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七時間目の怪談授業

まきみ ながら、真紀を見あげた。 「真紀ちゃん、これ : ・ 「ね ? ベストショットでしょ , っ ? 」 と第、し 真紀は得意げに笑った。 「よう、おはよーさん。 ふたりて と、そこに純一郎が近づいてきたから、はるかはあわてて、二人が手をつないでいる写真 を隠した。 「どうしたんだ ? あか ふしぎ ほおを赤くしたはるかを見て、不思議そうな顔をした。それから、純一郎はノートをち かみと わた ぎった紙を取りだした。そして、はるかに渡す。 はなし きのうかんが 「これ、昨日考えて、書いた話。」 こまかな文字がびっしりと書いてある。 なまえおんな はなし それは、なつみという名前の女の子の話だった。 へん 「あのさ、ちょっと変なことを言うみたいだけどさ。」 じゅんいちろうちか わら こ かお じゅんいちろう しやしん 209

世界史の誕生 : モンゴルの発展と伝統

252 前五世紀にヘーロドトスが創り出した地中海型の歴史観によっても、前二世紀末に司馬 遷が創り出した中国型の歴史観によっても、現実の世界史が割り切れないことは、冷静に 考えれば当り前のことであるのに、それを何とか割り切ろうと、大多数の日本の歴史学者 は空しい努力を繰り返して、いつも不満足な結果に終わっている。 日本史の性格 まず日本史ではどうかというと、国史学科が研究の対象とした日本史には、八世紀の にほんしよき 『日本書紀』から始まって、十七世紀から二十世紀の初めまで編纂が続いた水戸藩の『大 にほんし 日本史』に至るまで、「正史ーの伝統的な枠組みが確固として存在して、それから抜け出 すことは非常に困難、ほとんど不可能である。古文書の研究などは、正史の補助という性 格のもので、正史の枠組みから完全に独立した研究分野ではない。 その日本の正史の枠組みを決定したのは、日本で最初に書かれた歴史である『日本書 紀』であった。六六八年の建国の当初から、日本文明に『日本書紀』に代表される立派な 歴史があるのは、日本文明が、歴史のある中国文明から分かれて独立した対抗文明だから である。 わじん だいどうこう 日本列島の倭人たちは、前一〇八年に漢の武帝が大同江畔の朝鮮王国を滅ばして、韓半 らくろう しんばん 島に真番郡・楽浪郡などの四郡を置いた時から、皇帝を頂点とする中国文明圏に組み込ま

諸星大二郎特選集 3 遠い世界

ダ叱 イ / ん 2 / ア 7 彡 あれかな ? / 洞窟の中は女と 子供ばかりで、 おびえて隠れて いる様子だった。 襲撃 ? 一豸づ ) - イ彡 ) ルコル人は毎年、今頃の )C. 季節、クム人の土地を 襲って略奪するのを なりわい 生業にしているそうだ。 それて男たちは家畜を 連れてクムダへ行き、 女子供は洞窟に隠れる だんな、 ここはクムダの 洞窟じゃない この女たちは ルコル人の襲撃を 恐れて隠れて いるんだ。 067 遠い国から [ 第三信 ] ナルム山紀行

七時間目の怪談授業

ふくざっきも まきすがたみ しんけんかいだんよ 真剣に怪談を読んでいる真紀の姿を見て、はるかは複雑な気持ちがした。 きよう ひるやす としよしつ 「今日も、お昼体みに図書室に行くでしよう ? もっともっと、こわい話をさがさな きや ! 」 こと・は むごん 真紀の言葉に、はるかは無言でうなずくしかなかった。 としよしつ 昼体み、図書室でこわい話の本をさがしていたはるかは、貸出力ードを見てふと気づい なまえ み きのうか 昨日借りてかえった本にも「小林健吾」の名前があったのだ。見てみると、他の本にも なまえ ねん 四年二組だったり、五年一組だったりと、学年はちがうものの、どれも小林健吾の名前が あった。 「ねえねえ、真紀ちゃん。これ見て。」 ほんしら み かしだし はるかが貸出力ードを見せると、真紀も自分の持っていた本を調べてみた。 こばやしけんご か ほんかしだし すると、その本の貸出力ードにも小林健吾と書いてあったのだ。 おな こばやしけんごくん 「小林君って : : : あの、同じクラスの小林健吾君だよね ? 」 ひるやす こばやしくん はなしほん み こばやしけんご がくねん じぶんも かしだし こばやしけんご はなし み ほん き

図書館雑誌 2014年08月号

5 ノ 2 図書館雑誌 2014.8. 専任司書教諭必置を渇望する 宮部頼子 毆 ( 9 一 ( 回 一一十数年間、司書教諭養成に携わってきた。学らない。六月に学校司書配置に関する学校図書館 校図書館法には「司書教諭を置かなければならな法改正が行われたが、「専任」の二文字はやはり盛 い」と明記されているにも関わらず、「専任の司書り込まれてはいない。過去の歴史から我々が本当 教諭配置」という点からみると、私立など一部をに学ぶことか出来ていたならば、一九九七年当時 除き、そのような学校図書館は少ない。学校図書と同様の失敗を再び繰り返さずに済んだであろう。 館法公布から約半世紀を経た一九九七年、二〇〇日本の学校図書館の最大の問題は人がいないこと 三年四月から十二学級以上の学校には司書教諭必である。その人に関して、もし専任担当者は一人 置、と悲願の改正がなされた。しかし「専任」のしか配置できないと言われたならば、その一人は 一一文字が存在しないが故に、状況が大きく変わるますもって司書教諭であるべきであろう。図書館 ことはなかった。兼任充て職で授業減免措置もほ専門職としての知識技能面で極めて不十分であり、 とんどなく、図書館運営に関わる時間が取れない抜本的改善が必要なことは言うまでもないが、教 「名ばかり司書教諭」と、そうした状況が生み出し育養成体制も曲がりなりに存在している。今、日 た「隠れ司書教諭」の存在は今も珍しいことでは本の図書館関係者が向き合、つべき最優先課題は、 ない「本があって、人がいて」という、学校図書原点に立ち返り、「全ての学校図書館に専任司書教 館の根幹が無視され続けている。一九九七年改正諭を配置すること」ではないだろうか ? 「当事者意識」と「諦めないという覚悟」で武装 時の附帯決議「授業時間数の軽減や司書教諭の専 任化を含め、検討を行い、 その結果に基づいて所した、全ての学校図書館関係者の結集が、日本の 要の措置を講ずること」に関して、今日に至るま学校図書館を前進させることを信じたい。「専任司 でどれ程の進展があっただろう ? 状況改善を果た書教諭必置」をまっすぐに、真正面から主張する せなかった理由はいくらでも挙げることができる勇気ある人々が今求められている。 ( みやべよりこ / 清泉女子大学・鶴見大学非常勤講師 ) だろう。しかし結果は結果で受け止めなければな

新潮45 2018年10月号

e V 一 e W 虜や民間人を虐殺したとされる事件。そ本書を読んで、政治家や企豕が隠し の被害者数は「三〇万人以上」「数千人ていた「不都合な事実」が白日の下にさ四 にすぎない」「いや、そもそも大虐殺ならされて世間が大騒ぎするのを横目で眺 七七年前の謎を解き明かすせ どなかった」と、立場によって大きく異めてきた自分を反省した。政治的・思想 調査報道の底カ 円 調 なる。真偽を確かめようにも直接証拠は的パイアスがかかり、見えなくなってい 件敗戦時に処分され、もはや水掛け論にしる事実を知るのは快感なのだと、改めて 事潔 かなるまいと、私は思い込んでいた。 思い知らされた。 ( ライタ ! 鈴木裕也 ) 京水 だが、「知ろうとしないことは罪」と 南青藝 自らを奮い立たせて、著者はこれに挑戦箸か持っ 若かりし頃、週刊誌の事件記者だったした。桶川ストーカー殺人事件では警察歴史と文化の面白さ ン 円 経験がある。もちろん「端くれ」だ。そよりも先に犯人にたどり着き、足利事件 しワ >J ド れでも取材を続けていると、新聞やテレの再調査では〔を証明してきた〃調査 す一訳 ビが触れなかった事件の裏側や隠された報道のプロ〃である。実際に現場にいた はワ紀 箸はすごい をエドッーア・。フン 事実に行き当たることがある。ある程度従軍兵士の日記を丹念に当たり、その記 第強を 箸工仙 取材の経験を積んだ私はひとかどの探偵述の襲をコッコッと取る作業を積み重ね、 気取りで、本気で取材すれば突き止めらこれまで語られることが少なかった南示現在、世界人口の約五分の一、約十五 れないことなどないと思い上がった時期事件の事実を明らかにしてしまった。 億人が箸を常用している。他は巾東、南 もあったものだ。 この取材を元にして放送され、多くの方アジア、東南アジアの一部に多い「手 そんな端くれとして本書を読んで驚い賞を受賞した「 zzz ドキュメント南食派」と、ヨーロツ。ハを中心とした「フ た。事件取材の手法で「南京大虐殺」に京事件兵士たちの遣言」を聿昼化したオーク・ナイフ派」に分類される。古代 迫る 。そんなことができるなんて考本書を読めば、誰もが一つしかない " 事中国では紀元前五千年には箸が使われて えてみたこともなかったからだ。 実〃を確信するはずだ。むしろ、なぜさいたというから、箸文化は七千年の歴史 時は一九三七年。日中戦争のさなか、 まざまな「説」がまかり通るのかのほうを閲したことになる。箸が匙に代わり食 日本軍が南只を攻略した際に、多数の捕が不思議に思えてくる。 文化の主役となるのは漢時代。小麦の製 南京事件 を調査せよ み 00 30

冬の鷹

友人林子平とも、それが最後の対面になった。翌寛政三年十二月三十日、江戸に召 喚された子平は、松平定信によって板木の没収と蟄居を命ぜられ、寛政五年六月二十 七日に死亡したのである。 たかさき すでに街道には雪が舞っていて、かれはその中を黒羽、前橋、高崎を経て、中仙道 を京都へと向った。それは、本格的な反幕活動をおこなうための旅であった。 りよう。たく おくだいらまさたか 鷹寛政一一年十一月、良沢は藩主奥平昌高に隠居を願い出て同月十一日に許しを得、家 たつりようあん 督を息子の達 ( 良庵 ) にゆずった。 むねまさ ゆいのしんよりのり の その年、良沢は、かれの学風を慕っていた紀伊藩主徳川宗将の子である唯之進頼徳 冬の依頼で、オランダ人数学者アプラハム・ガラーフの城郭築造法ともいうべき著書を 「和蘭築城法ーとして訳出し頼徳に提出していた。そして、さらに翌年にかけて、す かむさすかし でに訳した「柬砂葛記」を充実させた「柬察加志」も著した。 かれの学問に対する情熱は、老齢にもかかわらず少しの衰えもみせなかった。と言 うよりは、むしろ隠居することによって気分的にも解放され、一層オランダ書の翻訳 につとめていた。 しかし、かれの多方面にわたる洋書の翻訳は幕府にとって無気味であった。尊皇攘 おらんだ はんぎ きい ちつきょ

長谷川伸全集〈第9巻〉

日本刀が幾振りも隠されていたのが、警備の兵によって明らかであるが、それを高度のものと誤解して隠したの 見付け出されたことがありました。このときのグリーン博は、国民伝説が与えた刀に対する過信の現れ以外の何もの 士は火のようになって怒り、残留隊の責任者を集めて激しでもない。 く責め立て、それからこういっこ。 狐が助力してつくった小鍛冶の刀、新田義貞が海の神に 「ここの日本人が反乱をいっか起すために、日本刀を隠し捧げて退潮を祈って成功した刀、悪鬼を嶄り妖魔をった ていたとは思っていない。私に対して悪意をもっていると刀、それとは似ても似つかぬ刀が隠されていたのだから、 も思っていない。 しかし、私は憤っている。信頼している棄ててしまっても世界の損失に決してならない物ばかりで ある。 ここの日本人が私を裏切った不信を悲しむの余りである。 日 私の憤りを和らげ得ると思う人あれば、何とでもいってご どうぞ国民伝説とその過信の現れとに心してほしい、 覧なさい」 本の言葉で昼行燈というのは、白昼の燈火は役に立たず、 わたくしどもは弁解の主題をこう考えた、「日本刀は武その明るさも有るかなきか、これを人に擬して薄ポンヤリ 器としてよりは美術品としての価値が高い、それはイギリ の人にあてている。マレイ人の言葉に白昼に燈を点じて行 スの東洋美術研究家がよく知っているが、それ以上にそのくというのは、知らるるがごとく心正しくしてうしろ暗き ことに関心をもつものは日本人である。だから武器としてことなき人ということだと聞いている。人種の差と言葉の 隠したのでなく、美術品として愛惜のあまりに隠したので差のあるところ、感情と思慮にも差があるはずと、イギリ ス風にユーモアで主張の鋭さを緩和したいい方をしたので ある。二千五百マイルの外国にかくのごとき身となって、 母国の美術品に恋々たる心状をわかってもらえないだろう か」と。しかし、発見された日本刀が、そういっていい物苦がり切っていたグリーン所長の顔が、いっか和らいで かどうかはわかりかねるのです。 きただけでなく、何度もふき出しそうになった。後で知っ 可南子がこの役をわたくしどもから引受けさせられ、通たのですが、このときグリーン博士は、眼を閉じて可南子 訳の形をとって言明をやりました。芸術としての日本刀をの英語を聞いていることが幾度もありました。それは若い 説いたあとで、日本刀の国民伝説における在り方を、名刀女性司書が熱して来たとき、ロンドン訛りが口を衝いて出 の奇瑞などの例をあげて述べ、それから隠されていた日本て来る、その故であったそうです。グリーン博士はロンド ンの人だそうです。 刀が、それほどのものでないことは鍔を見ても鞘をみても

七時間目の怪談授業

ひるやす としよしつき 昼休み、はるかと真紀は図書室に来ていた。 はなし 「さあ、がんばってこわい話をさがすぞー 真紀は気合いを入れるように言う。 はなしかいだん あらためて本棚を見てみると、こわい話や怪談のシリーズものは、他の本よりもポロポ 口になっているものが多かった。 わたし はなし よ 「私、こわい話なんか、読みたくないのになー。」 かいだんぼん ひょうし おも 怪談本のおどろおどろしい表紙の絵を見て、はるかは思わずつぶやいてしまう。 みつかめすいようび き ゅうれい 三日目 ( 水曜日 ) お経の効かない幽霊 ほんだなみ おお きよう ほかほん

長谷川伸全集〈第13巻〉

し出したが、軽く出端を押えっ 慎九郎は赧くなって、い、 寛永十八年三月二十一日、堀主水一類は旧主加藤明成に けられた。 きよくけい 引き渡され、間もなく将軍は口ずから、主水等を極刑に行 「わかったわかった、それでこそ汝も当家の士じゃ」 、、、ぜめ えと明成に命じた。主水兄弟三人は、うつつ責の末に斬殺 こうやさん 宮内は高野山へ、探偵として入り込む内命をうけて喜んされ、妻子も極刑に処ぜられた。 きしゅう で出立した。紀州の霊場には、鎌倉を去った堀主水が、身 宮内はその頃になって、会津若松の小屋に帰ってきた、 の危険を感じて登山しているのであった。 主水は高野を下山して、紀州家をたよって身を寄せた、色こそ黒くなったが、優姿は足かけ三年の今でも、元と変 加藤家と高野山の争いもそうであったが、紀州家を対手とるところが更になかった。 おんみつ せいさん して、争いを起そうと決心した加藤家は、凄惨な覚悟を据隠密をやって相模から紀州へ、紀州から江一尸へ出て暫く 休息し、やがて又相模へ主水の妻子の隠れ家を嗅ぎ出しに えた。 ちゅう 「四十万石を差しあげても、極悪の不臣堀主水の一類を誅行った。その永らくの間に、宮内は時々故郷の空を望ん で、非力者の腕前が、君家の役に大分立っているのを自慢 さねばならぬ」 父の嘉明の小兵に似ず、六尺豊かな加藤式部少輔明成した。今度会津へ帰ってからも、そうした気もちを、胸一 あしず は、足摺りして焦慮った。主がこの気もちだから、血気な杯にもっていたが、慎九郎の噂を聞くと、今までの元気が はや 一度に耗った如く思った。 士は逸りきって、何かというと殺気立った。 たがいまたはちろう そのうちに紀州を出た主水は、江戸に現れて旧主明成の慎九郎は主水の弟、多賀井又八郎の妻子を捉えに行き、 ・一う 討罪条、一「十一個条をあげて公儀に告訴した、明成の評判は大分武勇を示したというのだ。そればかりか、慎九郎とき ぬ余りよくなかったが、主の居城に発砲し、往来の橋を焼いとは、互いに父となり母となっていた。子供は今年一一歳 やき、関所を押して通ったという廉が、徳川家では許しておだという。 せかれない事件だった。君臣の別を紊ることは、加藤家の問 くろ ◇ 討題ではなく、公儀自身に影響する問題であるとともに、黒 しよいん 書院に居流れた人々の、立場は、加藤明成と皆同じであっ牛ケ墓のほとりの桜が咲いた。隠密の苦心を認める者よ まさ り、慎九郎の腕前の方が、知合いの間柄では優るとされ た。誰一人として主水と同じ立場に立って考える人はなか あか こひょう かど みだ おみ っこ 0 うしばか やさすがた