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週刊エコノミスト 2017年2月14日号

凸政走 うすぐ浦歳になる。物心つい た時分から成人を迎えた後 も、私にとって「天皇陛下」と一言え ば ( 常に昭和天皇だった。新聞記者 になったのも昭和礙年。だが、護 が四年目に入った今、「天皇陛下」と は当然のことながら現陛下だ。 時の経過とともに意識が変わって いったのだろう。天皇陛下の退位問 題が国政の重要テ 1 マになった中、 「日本人の天皇観」を考える機会が増 えている。 1991 年 7 月川日、天皇、皇后 両陛下は長崎県を訪問された。雲仙・ 普賢岳の火砕流で多数の犠牲者が出 てから約 1 カ月後。両陛下は島原市 など 7 カ所の避難所や仮設住宅を訪 れた。 避難所で陛下はネクタイを外し、 シャツの袖をまくり上げ、体龕の 床に膝をつきながら被災者を激励し て回る。当時歳。この訪問は「住 民が丕女を募らせている時だからこ そ現地に入りたい」という陛下の強 い意向で実現した。 長崎の人たちが成厳したのは言っ までもなかったが、新聞やテレビを 通じ、多くの国民が「皇室の変化」 を感じ取った。『毎日新胆は陛下の こうした姿を「護流の原点」と位 置づけ、昨年Ⅱ月下旬の連載記事で 紹介した。 ただ、この変化は一部に微妙な反 も ヒアリング」では、退位反対派が独 」」第応をもたらす。保守派から「あそこ 部 まで陛下にしていただいていいもの特の天皇観を披歴した。 治 点像。 なのか」「皇室の権威の失墜につなが「天皇家は、続くことと、祈るとい るのではないか」「天皇は国民の人気う役割に大切な意味がある。それ以 原皇 毎 を集める必要はない」といった反発上のいろいろなことを天皇の役割と の天。 流省内部にも「正座して国民と同じ目線立派に仕事をされてるが、それを で話す陛下」を疑問視する見方があ天皇の役割の規範と考えて、それが った。 肉体的、精神的にできない時には退 平ヒ石 位するとなると、かえって悪いこと 「イ になる。少しお休みいただいても、 それで天皇のとしての意味が薄 カ′ 当時を知る宮内庁関係者は「保守れるよ、つなことはない」 ( 平川祐弘・ も派や宮内庁職員が抱いた違和感は来只大釜〕教授 ) 『それぞれが考える天皇像からかけ「天皇陛下は、い つもその姿を見せト 並日と離れたお姿に起因してる』などとて活躍することが天皇の仕事とス 解釈されたのだが、もともと日本人して重要だと考えておられる。しか 山イ 一人一人が『普遍的な天皇像』を持し、本当はそうする必要はないといコ っているわけではないと思う。違和うことを、脇にいる方が申し上げてエ 時 感を持った人たちの心の中にあったしかるべきだった。昔から天皇の第 のは『昭和天皇像』だったのではな 一の仕事は、国のため、国民のため いか」と語る。 に祈ることだ。外へ出よ、つが、出ま この関係者によると、宮内臠の いか、一向に構わない。熱、いに国民 違和感が消えるのに数年を要したとの前に姿を見せよ、つとする陛下の厚 いう。私にとっての「天皇陛下」が意はありがたいが、そうまでしなく 昭和天皇から現陛下になったのも、ても天皇陛下としての任務を怠るこ その時期に重なるのかもしれない。 とにはならない」 ( 渡部昇一・上智大 天皇陛下の退位問題を議論してい釜員教授 ) る安倍晋三首相の私的諮問機関「天「天皇は何をしなくても、いてくだ 皇の公務の負担軽減等に関する有識さるだけでありがたいということを 者会議」でも「天皇像」が取り上げ強調したい。その余のことを天皇で 4 られた。有識者会議が昨年Ⅱ月 7 、あるための要件とする必要性も理由 Ⅱ、日に分けて実施した「専門家も本来はない。今の陛下は自分に非 保守派に残る「昭和

新潮45 2018年10月号

そのとき昭和天皇は「摂政」の禮にあ元老、各大臣、各白簇を従えて天白とがわかるだろう。それはもしかすると 、病悩する父君が「終鳶」にいたるま座。剣璽、国璽、御璽が御前の案上に歴史をはるかにさかのぼり、大化の改新 において定められた「薄葬令」 ( 六四六 での困難なプロセスと看取りの時間にあ奎女される。「昭和」と改元。 てなければならなかった。そのいきさっ昭和一一年 ( 一九一一七 ) 一一月七日、新宿年、喪葬の簡素化 ) の綿を念頭におく を『昭和天皇実録』第四 ( 束泉聿鷽、一一御儀場で大正天皇の喪儀がおこなご発言だったのかもしれない。天皇の 並々ならぬ宀のほどをうかがうことが 〇一五年 ) によって左に摘記してみよう。われる。 同一一一年十一月十日、昭和天皇の「即位できるのである。 ただ、天皇がその「終鳶」発言におい の礼」。 大正十年 ( 一九二一 ) 、天皇病弱のた 同十四日 ( 、十五日 ) 、京都御所内の賢て、とくに「殯」という古語を用いられ め「摂政」 ( 裕仁親王 ) を置く。 大正十五年 ( 一九一一六 ) 五月、天皇御所において「大嘗祭」がおこなわれる。ていたことに、私は関心をもつ。なぜな らこの言葉には、いわば日本列島人の死 不例。 以上から、大正天皇の「終鳶」のとき生観や世界観の根幹にかかわる考え方が 同八月、葉山へ転地 ( 行幸 ) 。 も、闘後一一ヶ月の「殯」とそれから一具現化していると思うからだ。加えてそ 同九月、天皇の病状が公表される。 同十一一月、ご容態亜花、平願、摂年後の「即位ー・、大嘗祭」がおこなわれての観念は、白莅の継承、とりわけこれか ら述べる大貸尓の勢何とも密接に関連す いたことがわかる。それだけではない。 政の宮、軍装にてご就寝。 同十一一月一一十四日、在京の華族、元老、じつはこの喪儀のやり方は明治天皇のるキーワードだからである。 総理以下各大臣、葉山に召致される。「終焉」のときに創始された新式の殯、「殯」とはもともと、人間の保を一定 同一一十五日、午前一時一一十五分、心臓喪儀を踏襲するものだった。ここでの説期間地上に安置し、ただちに土葬や火葬 麻痺によ 2 闘。四十八歳。ーー白鴒主明ははぶくが、明治天皇の先帝孝明天皇にはしないをいう。なぜなら古代日国 典範第十条により、皇太子に直ちに皇の喪儀には、仏務が参茄する別種の伝本においては、『万葉集』の「挽歌」 ( 死 病 位を譲る、すなわち「践祚」。午前一一一統儀礼がおこなわれていたからである。者を悼む歌 ) にみられるように死者の魂 時十五分、掌典長九条道実、撈で祭このようにみてくるとき、このたびのは一惺を鵬したのちカミになると信じ天 典をおこなう。時を同じくして葉山御ご発一一一口が、明治・大正・昭和の三代にわられていたが、その霊魂はときに保に昭 用邸付属邸内にて「剣御」の儀。たる天皇の喪儀を背示におこなわれたこもどって蘇生することがあったからであ タマ

シャルリとは誰か? : 人種差別と没落する西欧

旗本夫人が見た 深沢秋男 中嶋繁雄 大名の日本地図 江戸のたそがれ 新◆日本の歴史 伊藤之雄 秦郁彦元老西園寺公望 旧制高校物語 春 文 伊藤之雄 高島俊男山県有朋 高橋紘天下之記者 皇位継承 半藤一利・秦郁彦・平間洋一・保阪正康 寺尾紗穂昭和陸海軍の失敗 云日島芳子 平成の天皇と皇室高橋紘評イ , 黒野耐・戸高一成・戸部良一・福田和也 半藤一利 ・ノートを書いた男須藤眞志伊勢詣と江戸の旅金森敦子昭和の名将と愚将 保阪正康 原武史 古墳とヤマト政権白石太一郎対論昭和天皇 昭和一一十年の「文藝春秋」賰新 保阪正康 坂本多加雄・秦郁彦 日本文明行の鍵梅棹忠夫編著昭和天皇の履歴書文春新書編集部編 昭和史の論点半藤一利・保阪正康 ロ半藤一利・秦郁彦・前間孝則・鎌田伸一・戸高一成 阿川弘之・猪直樹・中西輝政美智子皇后と雅子妃福田和也零戦と戦艦大不 一一十世紀日本の戦争 江畑謙介・兵頭一一十八・福田和也・清水政彦 塩見鮮一郎 謎の大王継体天皇水谷千秋皇太子と雅子妃の運命文藝春秋編貧民の帝都 塩見鮮一郎 昭和天皇と美智子妃加藤孖中世の貧民 謎の豪族蘇我氏水谷千秋 その危機に 塩見鮮一郎 沖浦和光江戸の貧民 謎の渡来人秦氏水谷千秋「悪所」の民俗誌 同時代も歴史である 塩見鮮一郎 坪内祐一一一戦後の貧民 半藤一利・保阪正康・中西輝政 女帝と譲位 0 古代史水谷千秋一九問題 継体天皇と朝鮮半島の謎水谷千秋 東京裁判を正しく読む日暮吉延 なぜ負けたのか戸高一成・福田和也・加藤陽子 森史朗対談昭和史発掘松本清張 四代の天皇と女性たち小田部雄次特攻とは何か 秋草鶴次幕末下級武士のリストラ戦記安藤優一郎 武光誠十七歳の硫黄島 名字と日本人 県民性の日本地図武光誠甦る海上の道・日本と琉球谷川健一父が子に教える昭和史柳田邦男羂和也・保阪正康他 梯久美子 武光誠江戸城・大奥の秘密安藤優一郎昭和の遺書 宗教の日本地図 武光誠 日本のいちばん長い夏半藤一利編「阿修羅像」の真実長部日出雄 合戦の日本地図 合戦研究会

新潮45 2018年10月号

は内閣において同輩中の首席という国務チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」で成文化さととなる。上皇と天皇の関係について遡 大臣と並列した位置付けでしかなか、った。れ。新典範第 4 条「天皇が崩じたときは、ると、文武天皇の時代に制定された我が こうした府的権力に対する警戒感は、皇嗣が、直ちに即位する」に引き継がれ国最初の本格的な律令である大宝律令で 昭和戦前期にも脈々と受け継がれ、近衛た。典範制定に主導的役割を果たした元は、上皇と天皇は同権と解されていたが、 文麿が挙国一致的な新体制樹立を目指し勲伊 ~ 文は、第川条について自ら著し実態はむしろ上白位で推移した。史上 た際にも、幕府的権力の創設は憲法違反た皇室典範で「本条ニ践祚ヲ以テ先初めて譲位したのは舒明天皇皇后の皇極 であるとの批判が巻き起こって運動は半産朋御ノ後ニ即チ行ハルゝ者ト定メタル ( 重祚して斉明 ) 天皇だったが、太上天 ば挫折し、大政翼賛会という中途平端なハ上代ノ恒典ニ因リ中古以来譲位ノ慣例皇の尊称を初めて受けたのは持統上皇で 結末を迎えた。現代においては、首相公ヲ改ムル者ナリ」と述べ、譲位は不正常あり、文武天皇の即位後も孫帝を後見し 選制の導人は立憲君主制と相容れないとな慣例であるとした上で、古代の天皇親て朝政を主導した。東大寺大仏造立で名 いう批判が同種の発想といえるだろう。政に返るためには譲位の撤廃、すなわち高い聖武上皇は娘の孝謙天皇の御代も実 、明治維新の過程での院政否定は、摂関、現在まで続く終身在位制が必要だと説い権を握り、その孝謙も淳仁天皇に譲位後 も実権を掌握したが、上皇と天皇の間で 幕府の否定にやや遅れて皇室典範で明確たのだ。 葛藤が生じると宙堂大押勝の乱を平らげて になった。制定過程においては譲位の規 上皇と天皇 淳仁を廃位に追い込み、重祚して天 定を置く案もあったが、最終的には旧皇 室典範第川条「天白缶朋スルトキハ白爾即譲位が復活すれば上皇が再登場するこ皇となって権力を響した。 飼陣原円土】 と内円己己もし現めの円 想河 - 三 0 = の国野猪筆の g 郷編 親 、ど苦てたな 8 格 天 飼る飼り・執彅囲の一の箱思た なけ◎「聴、よ復 = 5 ネ凱 の 猪え猪たウ彩猪。河ンイや特づ【療のは悩に快る 代 時 神田宏大・大石一久・小林義孝・ンが物澀文ち。 " 診瞿 = 「。鬻 し 戦国時代、大阪・河内飯盛城には咄対ボのリ【 0 写。ク内もん念編野の神病者も入を 新 じまるキリシタンの姿を、最先端田史 東い甲出 上歴ニはが「景野化冫 民文学一」こかみ実にで 戦国河内キリシクンの笹の研究結果によって検証する。 H ー H Y 0 5 H A リ国 シ河ー タ内 叶一久え - 第第れ・ を要見第試気村、 ロ ◎ 3 0 0 0 円 こ

湘南散歩境川・引地川 : 歴史・文化と自然のある風景

天縛皇神社 天縛皇神社本殿 ( H11. 5. 18 撮影 ) 鳥居の左横掲示板には天縛皇神社の由緒について次のように書かれている。 天縛皇神社 御祭神 : 伊邪那岐命天照皇大神伊邪那美命神呂岐命大山咋命 由緒沿革 : 天文元年 ( 1532 ) にして今から 450 年前の創設と伝えられ、明治 42 年 10 月 26 日宮上の地にありし足穂神社より天照皇大神・神呂岐命・大山咋命を遷宮合祀すとあり。 福生寺 この寺は、大正橋に近い町田街道の小山センター信号交差点の北側にある真言宗 ふくしようじ 智山派・施彌山慈眼院福生寺である。 この観音堂の本尊「聖観世音菩薩立像」は昭和 36 年東京都指定の重要文化財で、 これに随持している左右の像は本尊像の作風を踏襲しており昭和 62 年 11 月 13 日 に町田市有形文化財に指定されている。また、境内にある樹木「モッコク」 ( ツバ キ科 ) は町田市名木百選 ( 昭和 51 年 11 月指定 ) に選ばれている。 てんばくこう 福生寺本堂 町田市指定名木「モッコク」 ( H11. 6.8 撮影 ) 45

文藝春秋2016年7月号

学友もいるか . との質問に対して「私自身はそ は共学のため、仲のいい いながら学んでいくこととなってい の立場ではありません」と述べられ る。学習院中等科に進学した天皇陛悠仁さまはそのままエスカレーター 下には、慶応義塾塾長の小泉信三がで中学に進学されるとみられていているように、悠仁さまは明治以降 一九四六年、東宮御教育参与 ( 後にる。秋篠宮さまはかって、悠仁さまでは初めて、天皇・皇太子の長男で 東宮御教育常時参与 ) となり、『ジョの教育方針について「ある時期になはなく宮家の長男でありながら事実 ージ五世伝』や『帝室論』などを講れば自分の立場もきちんと認識しな上の皇位継承者となられたという特 義して帝王学を説いている。皇太子ければいけません」としながらも、殊事情がある。宮内庁幹部が「天皇 さまの場合も学習院に通い一般と同学校で学ぶ中で「きちんと社会生活皇后両陛下のお姿をそばでご覧にな じ教育を受けながら、著名な学者らを送れるようになってもらいたい」る機会こそが最大の帝王学」と語る から歴代天皇の事蹟などについて学と述べられた。小学生である現在ように、そうした機会も増やしてい ばれた。皇太子さまは一一〇一〇年一一は、こうした方針に基づき学ばれてく必要がある。現在も秋篠宮ご夫妻 るようだ。だが、中学生になれは、両陛下が神奈川県の葉山御用邸 月の誕生日を前に臨んだ記者会見でい 「歴代天皇のご事蹟を学ぶ中で、第ば、徐々に著名な学者らを招聘してで静養される際に悠仁さまを連れて 九十五代の花園天皇が、当時の皇太歴代天皇の事蹟などを学び、将来の行くように心掛けられている。た 子ー後の光厳天皇にあてて書き残し天皇としての自覚や品位を身に付けだ、現状はご両親に連れて行ってい た書に、まず徳を積むことの重要性られることが必要となろう。それがただいている状態であり、まだ幼い を説き、そのためには学問をしなけ皇太子さま、秋篠宮さまに次ぐ皇位悠仁さまがお一人で行かれることは ればいけないと説いておられること継承順位第三位というお立場の責務ない。 天皇陛下は一昨年、昭和天皇との でもあるからだ。 本に感銘を受けた」と語られている。 ただ、秋篠宮さまが二〇一四年十思い出などを記者に問われ、「昭和 悠仁さまは学習院ではなく、お茶 年 の水女子大学附属小学校に通われて一月の誕生日会見で「天皇のあり方天皇から学んだことは多いと思いま いる。女子大の附属校だが小中学校を悠仁さまにどのように伝えていくす。結婚前には葉山の御用邸に昭和 ( 245 )

週刊東洋経済 2017年12月31日 1月7日号

一象徴の二重構造のおそれも 特集 / 2017 年大予測 構造のようになるおそれもあり、新 天皇は一層苦労されるだろう。 それでは、国民にはどういう影響 かあるのだろうか 今上陛下がお元気な、っちに退位さ れれば昭和天皇のご闘病中のときの ような自粛の嵐はなく、おめでたい 前の天皇が存命という状態は明治御代替わりとして受け止められるだ 皇の生前退位を認めるのか、方、また国民生活にもさまざまな影 = = めないのか認める場合は響を与えることが予想される 以降の近代日本国家においては例がろう。気になるのは元号である。崩 皇室典範を改正して今後の天皇にも まず、皇太子殿下が新天皇としてない。今上陛下に対する国民の信頼御に伴う御代替わりは突然やってく る。新しい元号もそうだ。 適用されるのか、今上陛下の退位だ 即位されると同時に日本には皇太子は大きなものに見えるが、新天皇に しかし、譲位の場合、御代替わり けを認める特措法とするのか がいなくなる。皇室典範では「皇嗣とっては、相当の時間が必要だろう。 今上陛下も即位当時は昭和天皇との日は事前に決められる。問題はそ 政府は「天皇の公務の負担軽減等たる皇子を皇太子という」と規定さ に関する有識者会議」において、論れている。皇嗣とは次の天皇であ比較され、威厳がないなどと言われの段階で次の元号も明らかになるの かとうかである。たとえば 1 年前に 点の整理を行った後、年明けに報告り、皇子とは天皇の子供である。皇た。こういう批判は御代替わりには を受けて国会で論議を始める考えで太子と呼べるのはこの一一つの条件を付きものといえる。ただ、先帝が存次の元号がわかっていれば、印刷の ある。有識者会議では専門家人を満たした方ということになる。 命の場合は先帝と天皇での一一重やり直しなどは大幅に少なくなる 兀号は政令で決められるものであ 招いてヒアリングを実施したが、退 次の天皇の元号を り、これを公布するのは天皇の国事 位への賛成と反対の数は拮抗した。 現天皇が公布する しかし、この数は人選によってどう 行為である。「事前にということ になれば、次の天皇の元号を現天皇 とでもなるのでそれほど意味はな 皇太子殿下が即位されると秋篠宮 が公布することになる。法律上の問 い。ヒアリング後、有識者会議は年殿下が皇嗣となるが、天皇の弟なの 7 題はないのかもしれないが、天皇と 内に 2 回開催されたが、、イ 退立の恒久で皇太子とはならない。皇太子がい 元号の関係を考えれば疑問が残る。 5 的な制度化には慎重論が多く、今上ない例は昭和初期にもあり、実質的、寺・ かといって、新天皇の即位当日まで 陛下に限り退位を認める特措法制定には秋篠宮殿下が現在の皇太子殿下 伏せておくのは国民としては納得で の公務を引き継がれるだろうから、 を提言することになりそ、つである きないと思う。さて、政府はそこを 安倍晋三首相も特措法制定を考え大きな問題ではないかもしれない。 どう考えるのだろうか ているよ、つだが、国会での論議もす 外国との交際において皇太子がい 済 経 んなり進むとは思えず、 2017 年ないというのは国家にとっては好ま 洋 東 中は何も決められない可能性もあしくはないだろう。もっとも、これ やました・しんじ・元宮内庁職員。記者 対応の報道室などに年間勤務後、雑誌『皇週 る。ただ、ど、ついう形であれ、今上は陛下の退位がなくとも御代替わり 室手帖』編集・発行人を務める。現在は 陛下が退位されると、皇室のあり に伴って生じる問題でもある。 co ジャパン「皇室の窓」監修などに携わる。 5 8 2020 年の日本 健康とおカネ 世界政治・経済 日本政治・経済 天認 大予測 天皇生前退位 時事 ー・テクノロジー 皇室ジャーナリスト・山下晋司 天皇陛下は 2016 年 8 月に「象徴としての お務め」についてお 言葉を述べた 叶分に務めを果たせぬまま 、一わりはない , , ビ ) ンネス

シャルリとは誰か? : 人種差別と没落する西欧

有馬哲夫 徳川家が見た幕末維新德川宗英原発と原爆 山本博文 帝国陸軍の栄光と転落別宮暖朗信長の血統 日本型リーダーは 帝国海軍の勝利と滅亡別宮暖朗 半藤一利 東京、判 なぜ敗するのか 指揮官の決断 早坂隆 大岡優一郎 フランス人判事の無罪論 松井石根と南京事件の真実早坂隆児玉誉士夫巨魁の昭和史有馬哲夫 永田鉄山昭和陸車「連命の男」早坂隆伊勢神宮と天皇の謎武澤秀一 硫黄島栗林中将の最期梯久美子藤原道長の権力と欲望倉本一宏 武光誠 皇族と帝国陸海軍浅見雅男国境の日本史 学習院 浅見雅男西郷隆盛の首を発見した男大野敏明 「昭和天皇実録」の半藤一利・保阪正康 天皇はなぜ万世一系なのか本郷和人 御厨貴・磯田道史 謎を解く 謎とき平清盛 本郷和人孫子が指揮する太平洋戦争前原清隆 大人のための半藤一利・船橋洋一・出口治明 小澤富夫 戦国武将の遺言状 水野和夫・佐藤優・保阪正康他 昭和史入門 岡崎久彦・北岡伸一 評伝若泉敬 森田告彦日本人の歴史観 坂本多加雄 藤原正彦 日本人の誇り 「坂の上の雲」燗人の名言東谷暁 徹底検証 半藤一利・秦郁彦・原剛 日清・日露戦争松本健一・戸高一成 矢澤高太郎 天皇陵の謎 よみがえる昭和天皇辺見じゅん ( 2015. 10 ) A 品切の節はご容赦下さい

天皇の世紀 1

470 執筆まで 昭和四十一一 ( 一九六七 ) 年は、近代日本の夜明けを告げる明治維新から百年目にあた った。歴史を顧みつつ、未来への一歩を踏み出したいマスコミ各社は、それそれが時節 にふさわしい企画をと知恵をしぼった。「読売新聞」は身近な人物の回顧で綴る「昭和 史の天皇」の連載、「産経新聞」は日露戦争をテーマとした「坂の上の雲」の連載を司 馬遼太郎に依頼した。 「朝日新聞」は、維新と明治天皇をテーマとして、期限なしという破格の連載を立案し た。企画の検討が始まったのは一一年前の昭和四十年正月である。日本史学の泰斗、坂本 太郎が発案者で、社内に別室を設け、学芸部記者、櫛田克巳らが調査を始めた。 大切なのは執筆者である。「朝日新聞」と縁故が深く、最も多く連載ものを書いた作 家は大佛次郎だった。大正十五 ( 一九二六 ) 年、「照る日くもる日」を「大阪朝日新聞」 に寄稿したのが始まりで、昭和六年には初の現代小説「白い姉」を連載、続いて横浜を 舞台とした〈開化もの〉の作品「霧笛」を昭和八年に、以後、昭和十九年には自分の時 代小説の中では一番いいものと自負した作品「乞食大将」を、敗戦後も昭和三十六年か ら「朝日ジャーナル」にノンフィクションの傑作「パリ燃ゅ」を連載しており、『天皇 の世紀』執筆の態勢は充分にととのっていた。 全社挙げての支援と決まり、期限なし、読者を顧慮せず、という破天荒な作業が始ま った。作品の題名がなかなか決まらなかったが、明治天皇一代記と考え、資料の収集、

週刊エコノミスト 2017年2月21日号

新元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官 ( 当時 ) 倍晋三首相は 1 月幻日、号法が「一世一元」、つまり改元を皇 政府の「天皇の公務の負位継承時に限定しているからであ 担軽減等に関する有識者る。天皇の代替わりによる改元は「代 会議」の論点整理を衆参両院の正副始改元」と呼ぶ。 議長に示した。 現在の「護」は、 1979 ( 昭 天皇の退位を巡る議論はまず、与和 ) 年に制定された元号法に基づ 7 野党各党内で交わされ、その結果をいて初めて実施された改元の例であ 受けて正副議長が意見をとりまとめる。 た上で 3 月中旬ごろまでに首相に伝 同法は第 1 条の「元号は、政令で 4 論 える日程が報じられている。 定める」と、第 2 条の「元号は、皇 こうした議論の中で「 2019 年位の継承があった場合に限り改め 元日からの改元」という案が浮上し、 る」のわすか 2 条しかない。日本の 新聞やテレビ、雑誌などのメディア法律の中で最も条文の短い法律だ。 は「平成の次の元号」を巡る報道を もともと元号は、古代中国で始ま 繰り返した。 った制度だと言われている。朝鮮半 る 島や日本に伝わ 0 たが、今では中国」 や韓国、北朝鮮では使われていない。 2 条しかない元号法 日本の最初の元号は孝徳天皇時代 成た 退位と改元が関連づけられているの西暦 645 年の「大化」で、現在 を続 とと のは、兀号について定めた現在の元の「平成」まで 247 個を数える。 こ綿 る連 「よ た 、し以 新年 も 0 こ 0 9 は 5 号 2 元 はの 府本 政日 すずき ひろひと 鈴木洋仁 ( 東京大学特任助教 ) これまで同じものが用いられたこと ーオし しゅちょう はくち 大化の後に「白雉」や「鴦」の 一一つの元号があったが、孝徳天皇や 天武天皇の崩御後に元号のない空白 期間があった。その後、文武天皇時 代の 701 年の「大宝」以降は実に 1300 年以上もの間、途切れるこ となく続いている。 247 個のうち、「昭和」までの 2 46 個の元号は天皇が決めてきた。 その理由は、天皇が、時代の呼び方 を決めることにより、自らの権威や 権力を表す記号として用いたためで ある。それは徳川が支配してい ス た江戸時代にも変わらなかった。 天皇は現在、 125 代目であるの に対し、元号はその 2 倍近くある。コ このことからも分かるよ、つに、江一戸 ききん 時代以前は、飢饉や災害などを受け た「災異改元」をはじめ、吉事・吉 かっ ず . いー ) よ・つ 祥を理由とする「瑞祥改元」や、甲 ぼしんしんゅう 子や戊辰、辛酉といった陰陽五行に しんい 基づく予言のための学説「讖緯説」 で定められた年回りに改元する「革 年改元」など、さまざまな理由に基 づいて天皇の代替わり以外にも改元 が行われていた。 例えば、いわゆる「大覚寺統」 ( 南 朝 ) と「持明院統」 ( 北朝 ) に分かれ それぞれ天皇が並立した南北朝時代 の後醍醐天皇は、幻年間の在位期間 に疫病や地震、争乱、革年などによ