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検索対象: 枢密院議長の日記

枢密院議長の日記から 10000件見つかりました。
1. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

39 ーーー「満州国第一回重要会議」軍閥の代表など 6 人が集められた。 47 「王道楽土大満州国」の碑山海関角山 「日満議定書」の調印 40 弊国は今後の国防及治安維持に関し之を貴国に委 満洲国皇帝は天意即ち天皇の大御心に基き帝位に 即きたるものにして皇道聯邦の中心たる天皇に仕へ ね其の所要経費は孰れも弊国にて之を負担す 天皇の大御心を以て心とすることを在位の条件となす 弊国は貴国軍隊が凡そ国防上必要とするときは既 ものなり , 永久に天皇の下にて満洲国民の中心と 設の鉄道 , 港湾 , 水路 , 航空路等の管理竝新路の敷設 なり建国の理想を顕現する為設けられたる機関なり は孰れも之を貴国若は貴国指定の機関に委ぬることを ( 其状宛も月が太陽の光に依りて光輝を発するに似た 承認す り ) 従って万一皇帝にして建国の理想に反し天皇の 弊国は貴国軍隊が必要と認むる各種施設に対し極 大御心を以て心とせざるに至るが如き場合にては天 カ之を援助す 四弊国参議府は貴国国人中達職名望ある者を選び参 意により即時其地位を失ふべきものなると共に他面民 ぜんじようはうばつまた 議に任ず其の他中央及地方の各官署の官吏も亦貴国人 意による禅譲放伐も亦許されざるものとす を任用すべし其の人物の選定は之を貴軍司令官の推薦 満洲国が日本と不可分の独立国なる真義上述の如し , 従って満洲国の宗主権は実質上皇道聯邦の中心たる日 に委ね其の解職も亦貴軍司令官と協議の上其の同意を 得べきものとす・・・ 本天皇に在り皇帝は皇道聯邦内にける一独立国家 大同元年三月十日 の主権者たるべく , 関東軍司令官は天皇の御名代とし 溥儀花押 て皇帝の師傅たり後見者たるべきものなり 大日本帝国関東軍司令官本庄繁殿 「満洲国の根本理念と協和会の本質」 ( 昭和 11 年 9 月 18 日関東軍司令部調製 ) = 「現代史資料 「日満議定書」中の秘密文書 = 「現代史資料 7 」 11 」 ( みすず書房 , 1 % 5 年 ) ( みすず書房 , 1 4 年 ) * 満州国皇帝はあくまでも「天皇に仕」 * 国防を日本に委ね , その経費を負担す える存在であることを明確にいいきっ ることをはじめ , 「満州国」が完全に日 ている。 本に従属することををする溥儀の手紙 25

2. 日本会議の研究

として自民党から 1974 年の参院選挙に初出馬するも落選した直後ということもあり、 生長の家を代表して「日本を守る会」の事務局の中心メンバーとして活動していた。「日 本を守る会」のデビュー戦として村上正邦がプロデュースしたのが、「昭和天皇在位年 奉祝行列ーだ。この提灯行列は明治神宮の潤沢な資金や各種宗教団体の動員力をベースに 成功裏に終わる。しかし村上正邦は、肝心の元号法制定運動の手応えを感じることができ ないままでいた。そこで、彼が目をつけたのが、「全国学協」の O CQ 組織として 19 7 年に結成された「日本青年協議会」だ ( 魚住〕 119 ー 120 ) 。 前述のように、「全国学協ーの前身は長崎大学で左翼学生のバリケードを解除し「学園 正常化ーを勝ち取った「生長の家」学生信徒グループだ。その延長で結成された全国学協 も組織の「日本青年協議会」も、「生長の家」信者がその大半を占めている。生長の 家の信者として「日本を守る会」の事務を取り仕切る村上正邦にとっては、同じ宗教の信 者同士。なによりも、日本青年協議会を率いる人々は、長崎大学正常化運動を勝ち抜いた 闘士であり、民族派学生運動のヒーロー。長年学生運動の現場で左翼学生運動と対峙し、 左翼の運動手法も組織の動かし方も熟知している。これほどの適任者はいないだろう。

3. 日本会議の研究

・年前の「生長の家」機関誌にあった「伊藤哲夫」の名前 『理想世界』昭和年 ( 1976 年 ) Ⅱ月号 ( 次頁写真 ) に、伊藤はいた。この号に掲載 された、「天皇陛下御在位五十年と青年会運動〈トップ鼎談〉ーという記事 ( 森田・安東・ 伊藤 1976 ) に、確かに「伊藤哲夫、の名前があった。 鼎談の相手は、生長の家青年会の会長・森田征史と副会長・安東巖。当時の伊藤哲夫の 肩書きは、「中央教育宣伝部長ーだったらしい。ご丁寧にもこの記事には、若かりし頃の 伊藤哲夫の写真まで掲載されている。 やはり、伊藤哲夫は、『生長の家』の関係者だったのだ。関係者どころか、生長の家青 年会の「中央教育宣伝部長ーという歴とした幹部だ。だからこそ、生長の家青年会の森田 征史会長や安東巖副会長と並んで「トップ鼎談」という企画に出ているのだろう。 に出された「生長の家」の機関誌全てーーっまり最低でも 8 万ページをめくり、 伊藤哲夫の名前を探す調査を行った。 そしてついに、伊藤哲夫が「生長の家」に残した足跡に辿り着いた。 198

4. 日本会議の研究

日本政策研究センターが何を主張し、どのような活動を積み重ねてきたのかについては、 同センターの機関誌『明日への選択』年 5 月号で、代表の伊藤哲夫本人が「この 二十年、われらは何を主張してきたか」という小論を発表し丁寧な解説を加えている。 この小論の中で、伊藤は、「とりわけ『国家の精神的基礎』ということに焦点をあてた そこから政策提言を、というのがその頃のわれわれが描いた当面の目標であ 研究を一丁い、 った」と、 1984 年に「日本政策研究センターが設立された当時の目標を振り返って いる。そしてこの目標のもと、伊藤および同センターは、「いすれ訪れるであろう『昭和 最後の日』」とそれに伴い必然的に発生する皇位継承のあり方に問題意識を持つようにな ったのだという。「 ( 皇位継承を ) 伝統の神道的儀式そのままに維持できるかどうかは、ま さにこの日本国家の基本的なありように関わる本質的な問題」であるとの認識のもと、大 嘗祭問題や憲法改正問題に正面から取り組むようになったと、伊藤は昭和と平成のはざま 人で行った自分たちの運動を回顧している。 その後、「ポスト冷戦という『混沌』の中で」、伊藤や日本政策研究センターの主張は 「文化の問題、歴史認識の問題ーに軸足を置いたものになっていく。「への参加、歴 第史認識、ポスト冷戦論、コメ開放、アメリカニズムへの対峙などの論陣ーを張ったもの 177

5. 日本会議の研究

・美しい伝統の国柄を明日の日本へ 2 ・新しい時代にふさわしい新憲法を 3 ・国の名誉と国民の命を守る政治を 4 ・日本の感性をはぐくむ教育の創造を 5 ・国の安全を高め世界への平和貢献を 6 ・共生共栄の心でむすぶ世界との友好を の 6 つであるという。これら 6 項目にはそれぞれ美辞麗句がちりばめられた説明文がっ いている。その内容には立ち入らないものの、説明文を読めば、 「皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが ( 1 ) 、昭和憲法がその阻害要因 何 となっているため改憲したうえで昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張 議を抑え ( 2 ) 、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し ( 3 ) 、国家の名 会 本誉を担う人材を育成する教育を実施し ( 4 ) 、国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海 外活動を行い ( 5 ) 、もって各国との共存共栄をはかる«o)- 章 と、要約することができよう。 第

6. 日本の右翼と左翼がわかる本

本の功績は大きい 松本は家業の土建業経営と部落解放運動に携わって生涯を過ごすが、運動の過程で 2 回投獄 される。軍隊内の部落差別に抗議した鮖 ( 大正巧 ) 年の「福岡連隊事件と、差別の原因をつく ったのは徳川幕府だとして水平社が徳川侯爵家に爵位の返上を迫った囲 ( 昭和 3 ) 年の「徳川事 件」においてである。その間の様々な出来事は伝記をひも解いてもらうとして、ここでは松本 が主役になった「カニの横ばい拒否事件」をとりあげる。一般の教科書には載っていないが、国 会を揺るがした大事件である。 天皇への拝謁を拒否 と戦後の ( 昭和召年、松本治一郎は日本社会党の参議院議員となり、初代の参議院副議長に なった。事件があったのは ( 昭和幻 ) 年の第二国会開会式である。国会の開会式には天皇が臨 びんでん の席する。その際、「便殿」という天皇専用の豪華な控えの間で、衆参両議院の正副議長が天皇に 翼拝謁することにな「ていた。その時、拝謁する人間は、天皇に顔を向けたまま横向きに退出す ることが習慣化していた。天皇に尻を見せるのは失礼であるとしてつくられた慣習だった。 章 天皇が人間宣言をし、主権在民の新憲法の下でこのような慣習に縛られる理由はないとして、 五 第松本治一郎は拝謁を拒否した。これが「カニの横ばい拒否事件」である。 243

7. 日本会議の研究

・元号法制化連動が全ての始まりだった 特に注目すべきは、この年表の冒頭付近、昭和年 ( 1977 年 ) 前後から始まる「元 号法制化運動」に関する記述の多さだ。 の占領政策の一環として、明治・大正・昭和という元号に法的根拠を与えていた 皇室典範が改正されたのは 1947 年のこと。改正直後には元号制に関する白熱した議論 が国会で展開されたものの、独立を回復する過程でこの問題はすっかり人々に忘れ去られ てしまっていた。自民党でさえも元号制の維持については積極的ではなく、政府も 196 1 年には元号制に法的根拠がないことを国会答弁で明確に認めた。 実に年の長きにわたることになる。 この年間に「日本を守る会」「日本を守る国民会議」そして「日本会議」が展開した さまざまな活動は、日本会議サイトの「国民運動の歩み、 ( 前頁下写真 ) コーナー に年表方式でまとめられている。この表を見ればいかに彼らの運動が多岐にわたりかっ執 拗なものか一目暸然だろう。

8. 週刊エコノミスト 2017年2月14日号

凸政走 うすぐ浦歳になる。物心つい た時分から成人を迎えた後 も、私にとって「天皇陛下」と一言え ば ( 常に昭和天皇だった。新聞記者 になったのも昭和礙年。だが、護 が四年目に入った今、「天皇陛下」と は当然のことながら現陛下だ。 時の経過とともに意識が変わって いったのだろう。天皇陛下の退位問 題が国政の重要テ 1 マになった中、 「日本人の天皇観」を考える機会が増 えている。 1991 年 7 月川日、天皇、皇后 両陛下は長崎県を訪問された。雲仙・ 普賢岳の火砕流で多数の犠牲者が出 てから約 1 カ月後。両陛下は島原市 など 7 カ所の避難所や仮設住宅を訪 れた。 避難所で陛下はネクタイを外し、 シャツの袖をまくり上げ、体龕の 床に膝をつきながら被災者を激励し て回る。当時歳。この訪問は「住 民が丕女を募らせている時だからこ そ現地に入りたい」という陛下の強 い意向で実現した。 長崎の人たちが成厳したのは言っ までもなかったが、新聞やテレビを 通じ、多くの国民が「皇室の変化」 を感じ取った。『毎日新胆は陛下の こうした姿を「護流の原点」と位 置づけ、昨年Ⅱ月下旬の連載記事で 紹介した。 ただ、この変化は一部に微妙な反 も ヒアリング」では、退位反対派が独 」」第応をもたらす。保守派から「あそこ 部 まで陛下にしていただいていいもの特の天皇観を披歴した。 治 点像。 なのか」「皇室の権威の失墜につなが「天皇家は、続くことと、祈るとい るのではないか」「天皇は国民の人気う役割に大切な意味がある。それ以 原皇 毎 を集める必要はない」といった反発上のいろいろなことを天皇の役割と の天。 流省内部にも「正座して国民と同じ目線立派に仕事をされてるが、それを で話す陛下」を疑問視する見方があ天皇の役割の規範と考えて、それが った。 肉体的、精神的にできない時には退 平ヒ石 位するとなると、かえって悪いこと 「イ になる。少しお休みいただいても、 それで天皇のとしての意味が薄 カ′ 当時を知る宮内庁関係者は「保守れるよ、つなことはない」 ( 平川祐弘・ も派や宮内庁職員が抱いた違和感は来只大釜〕教授 ) 『それぞれが考える天皇像からかけ「天皇陛下は、い つもその姿を見せト 並日と離れたお姿に起因してる』などとて活躍することが天皇の仕事とス 解釈されたのだが、もともと日本人して重要だと考えておられる。しか 山イ 一人一人が『普遍的な天皇像』を持し、本当はそうする必要はないといコ っているわけではないと思う。違和うことを、脇にいる方が申し上げてエ 時 感を持った人たちの心の中にあったしかるべきだった。昔から天皇の第 のは『昭和天皇像』だったのではな 一の仕事は、国のため、国民のため いか」と語る。 に祈ることだ。外へ出よ、つが、出ま この関係者によると、宮内臠の いか、一向に構わない。熱、いに国民 違和感が消えるのに数年を要したとの前に姿を見せよ、つとする陛下の厚 いう。私にとっての「天皇陛下」が意はありがたいが、そうまでしなく 昭和天皇から現陛下になったのも、ても天皇陛下としての任務を怠るこ その時期に重なるのかもしれない。 とにはならない」 ( 渡部昇一・上智大 天皇陛下の退位問題を議論してい釜員教授 ) る安倍晋三首相の私的諮問機関「天「天皇は何をしなくても、いてくだ 皇の公務の負担軽減等に関する有識さるだけでありがたいということを 者会議」でも「天皇像」が取り上げ強調したい。その余のことを天皇で 4 られた。有識者会議が昨年Ⅱ月 7 、あるための要件とする必要性も理由 Ⅱ、日に分けて実施した「専門家も本来はない。今の陛下は自分に非 保守派に残る「昭和

9. 日本会議の研究

参考資料 大原康男 2008 「現代日本の国家と宗教」展転社 宗教法人生長の家編 1985 「生長の火をかざして永遠の谷口雅春先生」 神社新報社編 2006 「検証神社本庁六十年先人の足跡ー「神社新報」の紙面から一」 神社新報社 神社本庁研修所編 2006 「神社本庁史稿 ( 平成十八年ニ月増補 ) 」 ( 初刊、 1976 年 ) 神社本庁研修所 鈴木邦男 2012 「増補失敗の愛国心」イーストプレス 生長の家本部編 1959 「生長の家三十年史」日本教文社 同 1969 「生長の家四十年史」日本教文社 同 1980 「生長の家五十年史」日本教文社 田中伸尚 2002 「靖国の戦後史」岩波書店 谷口雅春 1938 「神道篇日本國の世界的使命」「生命の實相 光明思想普及會 449-730 同 1940 「無門關の日本的解釋」光明思想普及會 同 1941 「天皇絶対論とその影響」光明思想普及會 同 1953 「限りなく日本を愛す」日本教文社 同 1983 「大和の国日本」日本教文社 信の卷 ( 事變版 ) 」 玉置和郎記録集編纂委員会 1988 「政党政治家玉置和郎」学習研究社 俵義文 2008 「くつくる会 > 分裂と歴史偽造の深層ー正念場の歴史教科書問題」花 伝社 西尾幹ニ・平田文昭 2009 「保守の怒り」草思社 日本青年協議会編 2011 「グラフー日本青年協議会 40 年の歩み日本の誇り復活 への志」日本青年協議会・日本協議会 ( 非売品 ) 肥野仁彦 1979 「神と仏と自民党」徳間書店 マックファーランド、 N,H 1969 「神々のラッシュアワー」 ( 内藤豊・杉本武之訳 ) 社会思想社 (Horace Neill McFarland, The rush hour of the gods: a study of new religious movements in Japan, Macmillan, 1967 ) 特記資料 猪野健治 1973 「日本の右翼その系譜と展望」日新報道出版部 塚田穂高 2015 「宗教と政治の転轍点ー保守合同と政教一致の宗教社会学一」花伝 社 同 2016 「日本会議と宗教」渡邊直樹責任編集「宗教と現代がわかる本 2016 」 平凡社 144-149 日隈威徳 1985 「宗教と共産主義」新日本出版社 堀幸雄 2001 「増補戦後の右翼勢力」 ( 初刊、 1983 年 ) 勁草書房 302

10. 教科書が教えない日本史の名場面

「航空部隊だけの総攻撃なるや」 かもん と下問し、それに対して及川大将は、 「海軍の全兵力を使用致します」 ほ、つ A 」、つ かもんにしきみはた と奉答したと伝えられる。この後、神大佐はこのおりの昭和天皇の下問を錦の御旗として利 用し、反対者を説得して、水上特攻作戦を実現させたというのである。 ゅ、つーり・よ ところで、昭和天皇は戦局の推移に極めて深い憂慮を抱いていた。 ガダルカナル島を巡る攻防戦のおりも、次のような感想を述べている。 「わが陸海軍は、あまりに米軍を軽んじたためソロモンでは戦況不利となり、尊い犠牲を出し たことは気の毒である」 だいげんすい 昭和天皇は大元帥として戦局を冷静に読み、正しく判断していたことが知れよう。 及川総長に「航空部隊だけの総攻撃なるや」と下問したのは、「残存した艦艇は使用しない で成功がおほっくのか」、あるいは「残存艦艇は使用できないのか」という純粋に戦術に対す る疑問を口にしたものであったろう。 もっとも、このような会話が本当におこなわれたかどうかも、確実な資料では明らかにされ たて 特ていない。が、神大佐が昭和天皇の発言を盾に、反対派を説得したのは間違いなさそうだ。 こうして、「大和」は沖縄へと出撃していった。 しかし、その動きは出港直後から、アメリカの潜水艦によって察知されていた。案の定、沖 349