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検索対象: 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩
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1. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

じようず こうちき 、。ほんとにお裁縫がお上手なのですから」と言い、小袿「それにしても、お思い出しになることがたくさんおあり ひとえ の単衣をお渡しするのを、どうにもたまらないお気持にな でしように、どこまでも隠しだてをなさるのが情けのうご られて、気分がわるいからといって手も触れずに臥せって ざいます。私はこうした世間の人の着物の色合いのことな いらっしやる。尼君は、この急ぎの縫い物を捨ておいて、 どは久しく忘れてしまっておりますので、上手には仕立て 「どんなご気分なのです」などと心配していらっしやる。 られませんが、それにつけても亡き娘が生きていてくれた くれないひとえ うちき 紅の単衣に桜の織物の袿を重ねて、「あなたにはこうした ら、などと思い出すのでございます。あなたにも、こんな お召し物をお着せ申したかったのでした。なんとも情けな ふうにお世話申されたお方が、この世にいらっしやるので すみぞめ い墨染ですもの」と言う人もいる。女君は、 はないでしようか。私のように目のあたりに娘を死なせて あま′ ) ろも そで 尼衣かはれる身にゃありし世のかたみに袖をかけてし しまった者でさえ、やはりムフごろはどこにいるのかしら、 のばん せめてどこそこと尋ねあてるくらいはしたいと思わずには ゆくえ ( 尼衣の姿に変りはてたこの身に、このはなやかな袖をうち いられないのですから、あなたの行方が分らずに心配申し しの かけて在俗のころの昔を偲ぶことにしようか ) ていらっしやる方々もございましょ , つに」とおっしやるの と書いて、「なんとつらいことか、この世のことは何によ で、女君は、「俗世におりましたころまでは一人はいらっ らずいっか知れわたってしまうものだから、この自分が亡しゃいました。ここ幾月の間にもう亡くなられたかもしれ くなりでもしたあとに、あれこれと聞き合せたりなどして、 ません」と言って、涙の落ちるのを隠すようにして、「な みもと 習 ああまで人を遠ざけ身許をひた隠しにしていたのかと思う まじ思い出すにつけても、かえってつらくてたまらない気 かもしれない」などとあれこれ思い乱れては、「過ぎ去っ持になりますので、申しあげようにも申しあげられないの 手 たことはすっかり忘れておりましたが、このようなお仕立でございます。なんの隠しだてをいたしましよう」と、言 葉少なにお言いつくろいになった。 て物をご用意なさいますにつけて、なんとなくもの悲しい 気持でございます」とおおらかにおっしやる。尼君が、

2. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

しは思いもかけない恋の山に踏み迷っていることよ ) しくするのを恨めしく思って、帰りを急ぐ。 この小君は、あなたは見忘れてしまわれたでしようか。 〔一 0 〕浮舟、薫の手紙を尼君が、そのお手紙をひき開けて女 しの ゆくえ わたしとしては、行方知れずのあなたを思い偲ぶ形見と 見、人違いと返事せず君にお見せ申す。昔のままの大将の 語 して、そばにおいている人なのです。 物御筆跡で、料紙にたきしめた香の薫りなど、いつもどおり 氏 などと、まことに情こまやかである。こんなに綿々とお書 この世のものと思われぬほどによくしみている。例によっ 源 きになっているのでは、どうにも言いのがれようすべもな て、すぐさま物事に感心したがる出過ぎ者は、わきからち いが、そうかといって以前の自分とは変り果ててしまって らとのぞき見して、まったく世にも珍しく結構な、と思っ いる今の尼姿を、心ならすも見つけられ申したら、そのと ているにちがいない なんとも申しあげようすべもないほど、さまざまに罪深きの身のちちむ恥ずかしさはいかばかりか、などと思案に そうず いあなたの御心をば、僧都に免じてお許し申すこととし悩んで、今までにもまして晴れやらぬ心は、なんとも言い て、今はせめて、あのときの思いもよらなかった夢のよ表すすべもない。女君はさすがに涙があふれてきてひれ伏 うな出来事の話だけでもしたいもの、と思いせかれる気しておしまいになるので、尼君たちは、まったく世なれぬ お方よ、と扱いかねてしまう。「どのようにご返事を申し 持になっておりますが、それが我ながらけしからぬこと あげましようか」などときつく言われて、女君は、「今は、 と思われるのです。なおさらのこと、他人の目にはどう 気分がかき乱れるように苦しゅうございますので、しばら 思われますか。 く休ませていただいてから、いずれご返事を申しあげまし と、お気持を十分にはお書きになれない。 よう。日のことを思い出そうとしても、まるで何も心に思 法の師とたづぬる道をしるべにて思はぬ山にふみまど ふかな い浮ばず、夢のような出来事と仰せられても不思議なこと ( 僧都を仏法の師と思って山道を分けて訪ねてきたのでした に、どのような夢であったのかと合点がゆかないのでござ が、その山道があなたの所に導いてくれる道となって、わた います。多少気持が落ち着きましたら、このお手紙なども、 ( 原文一一三八ハー ) のり

3. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

思ふ。 一妹尼が、奥に入っている間に。 ニ中将は、雨の降りやまぬ様子 まらうと に困って。かいま見た女のことを 尼君、入りたまへる間に、客人、雨のけしきを見わづらひて、少将といひし 語 尋ねるのに格好の機会を得た。 四 物人の声を聞き知りて、呼び寄せたまへり。中将「昔見し人々は、みなここにも三↓「少将の尼君」 ( 一六七ハー ) 。 氏 かって女房として少将と名のった。 かた 源のせらるらんやと思ひながらも、かう参り来ることも難くなりにたるを、心浅四自分が婿として通 0 ていた往 時の女房たち。 たれ な きにや誰も誰も見なしたまふらん」などのたまふ。仕うまつり馴れにし人にて、五自分 ( 中将 ) が薄情な男ゆえと。 こう言って相手の考えをさぐる。 らう あはれなりし昔のことどもも思ひ出でたるついでに、中将「かの廊のつま入り六少将は当時親しく自分に世話 をしてくれた女房なので。 すだれひま つるほど、風の騒がしかりつる紛れに、簾の隙より、なべてのさまにはあるまセ寝殿に通ずる廊の端。寝殿の 南廂に招き入れられた時のこと。 じかりつる人の、うち垂れ髪の見えつるは、世を背きたまへるあたりに、誰ぞ ^ 並々ならぬ身分の美しい女。 九後ろに長く垂れた髪。浮舟。 うしろで となん見驚かれつる」とのたまふ。姫君の立ち出でたまへりつる後手を見たま一 0 少将の尼は。 = まして、もっとよく浮舟を見 へりけるなめり、と思ひて、「ましてこまかに見せたらば、心とまりたまひなせたら。以下、少将の心中。 三亡き姫君 ( 中将の妻 ) は。浮舟 が格段にまさるとする。 んかし。昔人はいとこよなう劣りたまへりしをだに、まだ忘れがたくしたまふ 一三独り決めにして。中将の浮舟 めるを」と、心ひとつに思ひて、少将の尼「過ぎにし御事を忘れがたく、慰めか執着を予測する少将は、慎重にか まえて、以下の返答もはぐらかす。 ねたまふめりしほどに、おばえぬ人を得たてまつりたまひて、明け暮れの見も一四尼君 ( 妹尼 ) は。 三思いもかけぬ人。浮舟をさす。 のに思ひきこえたまふめるを、うちとけたまへる御ありさまを、いかでか御覧一六見て心慰められるもの。 がみ 六 七 ひと

4. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

かれける が自分の弾奏にばかり感じ入っていると思い込んで、「た ( 亡き妻を忘れることができないにつけても、この私が笛の けふ、ちちりちちり、たりたんな」などとかき返し急調子 で弾いている、その歌詞のどれもがむやみに古めかしい。 音に思いを寄せた女君の冷たいお仕打ちには、声をたてて泣 中将が、「じつにおもしろく、当世ではあまり聞かれない かずにはいられませんでした ) 歌をお弾きになりましたな」とほめると、大尼君は耳も遠やはり、 いくらかでもこの気持をお分りいただける程度に、 いので、そばにいる人に聞き返して、「当世の若い人はこ あなたからお言い聞かせてくださいまし。私も辛抱できる うした音楽はたしなまれないのですね。こちらにこのとこ くらいでしたら、このような色めかしいふるまいをまでど ろいらっしやるらしい姫君も、ご器量はほんとにおきれい うしていたしましようか」とあるのをごらんになると、以 のようだけれど、もつばらこういうむだな遊び事などなさ 前にもましてどうしてよいか心細い思いの尼君は、涙も抑 らすに、引きこもったままでおられるようです」と、自分えきれないような面持でお書きになる。 だけがえらそうにして声高に笑いながら話しているのを、 「笛の音にむかしのこともしのばれてかへりしほども そで 娘の尼君などはそばではらはらしていらっしやる。中将は 袖そぬれにし ( あなたの笛の音に、つい亡き娘のことも思い出さずにはい こんなことですっかり興をさまされてお帰りになるが、そ られなくて、お帰りになったあとも、涙に袖も濡れておりま の道中も山おろしの風に乗って聞えてくるその笛の音が、 した ) まことにおもしろく聞えるので、庵の人たちは夜明けまで 習 起きている。 この女君の、合点のゆかぬほど人の情けの分らないお方か しらと思われる様子は、老人の問わず語りにもお聞きおよ 〔を中将妹尼と歌を贈あくる朝早く、中将から、「昨夜は 手答浮舟経を習い読むあれやこれやと取り乱しておりまし びになりましたでしよう」とある。格別のこともない尼君 の手紙も、はりあいのない心地がして、ついそのままうち れたので、あわてておいとまをいたしました。 忘られぬむかしのことも笛竹のつらきふしにも音そ泣置くほかなかったであろう。 しんばう

5. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

引歌一覧 441 ( 古今・冬・三一穴壬生忠岑 ) 歌の言葉に即した連想が、忘れようとしている過去をまざ 消ゆらむ 白雪が降って積っている山里では、その雪が消えそうなうえ まざと引き出していく趣である。 に、そこに住んでいる人の心までも消え入りそうなはど心細 飽かざりし君が匂ひの恋しさに梅の花をそ今朝 ともひら ( 拾遺・雑春・一 00 五具平親王 ) い思いであろうか は折りつる そで 名残惜しいと思ったあなたの袖の香が恋しく思われるままに、 「消ゅ」は、雪が消える、人の思いが消え入る、の両義。 たお あの香を思わせる梅の花の枝を今朝手折ってしまった。 物語では、年末の宇治の山里の心細さをかたどる。ただし、 もっと積極的な引歌もありそうだが、かりにこの歌を掲げ物語では、前項の引歌に連接しながら、浮舟の懐旧の念を ておいた。 かたどる。「飽かざりし匂ひ」とは、匂宮のことである。 君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪浮舟が他の花よりも紅梅に心惹かれるのは、匂宮の「飽か 9 1 上 ( 古今・春上・一一一光孝天皇 ) ざりし匂ひ」がしみついているためかと、語り手が推測す は降りつつ そで あなたのために、春の野に出て若菜を摘んでいる私の袖に、 る趣であるが、浮舟の無意識の情動を捉えた行文である。 そで た 雪がちらちら降りかかってくる。 ・・ 5 色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし ( 古今・春上・三三読人しらず ) 「衣手」は袖の歌語。物語では、新春を迎えて、妹尼から宿の梅ぞも 色よりも香こそすばらしく思われる。誰が袖をふれて、その の贈歌に応じた浮舟の歌「雪ふかき・ : 」にふまえられ、長 移り香をわが家のこの梅の花に残したのか。 寿を祈る歌となっている。 ・・ 1 月ゃあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはも前出 ( ↓匂宮 3 四七一ハー上段など ) 。物語では、浮舟の独詠歌 ( 古今・恋五・七四七在原業平 ) との身にして 「袖ふれし人こそ見えね・ : 」の歌にふまえられる。前項の 月は昔のままの月なのか、春は昔のままの春なのか。わが身 引歌で、語り手が浮舟の無意識の情動を推測したのを受け 一つだけはもとのまま、変ることとてないが : て、ここでは浮舟自身が「袖ふれし人」匂宮との思い出を ねや はっきり意識している。ここでも、歌の言葉が媒介となる 前出 ( ↓早蕨 3 三六五ハー上段 ) 。物語では、浮舟が「閨のつ ことによって、忘れていたい過去が甦ってくる体である。 ま近き紅梅の色も香」も、過ぎ去った昔に変らぬとして、 この歌を「春や昔の」と想起する。それがさらに次の引歌「色よりも・ : 」の歌が、出家した浮舟の心をなおも揺さぶ おうせ っているといえよ , つ。 表現を呼び起して、往時の匂宮との逢瀬を想起させていく。 ひ

6. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

ない性分。↓東屋一九九ハー一行。 夢のやうなる人を見たてまつるかなと尼君はよろこびて、 〔一 0 〕妹尼浮舟を慈しみ、 一六介抱して病気をなおしてあげ みぐし けづ 事情を明かさぬを恨む なさい。「やむ」は病気をなおす意。 せめて起こし据ゑつつ、御髪手づから梳りたまふ。さばか 宅まるで夢さながら、と喜ぶ。 一 ^ ゅ もとゆい りあさましう引き結ひてうちやりたりつれど、いたうも乱れず、ときはてたれ天病臥の場合、髪も元結で束ね けず ニ 0 て枕上に置く。梳ることもない。 つやつや ひととせ ば艶々とけうらなり。一年たらぬつくも髪多かる所にて、目もあやに、いみじ一九梳き終ってみると。 ももとせ ニ 0 老女の白髪。「百年に一年た あまくだ き天人の天降れるを見たらむやうに思ふも、あやふき心地すれど、妹尼「などらぬつくも髪われを恋ふらしおも かげに見ゅ」 ( 伊勢物語六十三段 ) 。 こツ」ろう 力いと心憂く、かばかりいみじく思ひきこゆるに、御心を立てては見えたまニ一かぐや姫のような天女。 一三いっ昇天するか分らぬので。 たれ ニ四 ニ三浮舟が強情をはって素姓など ふ。いづくに誰と聞こえし人の、さる所にはいかでおはせしぞ」と、せめて問 を語らぬのを難する。 ふをいと恥づかしと思ひて、浮舟「あやしかりしほどにみな忘れたるにゃあらニ四宇治院の樹下。 一宝意識を失っていた間に。 ニ六以下、前の記憶 ( 一六二ハー ) と む、ありけんさまなどもさらにおばえはべらず。ただ、ほのかに思ひ出づるこ やや異なる。素姓を知られたくな ととては、ただ、 、昇天近いころのかぐや姫が端 いかでこの世にあらじと思ひつつ、夕暮ごとに端近くてなが 近に出て物思いに屈したのを装う。 した 習めしほどに、前近く大きなる木のありし下より人の出で来て、率て行く心地な毛自分でも自分が誰なのかさえ。 ニ ^ 無邪気な言い方で。実は浮舟 むせし。それよりほかのことは、我ながら、誰ともえ思ひ出でられはべらず」の記憶はもとに戻っている。 手 0 思いもかけぬ浮舟の出現は、 と、 いとらうたげに言ひなして、浮舟「世の中になほありけりといかで人に知『竹取物語』のかぐや姫に見立てら れる。となれば、横川の僧都が竹 られじ。聞きつくる人もあらば、しし 、と、みじくこそ」とて泣いたまふ。あまり取の翁に、妺尼が嫗に相当する。 ニ八 ニセ がみ ニ六 一九

7. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

をみなへし ってしまったものを、隠しだてをしたりするのもどうかと あだし野の風になびくな女郎花われしめ結はん道とほ くとも 3 思って、「娘のことが忘れようにも忘れられませんで、ま ( ほかの男の言うままにならないでください。たとえ京から すます罪深いことと思わずにはいられませんでしたから、 語 の道は遠くても、あなたをはっきりとこのわたしのものとし 物その心の慰めにもとこの幾月か私がお世話しております人 氏 ておきたいのです ) でして。どういう事情からか、ほんとに悩み事が多い様子 源 と書いて、少将の尼に取り次がせた。それを尼君もごらん で、この世に生きていることを人に知られはせぬかと、 かにもつらそうにしておられるものですから、このような になって、「このご返事をお書きなさいまし。あの君はほ 谷深いところでは誰もお捜し申すことはできまいと思い思んとに奥ゆかしいところがおありのお方ですから、ご心配 いしておりましたが、どうしてあのお方のことをお聞き出なさるようなこともありますまい」とお勧めになると、女 しになったのでしよう」と答える。中将は、「仮にふとし君は、「ほんとにったない筆跡ですもの、どうしてさしあ げられましよう」と言って、どうしても承知されないので、 た浮気心からこちらに参上したといたしましても、山深い 道のりを苦労してやってまいりました泣き言ぐらいは申し「それでは失礼なことになりますから」と尼君が代って、 「先ほど申しあげましたように、並の人とはちがって世な あげてもよいでしよう。なおさらのこと、あなた様がその お方のことを亡き姫君同様と思っていらっしやるというのれぬお方でして。 うっし植ゑて思ひみだれぬ女郎花うき世をそむく草の ですから、この私とかかわりないこととしてお疎みになる べきではございますまい。どういういきさつから世の中を ひと ( あの女をここに引き取ってお世話しているために心を痛め 恨んでいらっしやるお方なのでしようか。お慰め申しあげ ております。俗世を捨てたつもりの草の庵でございますの たいものです」などと 、、かにも事情を知りたそうにおっ しやる。 としたためた。今日のところはそれもいたしかたあるまい 中将はお帰りになろうとして、懐紙に な ゅ

8. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

と申しあげていらっしやるうちに日も暮れてしまったので、見やられる谷あいに、とくに注意して前駆を追う声がして、 たいまっ 大将は京へ帰る途中、小野に立ち寄って宿をおとりになる ほんとに数多くともした松明の灯のものものしい光が見え のもちょうど好都合のようであるけれども、しかし確かな るとあって、尼君たちも端に出てすわっている。「どなた こともまだはっきりしないままで訪ねていったりしたら、 がお通りになるのでしよう。御前駆などがじつに大勢見え やはり具合がわるかろう、と思案にあぐねた末お帰りにな ますこと」、「昼間、お山にひきばしを持たせてあげた返事 るが、そのとき僧都がこの弟の童に目をとめておほめにな に、大将殿がおいであそばして、急にご接待をするので、 る。大将が、「この子にことづけて、とりあえず女君に私 ほんとにちょうどよい折です、とのことでした」、「その大 のことをそれとなくお伝えくだされ」とお申しあげになる将殿とは、今上の女二の宮のご夫君でいらっしゃいました ので、僧都は手紙を書いてこの小君にお渡しになる。そし かしら」などと言っているのも、まったく世間離れして田 て、「ときどきは、この山に遊びにおいでになるがよい」 舎びた様子ではないか。じっさいそうにちがいなかろう、 と、また、「いわれのないことのようにはお思いになれぬ大将殿がときどき、ここと同じような山道を分けて宇治に ずいじん わけもあるのですから」と言葉をおかけになる。この童は、 お越しになったときの、まさしくそれと思われた随身の声 なんのことか合点がゆかないけれども、手紙を受け取り、 も、ふと中にまじって聞えてくる。月日の過ぎていくのに 大将のお供をして出立する。坂本までやってくると、前駆つれて、忘れてしまうはすの昔のことがこうして忘れられ の人々は少し離れ離れになり、大将は、「目だたぬように ないでいるにつけても、いまさらどうなるものでもないと 橋 せよ」とおっしやる。 情けなく思わずにはいられないので、女君は、阿弥陀仏を 浮 〔五〕浮舟、薫の帰途を小野の里では、女君が深々と生い茂念ずることに気を紛らわし、いつもにましてものも言わす よかわ 夢見、念仏に心を紛らす 0 た青葉の山に向 0 て、気持の紛れ にいる。このあたりでは横川に行き来する人だけが、俗世 やりみず を身近に知る頼りなのであった。 ようもなく、遣水に飛ぶ蛍ぐらいを昔を思い出す慰めとし て思いに虚けていらっしやると、軒端からいつも遠くまで うつ

9. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

みずしどころ 人たちの役に立つ者はみな、御厨子所のしかるべきいろい ってきた。僧が「この辺には若い女人などがお住まいか 3 ろの用事を、それもこうした宿替えの際には手早く支度し こうした不思議なことがあるのだが」と言ってこれを見せ なければならぬものだから、こちらのほうはひっそりして ると、「狐のいたすしわざでございます。この木の根元で 語 わるさ おととし 物いて、ほんの四、五人でこのあやしいものを見ているが、 ときどきあやしい悪戯をするのでございます。一昨年の秋 ふたっ 氏 様子が変るわけでもない。どうも不思議なので、時刻の移も、この辺におります者の子供で、二歳ばかりになってお 源 そうすれりましたのをさらってここにやってまいりましたが、この るまで見ている。早く夜が明けてくれればよい、 ばこれが人であるのかどうか正体を見届けてやれようが、 手前はべつにびつくりもいたしませんでした」、「それでそ じゅもん と心の中でこうした場合の呪文を唱え、印を結んで様子をの子供は死んでしまったのか」と尋ねると、「いえ、生き 見ているうちに、はっきりと見きわめがついたのであろう ております。狐はそうやって人をおびやかしはいたします か、僧都は、「これは人間なのだ。けっして特別のあやし けれど、たわいのないやつで」という様子は、まったくあ おももち い魔物ではない。そばに寄って尋ねてみよ。死人ではない りふれたことのような面持である。あちらで夜中にさしあ ようだ。あるいは死人を捨てておいたのが、生き返ったのげるお食事の支度をしているほうに気をとられているので かもしれない」と言う。弟子の僧は、「どうしてそんな死あろう。僧都は、「それでは、そうした狐などのしわざか 人をこの院の中に捨てたりいたしましようか。たとえ確実どうか、もっとよく見るがよい」と言って、あのこわいも こだま に人間であっても、狐とか木霊とかいうようなものがたぶ の知らずの法師を近づかせると、法師は、「鬼か、神か、 らかしてさらってきたものでございましよう。まったく不狐か、木霊か。これほどの天下に高名の験者がおられると けが 都合なことでございますな。ここにおりましては穢れに触あっては、とても正体を隠し申せまい。何者か名のられよ、 れる恐れがございましよう」と言って、先刻の留守番の老名のられよ」と着物をつかんで引っぱると、その女は顔を しようわる 人を呼ぶ。山彦が返ってくる声もまったく恐ろしい 衣に埋めてますます泣く。「さてさて、なんと性悪の木霊 老人は、おかしな格好をして額に烏帽子を押し上げてや の鬼よ。どうあろうと正体を隠しおおせられるものか」と そうず げんざ

10. 完訳 日本の古典 第二十三巻 源氏物語 ㈩

の自分にそうした思い人がいるということを帝がお聞きあ〔一六〕匂宮、侍従と語らいったい心持が穏やかで、ほどよく そばしたなら、こうしたご降嫁のこともなかったであろう う侍従中宮に出仕ふるまっておいでになる人でも、こ に。なんといっても情けなくもわが心を悩ませてくださっ うした色恋の筋では身をもって思い悩まねばならぬことも た宇治の橋姫ではあるよ」と思案にあまっては、また宮のおのずと起ってくるものだが、なおさらのこと、宮はお心 上のことが心にかかって、恋しくもありせつなくもあり、 の紛らわしようもなくて、亡き女君の身代りとして、いっ どうにもならないのが、我ながら愚かしいまでに悔まれて までもあきらめきれぬ悲しさをもお打ち明けになれる人さ ならない。 こうしたことに思い悩んで、さてその次には、 えいないのでーー・対の御方ぐらいは、亡き女君のことをお 嘆かわしい有様で死んでいった宇治の女君の、まったく無かわいそうになどとおっしやりはするけれど、それとて、 分別な、自らの進退を熟慮する点の欠けていた軽々しさを もともと深いおなじみではいらっしやらなかったのだし、 恨みながらも、それでもさすがになりゆきを深刻に思いっ ほんの近ごろのお付合いなのだから、そう心底からはどう めていたということや、こちらの出方がいつものようでは してお思いやりになれようか、また、宮もそのお気持のま なくなったと、そのことを心の鬼に責められて嘆き沈んで まに、恋しいとか、せつないなどとかおっしやるのは具合 やしき いたという様子を右近からお聞きになったことも思い出さ がわるいことなので、あの宇治の邸に仕えていた侍従を、 ひと れてきては、あの女は、重々しい妻としての扱いではなく、 またもや迎えにおやりになるのであった。 めのと ただ気がねのいらぬかわいい言し相手にしておこうと田 5 っ 女房たちはみな散り散りに去っていって、乳母とこの二 蛉 たのであって、そうした向きではまったくいとしい女だつ人の女房、右近と侍従とが亡き女君のとくに目をかけてく たものを、こう考えてくると、宮をもお恨み申すまい、あ ださったのも忘れがたくてーー、・もっとも侍従は、あとから の女をもつらいと思うまい、ただこの身のありようが俗世仕えた人であるけれども、やはり話し相手になってどうや うつ 9 になじまぬ、その不運ゆえなのだ、などと虚けた物思いに ら過していたのだが、異常にはげしい川水の音も、こうし 沈みがちでいらっしやる。 ていればいずれはうれしい幸運にも恵まれようかと頼みに ひと