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検索対象: 選択 2016年 10月号

選択 2016年 10月号から 10000件見つかりました。
1. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

どういう顔つきで辞令書を受けたのでしようかねえ。自叙伝におけるこのときの呼称は、まだ 「天皇」と呼び捨てですが、それからさらに一五年経って文化功労者として顕彰されるにおよび、 初めて「天皇陛下」という敬称を用います。試みにちょっと年表にしてみましようか。 昭和年翕歳〉川月『戦争の放棄』を書く。天皇は民主主義の根本理念に反する、と記す。 昭和年〈芻歳〉川月『天皇制』を書く。あらゆる理屈を舞わして″天皇制〃を徹底的に弾劾 、と主張する。 し、天皇制を維持する理由はない 昭和肪年歳〉川月最高裁判所長官。自伝には「天皇による任命」と記す。 昭和れ年〈間歳〉Ⅱ月勲一等旭日大綬章。自伝には「天皇陛下からーと記す。 男 昭和団年〈四歳〉Ⅱ月文化功労者、自伝には「天皇陛下から」と記す。 し 蹂昭和年歳〉Ⅱ月旭日桐花大綬章。自伝には「天皇陛下から , と記す。 神昭和浦年〈新歳〉Ⅱ月文化勲章。自伝には「天皇陛下の前で」と記す。 の昭和年〈歳〉 5 月国際科学技術財団理事長。自伝に「皇太子殿下と妃殿下のご臨席を願う」 と記す。 め の 達 " 横田喜三郎記念室〃に展示すべきもの 栄 このようにあざやかな豹変を演じるわけですが、二冊合計一〇〇七頁におよぶ厖大な自伝のど 章 第こを探しても、自分がかって論陣をはった″天皇制批判〃を撤回するとか一部修正するとか、そ ばうだい 151

2. 波 2016年 10 月号 [雑誌]

『昭和天皇御召列車全記録』 全貌か明らかになった 昭和天皇 御召列車全記録 「天皇の旅路」 『昭和天皇実録』は鉄道情報の宝庫だった ! ? 数千点にのばる鉄道資料と突き合わせて あぶり出した仰天の昭和天皇鉄道乗車記録 監修者原武史氏と保阪正康氏が 異色の「皇室本」について語り合った。 呆阪正康 ( ノンフィ = ン作家 ) 原武史放送大学教授 ) 『昭和天皇実録』からスピンオフ 日本鉄道旅行地図帳編集部 ( 以下編集 部 ) この本は一昨年公開された『昭和 天皇実録』 ( 以下『実録』 ) をもとに、昭 和天皇の皇孫時代から崩御前年まで、鉄 道に乗車した記録を抜き出し、鉄道の資 料と突き合わせて、年表にまとめたもの です。原さんには時代解説と監修をお願 いしました。 保阪まあよく作りましたね。年表見て、 感心するやら、呆れるやら : ・ : ・ ( 笑 ) 。 泊まった旅館まで実によく調べています ね。これは全部『実録』に書いてあった ものですか ? 編集部基本は『実録』の本文です。 保阪この種の本は初めてでしようね ? 編集部御召列車をテ 1 マにした本はこ れまでも数は多くはありませんが、出て います。ただ乗車記録を網羅的にまとめ た本はありません。これは『実録』が公 開されて初めて可能になりました。 保阪ということは、『大正天皇実録』 や『明治天皇紀』などから記録を抜き出 すのも可能ということですか。 原やろうと思えばできますね。

3. 選択 2016年 10月号

( 現天皇 ) への譲位と高松宮の摂政の記者会見 む」を読み上げた。 就任を密議したり、芦田均首相がで、生涯で 昭和一一十年の終戦の御前会議で る 一時真剣に退位を検討。講和・独最も影響を はポッダム宣一一 = 曻又諾の「聖断」を れ さ と 立回復の際には元内大臣木戸幸一受けた人物 下す際に「武装解除・戦争犯罪人 れ も退位を勧めるなどの動きがやまは誰かとい の差し出しはん難きも、国家と なかった。典範規定など何の防波う質問に 撮国民の幸福のためには、三国干渉 堤にもならなかったのである。 「皇室の中 時の明治天皇の御決断に倣い、決 からあげる た皇 しかし昭和天皇はマッカーサー 心した」 ( 『昭和天皇実 ) と述べ し天 監治 一兀帥との約東などをタテに在位しことかでき た。また昭和一一十一年の年頭詔書 統明 続けた。天皇の真意は今もって判るとすれば、 年 ( 「人間宣一巨 ) では冒頭に「五箇条 一一最晩 然としないが、本人が昭和四十一一一祖父明治天 の御誓文ーを付け加んさせた。 年四月一一十四日に稲田周一侍従長皇をあげます。私は常に祖父の行の意図は確実に成果を挙げ、昭和 そして退位問題についても、明 に語った記録が、徳川義寛元侍従いを心に留めています」と答えて天皇の姿勢に多大の影響をもたら治天皇の「朕は辞職する能はず」 長の日記に添付されているのを見いる。 ( 高橋紘『陛下、お尋ね申した。そのことは昭和天皇がこのを想起していたことが稲田の拝聴 つけた。 し上げます』 ) 後、昭和十亠ハ年九月六日と同一一十記録にあった。 「明治天皇御紀編纂に携わってい 実際、昭和天皇は歴史の関頭に年八月十四日の一一度の御前会議、 しかしながら、もし仮に、この た三上参次から聞いたことである立たされた時には必ず明治天皇のそして翌一一十一年一月一日の人間明治天皇の一言が伊藤に対する皮 が、明治天皇は、大臣が辞職する事績に言及している。『昭和天皇宣言等、幾度かの重要な政治的局肉の意味を帯びていたとすれば、 のとは違って、天皇は記紀に書か実壓編纂にあたった宮内庁書陵面で明治天皇の事績にちなんだ決三上が進講の際に明治天皇の「聖 れている神勅を打しなければな部の研究官は、その背景に『明治断・発一一一一口をしていることからもい徳」を称揚せんとして勢い余って 深読みして講じ、昭和天皇がこれ らないから退位できないと仰せら天皇紀』編纂にあたった歴史工名えるのである。」 ( 明治聖徳記念学 よすが れたとのことである。明治天皇の三上参次による大正十三年から昭会紀要所収、高橋勝浩『三上参次を便にしたのではないかとの疑い 思召は尤もであると思う」「わた和七年に至る進講の影響の大きさの進講と昭和天皇』 ) が、筆者の胸中に頭をもたげるの しの任務は祖先から受け継いだ此を指摘している 言っまでもないが、昭和十六年である。高橋勝浩の論文によると の国を子孫に伝えることである」 「 ( 進講は ) 明治天皇の聖徳を再び九月亠ハ日は、対米英蘭開戦方針を夥しい回数行われた一一一上の進講は 「わたしは明治天皇の思召に鑑み、認識させるとともに、立憲君主と含む「帝国国策遂行要領」を決め毎回感動的なものだったが、同席 苦難にんて義務を果たす方が国してのあり方を再確認させることた御前会議。明治天皇の御製「よした側近らの日記に一部記されて 家にを尽すことになると思う」であったといえよう。それは、まもの海みなはらからと思ふ世いるだけで、今となっては詳細は 昭和天皇は昭和五十年九月六日さしく帝王学の一環であった。そになど波風のたちさわぐらよくわからないという。 ( 敬称略 ) 89 皇室の風 2016.10 選択

4. シャルリとは誰か? : 人種差別と没落する西欧

旗本夫人が見た 深沢秋男 中嶋繁雄 大名の日本地図 江戸のたそがれ 新◆日本の歴史 伊藤之雄 秦郁彦元老西園寺公望 旧制高校物語 春 文 伊藤之雄 高島俊男山県有朋 高橋紘天下之記者 皇位継承 半藤一利・秦郁彦・平間洋一・保阪正康 寺尾紗穂昭和陸海軍の失敗 云日島芳子 平成の天皇と皇室高橋紘評イ , 黒野耐・戸高一成・戸部良一・福田和也 半藤一利 ・ノートを書いた男須藤眞志伊勢詣と江戸の旅金森敦子昭和の名将と愚将 保阪正康 原武史 古墳とヤマト政権白石太一郎対論昭和天皇 昭和一一十年の「文藝春秋」賰新 保阪正康 坂本多加雄・秦郁彦 日本文明行の鍵梅棹忠夫編著昭和天皇の履歴書文春新書編集部編 昭和史の論点半藤一利・保阪正康 ロ半藤一利・秦郁彦・前間孝則・鎌田伸一・戸高一成 阿川弘之・猪直樹・中西輝政美智子皇后と雅子妃福田和也零戦と戦艦大不 一一十世紀日本の戦争 江畑謙介・兵頭一一十八・福田和也・清水政彦 塩見鮮一郎 謎の大王継体天皇水谷千秋皇太子と雅子妃の運命文藝春秋編貧民の帝都 塩見鮮一郎 昭和天皇と美智子妃加藤孖中世の貧民 謎の豪族蘇我氏水谷千秋 その危機に 塩見鮮一郎 沖浦和光江戸の貧民 謎の渡来人秦氏水谷千秋「悪所」の民俗誌 同時代も歴史である 塩見鮮一郎 坪内祐一一一戦後の貧民 半藤一利・保阪正康・中西輝政 女帝と譲位 0 古代史水谷千秋一九問題 継体天皇と朝鮮半島の謎水谷千秋 東京裁判を正しく読む日暮吉延 なぜ負けたのか戸高一成・福田和也・加藤陽子 森史朗対談昭和史発掘松本清張 四代の天皇と女性たち小田部雄次特攻とは何か 秋草鶴次幕末下級武士のリストラ戦記安藤優一郎 武光誠十七歳の硫黄島 名字と日本人 県民性の日本地図武光誠甦る海上の道・日本と琉球谷川健一父が子に教える昭和史柳田邦男羂和也・保阪正康他 梯久美子 武光誠江戸城・大奥の秘密安藤優一郎昭和の遺書 宗教の日本地図 武光誠 日本のいちばん長い夏半藤一利編「阿修羅像」の真実長部日出雄 合戦の日本地図 合戦研究会

5. 正論 2016年 9月号

のです。 バラオ・ペリリュー島で供花された天皇、皇后両じめとして、若者でもなかなか行 陛下 平成年 4 月 9 日 今日の問題に返りますと、もし けないような所にまで皇后陛下と 皇室典範を論じるのならば、もっ ご一緒に赴かれ、戦没者を弔われ とも重視しなければならないこと ています。今の憲法に象徴として は、これまで男系で続いてきた万 規定されている「天皇」がそうな 世一系の皇統を守ることだという 」】ッされたことで、戦没者の遺族、戦 ことです。今の天皇陛下が大変、 、鬢。争の経験者はもちろん、多くの国 休息を欲してらっしやるとい、つこ 民がどんなに癒やされたか、計り とが明らかなのであれば、すみや 知れない。両陛下の真心といいま かに摂政を設ければいい。 皇太子 しようか、それにはただただ頭が 殿下が摂政になられても、皇統は 下がるばかりでございます。 不変なのですから、皇室典範改正 敗戦という厳しい状況にあって の必要はありません。 も、昭和天皇は、日本国憲法のも 皇太子殿下も、もうすでに五十 とで皇位を伝えてくださった。そ 六歳になられています。摂政にな して昭和という時代を続けてくだ さった。今上陛下は、それを懸命 られてもまったくおかしくないごなせ慰霊の旅をなさるか 年齢です。聖徳太子は現代で言え に受け継がれてきました。昭和天 ば、十九歳で摂政に就いていま天皇陛下のご業績を振り返る皇のお志を受け継がれているから す。今回のことは皇室典範改正を時、私はまず、戦没者の慰霊を続こそ、昭和天皇ができなかった慰 議論するような問題ではないのでけられてきたことが真っ先に頭に霊の旅をなさっているのではないな はないでしようか 思い浮かびます。老齢になられてでしようか。陛下はご年齢を重ね悠 からもパラオのペリリュ 1 島をはれば重ねるほどますます、昭和天 ト

6. 月刊 新聞ダイジェスト 2015年10月号

ビ放送などに使われてき 「昭和天皇実録」によ 御文庫付属室 た音声はこの際に複製さ ると、昭和天皇は戦後 9 る「聖断」の場御文庫付属室も内 れた音源を基に複製され 壁や床朽ち散在年た。蓊年 2 月に付属 たものとみられている。 室を撤去できるかどうか 戦後間年に当たり、宮内庁は 1 日、昭和天皇がラジオを通 の 放送に使われなかった御文庫付属室は戦後このため木製の壁や床が側近に尋ねたことがあ じて国民に終戦を伝えた「玉音放送」などの録音原盤と音声 1 度目の録音原盤 7 枚も年の 1965 年以来、朽ち果て、はがれた木材る。しかし、取り壊しに 放。つを初めて公開した。これまで出回 0 ている音声より鮮明で、 宮内庁が戦後管理してい年ぶりの公開。付属室はが散在している。金属製経費がかかりすぎるため 立日 息重大な発表に臨む昭和天皇の息づかいも感じられる。同庁は たが、年 5 月から吹上御苑・地主山の森林の扉はサビがひどく、トそのままになった。 玉 昭和天皇が終戦の「聖断」を下した皇居内の地下施設・御文 総合放送文化研究所にに埋もれたような状態にイレなどのタイルは剥落山本次長によると、天 戦声 庫 ( おぶんこ ) 付属室の写真や映像も公表し、いずれも同庁 貸し出し、現在は z ある。川ト , 爆弾にも耐えしている。照明も壊れて皇陛下は付属室内に入ら 終音 ホームページに掲載する。 れたことがあり、皇太子 放送博物館で展示・保管る鉄筋コンクリート造りおり、中は真っ暗。 されている。こちらは傷であるため、戦後間年を戦後年の 1965 年さまと秋篠宮さまも今年 初公開されたのは「堪え、緊張感のある収録当物として保管してきた。みが激しく再生不可能と経た現在でも構造物としの公開時にはすでに天井 7 月中旬に見学されたと へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ時の雰囲気が伝わってく年 7 月には ( 連 いう。 ての強さは建設当時とほに水滴がたまり、羽目板いう。同次長は「歴史的に ば変わっていない。 忍ヒ」という内容で知らる。今年 6 月には天皇、合国軍総司令部 ) に一時 は湿気で膨れあがってい意義ある資産なので、基 ( 日経 8 ・ 1 ) れ、 1945 年 8 月日皇后両陛下や皇太子さ貸し出されており、テレ 宮内庁の山本信一郎次た。出入り口にかかった本的には手を加えず管理 にラジオ放送された玉音ま、秋篠宮さまも音声を 長によると、気温度ほカーテンにはびっしりとしていく」と話している。 昭和天畠第 2 の玉音放送 放送のレコード原盤 5 枚聞かれたという。 どの時期でも付属室内は青カビが生えている状態 ( 日経 8 ・ 1 ) 5 度くらいでひんやだった。 と、翌年 5 月に放送さ玉音盤は終戦前日の菊食糧不足に際し録日 れた「食糧問題の重要性年 8 月日深夜、宮内省 りとしており、湿気が高 ポ か争るを いという。長年にわたり ーカ ら戦め諾 に関する昭和天皇の御言内廷庁舎 ( 現宮内庁庁舎 ) 昭和天皇の「 2 度目のったためだ。同年 5 月貶 相て求受 葉」のレコード原盤 1 枚。で録音された。御政務室玉音放送」となった 19 日には東京都世田谷区民雨水や泥などが内部に流 6 枚は 1 つのレコード缶に置かれたマイクの前で 46 年 5 月日の食糧問の「米よこせ区民大会」入し、換気をしていない 和す元改賛宣 た議 は 12 ム 昭下が れ会 に収められ、宮内庁が厳昭和天皇が終戦の詔書を題についてのラジオ放送参加者の一部が宮内省にため内部は結露が発生。 皇者ダ 重に管理してきた。 読み上げ、隣室で日本放は、これまで録音記録が押し寄せ、食堂の調理室 天席ッ 行公前楸く 宮内庁は昨年月、専送協会の技術職員が録音 ないとされていた。メデを見て回る出来事があ 0 が当時の不敬罪に問われで午か断和聞和出ポ 室席・ 開聖昭を昭、 門家の協力を得て玉音盤機を操作した。録音は 2 ィアで紹介されることもた。 、見、しれ る事件があった。不満が属出日 > が「 付皇 2 前議のれ意れ下か を再生し、約 4 分秒の度行われ、翌日の放送になかったため一般にはほまた、同月日に開か天皇に向けられていた。 庫天月催午会諾 > かる > かを > 開 音声をデジタル録音しは 2 度目の方が使われとんど忘れられている。れた飯米獲得人民大会天皇は同月日に国民文和 6 開・導受後開す前開前が た。音声には経年劣化なた。 天皇が終戦時に続いて ( 食糧メーデー ) で、国民向けの「お言葉」を録音。御昭咩議日指言午が関午が聖午 どによるパチパチという 2 度目の録音原盤は 2 マイクの前に立ったのは飢えているのに天皇は日は正午、午後 7 時、同 和院月戦ム日会局日会の日院 昭密 8 高ダ間臣時前結密承 音が含まれる一方、昭和枚組と 3 枚組の計 5 枚あは、戦時から続いていた十分な食事を取っている 9 時の 3 回放送された。 < 枢く最ッ < 重ら < 御終く枢了 天皇の声がはっきり聞こり、宮内庁が皇室の所蔵食糧不足が深刻な状況だという意味のプラカード 戦後 R 年

7. 昭和天皇(下)

チを併用することによって、昭和天皇の行動の特徴、その背後にある彼の思想や思考様式、さらには性癖に至るまで を、実に生き生きとえがき出すことに、本書は成功しているといえよう。 もう一つは、ビックスが、昭和天皇のある意味では矛盾にみちた意識のありようを、特定の理論的枠組みによって 裁断してしまうことを、慎重に回避しようとしていることである。この点に関しては、従来の日本側の研究には、私 自身のそれも含めて、昭和天皇の意識や行動の一貫性を強調しすぎる嫌いがあったように思う。戦後の日本社会にお いて、昭和天皇の歴史的評価について何らかの形で発言しようとする人は、戦争責任の有無という問題を避けて通る ことはできず、昭和天皇に対するその人の態度がどうであれ、ある意味では、戦争責任という枠組みの下でしか、昭 和天皇を論じることができなかったからである。 外国人研究者であるビックスは、こうした枠組みから相対的には自由であり、そのことによって、時には状況に流 されながら、不安にかられて妥協をくり返し、時には、「大元帥」としての自負に支えられながら軍部に対してさえ 主体的なリーダーシップを発揮し、その結果、戦争への道に傾斜していった昭和天皇の等身大の実像を過不足なく、 えがき出すことができたのだと思う。 本書の第二の特徴は、日米両国政府の政治的思惑が交錯する中で、昭和天皇の戦争責任が封印されてゆく過程を、 日米両国の厖大な史料に基づきながら、具体的に解明した点にある。アジア・太平洋戦争の終結直後から、昭和天皇 の免責に関しては、日米両国政府は共通の政治的利害を有していたのであり、その結果、東京裁判にみられるよう に、両者は水面下では連携しながら、天皇の戦争責任の免責に大きな力を注いだのである。 最近、ビックスは、天皇の戦争責任を追及する際の基本概念として、「アカウンタビリティ」を意識して使用して いるようだが ( 本書上巻三〇七ページの「著者ノート」参照 ) 、当然の事ながら、この概念は、アメリカの国家指導者にも き 適用可能である。事実、本書でも、ビックスの批判は、昭和天皇の免責に加担したアメリカの国家指導者にも向けら あ れている。その意味では、本書は、日本的システムの欠陥や、日本の国家指導者の政治的資質だけを外在的に批判あ 者 監るいは非難する、いわゆる「日本たたき」の論者の著作とは、明らかに異なっている。

8. 昭和天皇(下)

(E) 土門周平、前掲『戦う天皇』一三ページ。 間 ) 前掲『昭和天皇独白録』六九ページ。 ) James W. Morley, ed. , David A. Titus, trans. , 7 ぎ 0 ( ) 近衛の辞表については、前掲『近衛文麿下』三九五ー三九 senso e 0 きミ . E ミ g 雰、 ~ S ミ e ミ ~ ・ 0 ラ . ・ 77 ミ 3 、ミ、 C ミ 4 洋 0 ミミぎド・ 六ページを参照。 を、ミ戔 s Nego 二ミミ s ミ ~ ミ ~ 、一ミ U ミざ S 、ミ , 7947 (C01umbia ( た ) 保阪正康「昭和陸軍の興亡第六回昭和天皇と東条英機」 University Press, 1994 ) , P. 176. 『月刊 Asahi 』 ( 一九九一年二月号 ) 一六三ページ。 ) 岩井忠熊『明治天皇「大帝」伝説』三省堂、一九九七年、一 ) 前掲『木戸幸一日記下』九一八ページ。 五〇ー一五一ページ。 ) 前掲『高松宮日記第三巻』三〇七ページ。 3 ) 前掲『杉山メモ上』三三一ページ。 ) 前掲『昭和天皇の十五年戦争』一一一六ページ。富田健治『敗 戦日本の内側近衛公の思い出』 ( 古今書院、一九六二年 ) から ( 簡 ) 纐纈厚、前掲『日本海軍の終戦工作』七四ー七五ページ。 ) 前掲『木戸幸一日記下」九〇九ページ。近衛の自殺後に巣の引用。 ) 前掲『昭和天皇独白録』六七ページ。 鴨拘置所で書かれた木戸の日記では、一九四一年九月二六日の近 ( 衛との会談を次のように説明している。「陸軍が十月十五日を期 ( ) 保科善四郎『大東亜戦争秘史ー失われた和平工作』原書房、 一九七五年、四三ページ。海軍兵備局長で真珠湾攻撃作戦の起案 し是が非でも戦争開始と云ふことであれば自分には自信がないか ら進退を考ふるより外ない」と近衛が述べたのに対し、木戸は者のひとりである保科中将は一一月一日、一七時間におよぶ連絡 そのまま 「九月六日の御前会議を決定したのは君ではないか、あれを其儘会議に出席し、ノートをとっていた。 にして止めると云ふことは無責任だ」と言った。前掲『木戸幸一 ( 爲 ) 同前四三ページ。 ( 四 ) 田中伸尚『ドキュメント昭和天皇第一巻』二七〇ー二七一 関係文書』三〇ページ。 7 ) 前掲『木戸幸一日記下』九一四ページ。田中伸尚『ドキュ ) 前掲『杉山メモ上』三八七ページ。 メント昭和天皇第一巻』一四一ー一四二ページ。 8 ) 前掲『杉山メモ上』三四八ー三四九ページ。この前日、近 ( ) 同前。昭和天皇は「ヒットラーの教皇」、反セム主義のピウ ス一二世について一言及している。 べ衛内閣最後の閣議が行われ、天皇は木戸に「昨今の情況にては日 米交渉の成立は漸次望み薄くなりたる様に思わるる処、万一開戦 ( ) 「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」には次のようなも のが含まれていた。ここで紹介するのは、最後の二項であり、そ となるが如き場合には、今度は宣戦の詔勅を発することとなるべ 章 れは天皇の要請で挿入されることとなった。 し」と話していた。前掲『木戸幸一日記下』九一四ページ。 第 2 ) 小田部雄次「反米英だった近衛首相『独断者』松岡像の修正 注 75 74 73 77 76 81 80 も」『信濃毎日新聞』一九九五年六月五日付。 291

9. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

式典と祝宴に、皇太子殿下と妃殿下のご臨席を願うことであった」 ( 『余生の余生』爲頁 ) ので、そ ほんそう るる の苦心談が縷々と述べられます。そのため、いろいろ奔走しながら「日本国際賞のために、皇太 子殿下と妃殿下のご臨席を願うことはまことに重要なことであり : せひとも実現したいと思っ た」 ( 『余生の余生』爲頁 ) とひたすら念じます。苦心の甲斐あって「幸いに皇太子殿下と妃殿下の ご臨席をいただくことになった。式典でご祝辞を頂き、祝宴でご挨拶を頂いた。日本国際賞にと って、まことに高い栄誉であり、国際科学技術財団にとって、大きな光栄であるー ( 『余生の余生』 頁 ) と、満悦至極に自祝します。 さらに昭和五十二年勲一等旭日大綬章を受けました。「一一月三日に、皇居で、天皇陛下から 直接に授与された。勲記には、〈日本国天皇は、勲一等横田喜三郎に旭日桐花大綬章を授与する。 昭和五十二年四月二十九日、皇居においてみずから名を署し、璽をおさせる〉とあり、〈裕仁〉 と自署され、〈大日本国璽〉という朱印がおしてあるー ( 『余生の余生』頁 ) という具合でした。 最後に昭和五十六年文化勲章を受けます。 「文化勲章の授与は、一一月三日に、皇居で行われた。天皇陛下の前で、総理大臣から、勲記と 勲章を受けた。勲記には、〈日本国天皇は勲一等横田喜三郎に文化勲章を授与する。昭和五十六 年十一月三日皇居において璽をおさせる〉とあり、大日本国璽という朱印がおしてある」。そし て「あくる日の一一月四日に、天皇陛下から〈お茶の会〉に招かれ、皇居へ行った」。その日は 「天皇陛下、東宮、常陸宮が列席され、文化勲章受章者と文化功労者がそれそれ四、五分ずつお 話をするのであった」 ( 『余生の余生』頁 ) とのことでした。 148

10. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

これが、一部の反日的日本人をのそく通常の日本国民の国民感情なのです。横田喜三郎にとっ て万世一系はケシカラン、私たち通常の日本人にとっては喜ばしい。この決定的な対立をどうし ましようか 自己批判なき晩年の〃転向〃 これほどまでに彼の謂う「天皇制」をケチョンケチョンに扱き下ろした横田喜三郎は、昭和三 十五年十月最高裁判所長官に指名され「天皇による正式の任命は、二五日の午後五時に行われ た。池田 ( 勇人 ) 首相が侍立し、天皇が辞令書のことばをそのまま述べられた。辞令書を手渡さ れた」 ( 『私の一生』頁 ) ということになります。昭和五十年十一月四日、文化功労者として顕 男 彰。「その日の午後、天皇陛下〈注・ここではじめて「陛下」という敬称が用いられます〉からお茶に招か し 蹂れ、皇居へ行った。はじめに、「お話の会」があった。天皇陛下、東宮、三笠宮が出席され、文 神化功労者がそれそれ三分間ばかりお話しした」 ( 『私の一生』頁 ) という運びとなります。 精 の 記述の順にしたがいますと、時日はさかのぼって昭和四十一年十一月、勲一等旭日大綬章。 法 「勲記には、〈日本国天皇は、勲三等横田喜三郎を勲一等に叙し、旭日大綬章を授与する。昭和四 め こくじ 十一年十一月三日、皇居においてみずから名を署し、璽をおさせる〉とあり、〈大日本国璽〉と の 達 いう朱印がおしてある。勲章は天皇陛下から皇居で直接に与えられ、勲記は内閣総理大臣佐藤栄 章作から渡された」 ( 『私の一生』頁ー頁 ) という次第となります。 第ついで「国際科学技術財団の理事長として、もっとも心にかけたことは、日本国際賞の授与の 147