と と の 関 連 は 着 目 さ れ ま す 。 大 兄 制 と 皇 太 子 宮 皇 = 」 前 上 王 斎 天 女 鬼 太 大 制 と の 関 連 は 、 研 究 史 上 に お い て 指 摘 さ れ て お り ま す が 、 本 章 紀 紀 文 文 に お け る 考 察 結 果 は 、 倭 王 た る 「 兄 ー と 、 為 政 者 と い う 定 義 に 明 古 銘 銘 用 推 背 お け る 「 皇 太 子 ( 太 子 ) 」 と の 関 連 を 考 え る 上 で 、 示 唆 に 富 ん 光 伝 像 」 像 だ 論 点 を 提 起 し て い る の で は な い か と 思 い ま す 。 紀 紀 国 尊 紀 来 書 書 倭 三 本 如 本 本 書 迦 日 師 日 日 隋 釈 続 薬 治 政 168

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


皇 、 皇 太 子 の い わ ば 「 三 役 」 の 在 位 状 況 が 問 題 と な る 理 由 は 、 第 四 章 に お い て 述 べ ま し た よ う に 、 以 下 の 等 式 が 成 り 立 っ て い る か ら で す 。 大 王 天 皇 ① 東 宮 聖 王 〔 『 薬 師 如 来 像 光 背 銘 文 』 〕 Ⅱ 太 上 天 皇 。 天 皇 〔 『 続 日 本 紀 』 〕 天 皇 。 万 機 摂 政 皇 太 子 〔 『 日 本 書 紀 』 推 古 紀 〕 斎 宮 多 利 思 比 孤 〔 『 隋 書 倭 伝 』 〕 す な わ ち 、 こ の 等 式 に は 、 令 制 の 用 語 概 念 と し て は 「 天 皇 ー 「 太 上 天 皇 ー 「 皇 太 子 ー の 三 つ の 号 が 出 て き ま す 。 『 薬 師 如 来 像 光 背 銘 文 』 に 「 大 王 天 皇 と 太 子 」 「 大 王 天 皇 と 東 宮 聖 王 」 と い う 連 称 さ れ る 表 現 が 所 見 さ れ ま す よ う に 、 こ れ ら の 三 つ の 号 は 、 奈 良 時 代 の 統 治 の あ り 方 、 す な わ ち 、 第 四 章 第 7 節 に お い て 「 祭 祀 と 政 治 の 役 割 分 担 は あ っ た の か ? 」 と 題 し て 論 じ た よ う に 、 奈 良 時 代 に お け る 「 神 祇 祭 祀 . と 「 政 治 」 と い う 二 つ の 大 権 の 所 在 と い う 統 治 権 限 の 問 題 と 関 連 し て い る と 考 え ら れ る か ら で す 。 さ て 、 天 皇 、 太 上 天 皇 、 皇 太 子 の 在 位 状 況 を 、 そ れ ぞ れ 見 て ゆ く こ と に し ま し よ う 。 ま ず 、 天 皇 と し て の 在 位 状 況 か ら 見 て み ま す と 、 << 列 上 の 推 古 朝 は 、 元 明 天 皇 ( 在 位 七 〇 七 — 七 一 五 年 ) 、 元 正 天 皇 ( 在 位 七 一 五 — 七 二 四 年 ) 、 な ら び に 聖 武 天 皇 ( 在 位 七 二 四 — 七 四 九 年 ) の 三 帝 の 時 198

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


王 邸 跡 〕 左 京 二 条 二 坊 ・ 三 条 二 坊 発 掘 調 査 報 告 、 本 文 編 』 ( 一 九 九 六 年 ) に お い て 、 長 屋 王 邸 宅 跡 の 二 条 大 路 上 の 濠 状 遺 構 出 土 の 木 簡 の 年 紀 の 大 半 が 七 三 五 年 の 天 平 七 年 な い し 八 年 で 、 南 の 五 一 〇 〇 地 点 に お い て は 、 天 平 十 一 年 ま で 年 代 が 下 が る も の が 含 ま れ て お り 、 「 皇 后 宮 」 と 記 す 木 簡 の 存 在 か ら 、 天 平 元 年 の 七 二 九 年 に 長 屋 王 が 滅 亡 し た の ち に 、 光 明 皇 后 が 旧 長 屋 王 宅 を 接 収 し て 皇 后 宮 と し て 使 用 し た の で は な い か 、 と す る 説 が 提 起 さ れ て い る こ と に 、 看 取 さ れ る か も し れ ま せ ん 。 第 七 に 、 第 三 章 に お い て 考 察 し ま し た よ う に 、 七 二 七 ( 神 亀 四 ) 年 頃 に 作 製 さ れ た と 推 察 さ れ る 『 薬 師 如 来 像 光 背 銘 文 』 の 「 東 宮 聖 王 」 が 聖 武 天 皇 に 比 肩 さ れ る こ と も 支 証 と な り ま す 。 「 長 屋 王 の 変 」 が 発 生 す る 三 年 前 に 、 聖 徳 太 子 ゆ か り の 法 隆 寺 西 院 に は 、 用 明 天 皇 、 文 武 天 皇 、 そ し て 聖 武 天 皇 と 光 明 皇 后 と の 間 に 出 生 し た 幼 皇 太 子 の 三 人 の た め の 銘 文 が 刻 ま れ た 薬 師 如 来 像 が 安 置 さ れ て お り 、 聖 徳 太 子 と 山 背 大 兄 王 と の 関 連 の 深 い 法 隆 寺 は 、 聖 武 天 皇 と 光 明 皇 后 の 厚 い 信 仰 を 受 け て い た 可 能 性 が 指 摘 さ れ る の で す 。 以 上 、 一 — 七 点 ま で の 聖 武 天 皇 ・ 藤 原 氏 ラ イ ン と の 間 に 対 抗 関 係 が 認 め ら れ る 長 屋 王 を め ぐ る 状 況 を 踏 ま え れ ば 、 推 古 紀 に お い て 蘇 我 氏 に 投 影 さ れ る 勢 力 を 奈 良 時 代 の 人 物 に 求 め る の な ら ば 、 こ れ は 、 系 譜 上 に お い て も 、 ま た 権 勢 に お い て も 、 蘇 我 氏 に 匹 敵 し て い た と 考 え ら れ る 長 屋 王 で あ る 可 能 性 が 極 め て 高 い と 判 断 さ れ る で し よ う 。 そ し て 、 逆 説 的 に は 、 仮 に 、 『 書 紀 』 に お い て 奈 良 時 代 の 政 治 的 状 況 が 推 古 紀 に 投 影 さ れ て い る の で あ る の な ら ば 、 間 違 い な く 、 『 書 紀 』 の 「 聖 徳 太 子 ( 奈 ) 、 に 首 皇 子 ( 聖 武 天 皇 ) の 姿 が 重 ね ら 242

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


申 の 乱 , に お い て 大 海 皇 子 と 皇 位 を 争 っ た 大 友 皇 子 、 そ し て 高 市 皇 子 の 階 位 と 同 じ で す 。 ま た 、 長 か い ふ う そ う 屋 王 の 父 の 高 市 皇 子 の 地 位 が 極 め て 皇 位 に 近 い も の で あ っ た 可 能 性 は 、 『 懐 風 藻 』 の 葛 野 王 伝 に お ひ つ ぎ い て 、 高 市 皇 子 の 崩 御 を め ぐ り 、 次 の 「 日 嗣 」 を 決 め る の に 「 衆 議 紛 紜 た り 」 と 所 見 さ れ る こ と か ら も う か が え ま す 。 拙 著 『 「 記 紀 よ ) ゝ 。 し 力 に し て 成 立 し た か 「 天 」 の 史 書 と 「 地 」 の 史 書 』 に お い て は 、 高 市 皇 子 の 地 位 を 、 第 三 章 で 考 察 い た し ま し た 「 祭 」 「 政 」 の 大 権 の う ち 「 祭 」 の ほ う の 権 の 継 承 予 定 者 ( ひ つ ぎ の み こ ) で は な か っ た か 、 と 論 じ ま し た 。 高 市 皇 子 が 皇 位 に 近 か っ た こ と は 、 長 屋 王 邸 宅 跡 に お い て 「 長 屋 親 王 宮 ー と す る 木 簡 が 発 見 さ れ た こ と と の 関 連 に お い て も 指 摘 さ れ う る か も し れ ま せ ん 。 第 三 に 、 皇 極 紀 の 皇 極 二 年 九 月 条 に 「 葬 = 息 長 足 日 広 額 天 皇 于 押 坂 陵 或 本 云 。 呼 = 広 額 天 皇 一 為 = 高 市 天 皇 一 也 。 」 と 所 見 さ れ 、 分 注 に お い て 、 舒 明 天 皇 は 「 高 市 天 皇 。 と 呼 称 さ れ て い た と す る 説 を 載 せ て い る 点 が あ げ ら れ ま す 。 す な わ ち 、 高 市 皇 子 の 子 で あ る 長 屋 王 の 立 場 は 、 推 古 天 皇 の 後 継 と し て 聖 徳 太 子 の 遺 児 で あ る 山 背 大 兄 王 を 退 け た 舒 明 天 皇 の 立 場 と 重 な る の で す 。 菅 野 雅 雄 氏 の 研 究 に よ る と 、 『 書 紀 』 『 記 』 に お け る 「 更 名 」 の 用 例 に つ い て は 、 別 個 の 人 物 を 同 一 人 物 と し た り 別 個 の 物 語 を 統 合 す る 時 、 登 場 人 物 を 「 更 名 」 に よ っ て 統 合 す る 場 合 が 多 い そ う で す が 、 舒 明 天 皇 が 実 際 に 「 高 市 天 皇 」 と 呼 称 さ れ た か 否 か は わ か り ま せ ん が 、 あ る い は 、 皇 位 継 承 に お い て 山 背 大 兄 王 を 退 な ぞ ら け た 舒 明 天 皇 の 立 場 が 高 市 皇 子 と 長 屋 王 の 親 子 の 立 場 に 擬 え る た め に 、 挿 入 さ れ た 分 注 で あ る 可 能 生 も あ る で し よ う 。 240

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


い る わ け で す が 、 傍 線 ② と 傍 線 ④ で は 、 両 方 と も 「 大 王 天 皇 ー と 表 現 さ れ て お り 、 ま た 、 元 正 太 上 天 皇 を 意 味 し て お り ま す の で 、 仮 に 「 太 子 , と 「 東 宮 聖 王 」 に 比 定 さ れ る 人 物 が 同 一 人 物 で あ る の な ら ば 、 「 大 王 天 皇 」 の よ う に 同 じ 表 現 が 採 ら れ て い て よ い こ と に な り ま す 。 「 太 子 ー 文 銘 と 「 東 宮 聖 王 」 と い う ふ う に 、 あ え て 異 な っ た 呼 称 が 用 い ら れ て い る こ と に よ っ て 、 「 太 子 ー 背 光 と 「 東 宮 聖 王 」 は 、 そ れ ぞ れ 、 別 々 の 人 物 に 比 定 さ れ て い る と 推 察 さ れ ま す 。 像 四 、 元 明 天 皇 は 元 正 天 皇 の 母 で も あ る こ と か ら 、 『 薬 師 如 来 像 光 背 銘 文 』 の 作 者 が 、 娘 を 「 大 王 三 天 皇 」 、 母 を 「 太 子 ー と 表 現 し た と は 儒 教 的 秩 序 か ら は 考 え 難 い こ と に な り ま す が 、 第 五 章 に 鰍 お い て 論 じ る 神 祇 祭 祀 権 と 執 政 権 と い う 二 つ の 大 権 と の 関 連 に お い て 、 持 統 太 上 天 皇 の 七 〇 二 説 造 年 に お け る 崩 御 後 に 「 天 皇 」 の 文 武 天 皇 が 神 祇 祭 祀 権 を 、 阿 閇 皇 女 が 「 太 子 」 と し て 執 政 権 を 担 っ て い た と い う 想 定 は 排 除 で き ま せ ん 。 一 た 0 文 銘 背 光 像 い ず れ の 理 由 に よ っ て 、 阿 閇 皇 女 が 「 太 子 」 と 呼 称 さ れ る こ と に な っ た の か 、 こ こ で は な ん と も 来 如 言 え ま せ ん が 、 傍 線 ③ の 「 太 子 ー は 、 阿 閇 皇 女 の こ と で あ る と 考 え ら れ ま す 。 師 薬 以 上 の 考 察 結 果 を 踏 ま え 、 『 薬 師 如 来 像 光 背 銘 文 』 に 登 場 す る 「 天 皇 、 「 大 王 天 皇 」 「 太 子 」 「 東 宮 章 聖 王 ー を 、 奈 良 時 代 、 飛 鳥 時 代 の 人 物 上 に そ れ ぞ れ 比 定 す れ ば 、 表 Ⅲ ー 3 の よ う に な り ま す 。 第

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


表 I ー 1 和 風 謚 号 神 日 本 磐 余 彦 天 皇 神 渟 名 川 耳 天 皇 「 日 本 書 紀 」 の 編 年 の あ ら ま し 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 巻 二 十 30 31 32 33 34 35 巻 二 四 36 巻 二 五 37 38 巻 二 七 巻 一 39 料 40 131 ー 190 192 ー 200 201 ー 269 270 ー 310 313 ー 399 400 ー 405 406-410 412 ー 453 454 ー 456 457 ー 479 480 ー 484 485 ー 487 488 ー 498 499 ー 506 507 ー 531 534 一 535 536 ー 539 540 ー 571 572 ー 585 586 ー 587 588 ー 592 593 ー 628 629 ー 641 642 ー 644 645 ー 649 655 ー 661 662 ー 671 神 武 天 皇 綏 靖 大 皇 安 寧 天 皇 懿 徳 天 皇 孝 昭 天 皇 孝 安 天 皇 孝 霊 天 皇 孝 元 天 皇 開 化 天 皇 崇 神 天 皇 垂 仁 天 皇 景 行 天 皇 成 務 天 皇 仲 哀 天 皇 神 功 皇 后 応 神 天 皇 仁 徳 天 皇 履 中 天 皇 反 正 天 皇 允 恭 天 皇 安 康 天 皇 雄 略 天 皇 清 寧 天 皇 顕 宗 天 皇 仁 賢 天 皇 武 烈 天 皇 継 体 天 皇 安 閑 大 皇 宣 化 天 皇 欽 明 天 皇 敏 達 天 皇 用 明 天 皇 崇 峻 天 皇 推 古 天 皇 舒 明 天 皇 皇 極 天 皇 孝 徳 天 皇 斉 明 天 皇 天 智 天 皇 天 武 天 皇 持 統 天 皇 磯 城 津 彦 玉 手 看 天 皇 大 日 本 彦 耜 友 天 皇 観 松 彦 香 殖 稲 天 皇 日 本 足 彦 国 押 人 天 皇 大 日 本 根 子 彦 太 瓊 天 皇 大 日 本 根 子 彦 国 牽 天 皇 稚 日 本 根 子 彦 大 日 日 天 皇 御 間 城 入 彦 五 十 瓊 殖 天 皇 活 目 入 彦 五 十 狭 茅 天 皇 大 足 彦 忍 代 別 天 皇 稚 足 彦 天 皇 足 仲 彦 天 皇 気 長 足 姫 尊 誉 田 天 皇 大 鷦 鷯 天 皇 去 来 穂 別 天 皇 瑞 齒 別 天 皇 雄 朝 津 間 稚 子 宿 禰 天 皇 穴 穂 天 皇 大 泊 瀬 幼 武 天 皇 白 髪 武 広 国 押 稚 日 本 根 子 天 皇 弘 計 天 皇 億 計 天 皇 小 泊 瀬 稚 鷦 鷯 天 皇 男 大 迹 天 皇 広 国 押 武 金 日 天 皇 武 小 広 国 押 盾 天 皇 天 国 排 開 広 庭 天 皇 渟 中 倉 太 珠 敷 天 皇 橘 豊 日 天 皇 泊 瀬 部 天 皇 豊 御 食 炊 屋 姫 天 皇 息 長 足 日 広 額 天 皇 天 豊 財 重 日 足 姫 天 皇 天 万 豊 日 天 皇 天 豊 財 重 日 足 姫 天 皇 天 命 開 別 天 皇 天 渟 中 原 瀛 真 人 天 皇 高 天 原 広 野 姫 天 皇 巻 四 巻 四 巻 四 巻 四 巻 四 巻 四 巻 四 巻 四 巻 五 巻 七 巻 七 巻 八 巻 九 巻 十 巻 十 一 巻 十 二 巻 十 二 巻 十 三 巻 十 三 巻 十 四 巻 十 五 巻 十 五 巻 十 五 巻 十 六 巻 十 七 巻 十 八 巻 十 八 巻 十 九 巻 紀 年 数 60 年 9 年 69 年 41 年 87 年 6 年 5 年 42 年 3 年 23 年 5 年 3 年 11 年 8 年 25 年 2 年 4 年 32 年 14 年 2 年 5 年 36 年 13 年 3 年 5 年 ( 大 化 ド 3 5 年 ( 白 雉 ) 7 年 10 年 14 年 1 年 ( 赤 鳥 ) 11 年 享 年 127 歳 84 歳 57 歳 77 歳 ( 立 ) 料 114 歳 ( 立 ) 137 歳 ( 立 ) 128 歳 ( 立 ) 116 歳 ( 立 ) 115 歳 120 歳 140 歳 106 歳 107 歳 52 歳 100 歳 110 歳 82 歳 70 歳 73 歳 63 歳 ( 生 ド 2 75 歳 70 歳 在 位 期 間 B . C .29 ー 70 B . C. 97 ー 30 B. C. 157 ー 98 B . C. 214 ー 158 B . C. 290 ー 215 B . C. 392 ー 291 B. C .475 一 393 B. C .510 ー 477 B . C. 548 ー 511 B . C. 581 ー 549 B. C .660 ー 585 ー ノ い 巻 三 十 71 ー 130 687 ー -- 697 672 ー 685 650-654 686 * 1 : 立 太 子 時 の 年 齢 を 用 い て 算 出 さ れ た 宝 算 は ( 立 ) と 記 す 。 * 2 : 出 生 年 を 用 い て 算 出 さ れ た 宝 算 は ( 生 ) と 記 す 。 * 3 : 西 暦 645 年 は 、 6 月 18 日 ま で は 、 皇 極 四 年 、 6 月 19 日 以 降 は 大 化 元 年 と な る 。 * 4 : 「 日 本 書 紀 」 で は 、 天 武 天 皇 は 第 39 代 、 持 統 天 皇 は 第 40 代 で あ る が 、 明 治 時 代 に 大 友 皇 子 が 弘 文 天 16 皇 と し て 第 39 代 天 皇 と し て 数 え ら れ る よ う に な っ た た め 、 今 日 で は 、 天 武 天 皇 以 下 代 数 が 一 代 下 が る 。

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


斎 宮 と 皇 后 の 定 義 の 問 題 と 関 連 し て い る の で は な い か と 考 え ら れ ま す 。 特 に 、 表 Ⅳ ー 3 に 示 し ま す よ う に 、 酢 香 手 姫 皇 女 が 斎 宮 位 に あ っ た 時 期 に お い て 崇 峻 天 皇 が 皇 后 を 立 て て い な い こ と は 、 本 節 の 考 察 結 果 と の 関 連 に お い て 注 目 さ れ る か も し れ ま せ ん 。 こ の 間 題 に つ い て 、 こ れ 以 上 検 証 を 加 え る こ と は 、 本 書 の テ ー マ か ら 外 れ て し ま い ま す の で 別 稿 に ゆ ず る こ と と し て 、 こ こ で は 斎 宮 と 皇 后 に は 定 義 の 問 題 が あ る こ と を 言 及 す る に と ど め て お き た い と 思 い ま す 。 , 斎 白 と 倭 王 ・ ー ー 祭 祀 と 政 治 の 役 割 分 担 は あ っ た の か 子 太 徳 祭 祀 権 と 治 天 下 の 権 聖 こ れ ま で の 考 察 を と お し て 、 『 隋 書 倭 伝 』 に お い て 「 天 以 兄 日 以 弟 ー と い う 表 現 に よ っ て 表 わ さ れ る 「 斎 宮 。 倭 王 , の 二 者 一 対 の 関 係 は 、 『 書 紀 』 推 古 紀 に お い て は 「 天 皇 。 皇 太 子 」 、 『 薬 師 如 来 此 像 光 背 銘 文 』 に お い て は 「 大 王 天 皇 。 東 宮 聖 王 」 そ し て 『 続 日 本 紀 』 に お い て は 「 太 上 天 皇 0 天 多 皇 」 と い っ た 関 係 に も 置 き 換 え が 可 能 で あ る こ と が 、 お ば ろ げ な が ら も 明 ら か と さ れ て き ま し た 。 章 四 そ し て 、 斎 宮 は 、 祭 祀 を 担 っ て い ま す 。 第 し た が っ て 、 こ の よ う な 二 者 一 対 の 関 係 は 、 祭 祀 権 と 執 政 権 す な わ ち 治 天 下 の 権 と い う 二 つ の 大 権 の 行 方 の い か ん と も 関 連 し て 、 わ が 国 を 特 徴 づ け る 分 権 体 制 と し て 理 解 さ れ て く る こ と に な る の

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


図 ー 4 六 世 紀 か ら 七 世 紀 に か け て の 天 皇 位 を め ぐ る 略 系 図 手 白 香 皇 女 継 体 天 皇 ① 目 子 媛 安 閑 天 皇 ② 宣 化 天 皇 ③ 石 姫 皇 女 小 姉 命 堅 塩 媛 欽 明 天 皇 ④ ⑦ 皇 6 ー ー 用 明 天 皇 の 即 位 天 峻 ⑥ 女 す 崇 皇 皇 ま 姫 り 天 手 あ 明 香 て 用 酢 し 飛 鳥 時 代 の 皇 位 継 承 愛 割 以 上 述 べ て き ま し た よ う に 、 『 新 唐 書 』 や 『 宋 史 』 に 所 引 さ ⑧ 皇 れ る 「 王 年 代 記 」 に お い て は 、 多 利 思 比 孤 が 用 明 天 皇 の 子 で あ 天 あ 古 推 る こ と が 特 に 強 調 さ れ て 記 述 さ れ て い る と 言 う こ と が で き ま す 。 承 み カ 継 の 子 た 物 そ こ で 、 本 節 で は 用 明 天 皇 に つ い て 考 え て み ま し よ う 。 え 人 太 数 る 徳 ら す 欽 明 天 皇 以 降 、 敏 達 天 皇 、 用 明 天 皇 、 崇 峻 天 皇 、 推 古 天 皇 と 聖 か 連 皇 関 天 と 四 代 続 い て す べ て 欽 明 天 皇 の 皇 子 ・ 皇 女 で あ り 、 敏 達 天 皇 以 降 、 体 論 継 本 代 皇 位 は 兄 弟 相 承 に お い て 継 が れ て い ま す 。 研 究 史 上 に お い て は 、 此 1 親 子 に よ る 継 承 が 困 難 な 政 治 的 状 況 が あ っ た と す る 見 解 が 通 説 多 第 人 と さ れ て い ま す が 、 当 時 、 親 子 継 承 と 兄 弟 相 承 の ど ち ら が 正 統 は れ 章 字 さ 数 記 的 継 承 法 と 考 え ら れ て き た も の で あ る の か は 、 依 然 と し て 明 ら 四 ⑧ 図 か に さ れ て い る わ け で は あ り ま せ ん 。 9. ① 本 以 下 、 『 書 紀 』 に も と づ く 継 体 天 皇 か ら 推 古 天 皇 ま で の 継 承 敏 達 天 皇 ⑤

聖徳太子と法隆寺の謎ー交差する飛鳥時代と奈良時代


で は な い で し よ う か 。 祭 祀 権 と 治 天 下 の 権 に つ い て は 、 考 古 学 の 立 場 か ら 、 石 野 博 信 氏 が 『 女 王 卑 弥 呼 の 祭 政 空 間 ー ー 考 古 学 で 考 え る 邪 馬 台 国 の 時 代 』 三 〇 〇 二 年 ) に お い て 、 『 魏 志 倭 人 伝 』 に 記 さ れ る 卑 弥 呼 と 「 男 弟 」 の 関 係 の 問 題 を あ げ 「 ヒ メ ・ ヒ コ 制 」 の 存 在 を 指 摘 し て い ま す 。 同 時 期 に 同 地 域 に 首 長 陵 と 考 え ら れ る 古 墳 が 二 基 ず つ 築 造 さ れ て い る と い う 考 古 学 的 観 点 か ら 、 祭 祀 を 担 う 「 ヒ メ 」 と 政 治 を 担 う 「 ヒ コ 」 と に よ る 分 権 を 想 定 さ れ て い ま す 。 ま た 、 歴 史 学 の 立 場 か ら も 、 佐 伯 有 清 氏 が 「 『 魏 志 』 倭 人 伝 の 史 料 性 と 卑 弥 呼 ー ー 「 歴 史 資 料 に 値 し な い 」 論 へ の 疑 問 」 三 〇 〇 三 年 ) に お い て 、 「 ヒ メ ・ ヒ コ 制 ー の 存 在 を 肯 定 し て い ま す 。 さ ら に 神 道 学 の 立 場 か ら も 、 菟 田 俊 彦 氏 が 「 先 代 の 大 和 朝 廷 ー ( 一 九 七 五 年 ) に お い て 、 真 弓 常 忠 氏 が 『 古 代 祭 祀 の 構 造 と 発 展 』 ( 一 九 九 七 年 ) に お い て 、 女 性 の 司 祭 王 と 男 帝 の 司 政 王 に よ る 聖 俗 分 治 の 「 祭 政 二 重 統 治 」 で あ っ た と す る 見 解 を 示 し て い ま す 。 紙 幅 の 関 係 上 、 祭 祀 権 と 治 天 下 の 権 に つ い て の 詳 し い 論 述 は 割 愛 し ま す が 、 二 者 一 対 の 統 治 形 態 は 、 祭 祀 権 と 治 天 下 の 権 と い う 二 つ の 大 権 に よ っ て 構 成 さ れ て い た と 考 え る こ と が で き ま す 。 分 権 体 制 の パ リ エ ー シ ョ ン す な わ ち 、 「 斎 宮 ( 祭 祀 ) 。 大 王 ( 政 治 ) 」 「 天 皇 ( 祭 祀 ) 皇 太 子 ( 政 治 〕 万 機 摂 政 ) ー 「 太 上 天 皇 ( 祭 祀 ? ) 天 皇 ( 政 治 ) 」 「 天 皇 ( 祭 祀 ) ① 摂 関 ( 政 治 【 摂 関 政 治 ) 」 「 天 皇 ( 祭 祀 ) 。 上 皇 ( 政 治 〕 院 政 ) 」 「 朝 廷 ( 祭 祀 ) ① 幕 府 ( 政 治 〕 幕 政 ) 」 と い う 明 治 維 新 ま で の 統 治 体 制 の す べ て は 、 大 局 的 に 見 166