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邪馬台国論争


目 次 邪 馬 台 国 論 争

邪馬台国論争


邪 馬 台 国 論 争 講 談 社 選 書 メ チ ェ 一 岡 本 健 一

邪馬台国論争


序 章 青 龍 三 年 鏡 の 出 現 第 一 章 『 魏 志 倭 人 伝 』 の 世 界 邪 馬 台 国 論 争 の 意 義 論 争 の 時 代 区 分 ろ も う 一 つ の 倭 国 ・ 4 『 倭 人 伝 』 を 読 む は じ め に ー ー 人 卑 弥 呼 の 迷 宮 ー 邪 馬 台 国 〉 へ ) 2 4 ) 33 28 2

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① 臺 か 壹 か 古 田 の 衝 撃 的 主 張 『 魏 志 倭 人 伝 』 に は 肝 心 の 「 邪 馬 台 国 」 が 、 「 邪 馬 壹 国 」 と 書 か れ て い る 。 ま た 、 卑 弥 呼 が 魏 に 使 を 送 っ た 年 が 「 景 初 一 一 年 ー と な っ て い る 。 古 田 武 彦 は 「 原 文 を み だ り に 改 定 す べ ぎ で な い 」 と し て 、 ず れ も 『 魏 志 倭 人 伝 』 の 本 文 ど お り 「 邪 馬 壹 国 ー 「 景 初 二 年 」 で あ る べ き だ 、 と 主 張 し た 。 こ の 二 大 キ ー ワ ー ド を も と に 、 壮 大 な 古 代 史 像 を つ く り あ げ た 。 先 に 記 し た が 、 「 邪 馬 臺 国 ー を 自 明 の 前 提 と す る 従 前 の 邪 馬 台 国 論 が 、 い わ ば 「 ユ ー ク リ ッ ド 幾 何 学 」 と す る と 、 こ れ を 否 定 し て 「 邪 馬 壹 国 」 を 主 張 し 公 理 と す る 非 邪 馬 台 国 論 を よ 、 「 非 ュ ー ク リ ッ ド 幾 何 学 」 に も 譬 え ら れ よ う 。 佐 伯 有 清 が 「 戦 後 の 邪 馬 台 国 研 究 の 第 四 期 に お け る も っ と も 衝 撃 的 な 論 文 は 、 古 田 武 彦 氏 の 『 邪 馬 壹 国 』 で あ っ た 」 ( 『 邪 馬 台 国 基 本 論 文 集 Ⅲ 』 一 九 八 一 I) と 評 す る よ う に 、 ア カ デ ミ ズ ム の 歴 史 家 を 震 撼 さ せ 、 多 く の 同 調 者 を 生 ん だ 。 古 田 の い う 「 原 文 改 定 、 を 真 0 先 に し た の は 、 「 畿 内 説 」 の 鼻 祖 ・ 内 藤 湖 南 だ が 、 も と よ り 、 的 ( み ・ に 改 定 し た の で は な い 。 本 文 校 訂 の う え 、 『 後 漢 書 』 に 「 邪 馬 臺 国 」 と あ る こ と 、 『 日 本 書 紀 』 神 功 紀 い く つ か の 争 占 124

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つ づ い て 、 古 代 史 家 の 佐 伯 有 清 が は じ め て 「 邪 馬 台 国 論 争 史 」 の 専 著 を ま と め た 。 『 研 究 史 ・ 邪 馬 台 国 』 と 『 研 究 史 ・ 戦 後 の 邪 馬 台 国 』 ( 一 九 七 一 I) で あ ゑ こ こ で も 、 江 戸 時 代 の 本 居 宣 長 ・ 新 井 白 石 に は じ ま り 、 戦 後 の 現 在 に い た る ま で の 研 究 史 を 、 五 期 に 時 期 区 分 し て 、 丹 念 に 跡 づ け て い る 。 さ ら に 、 佐 伯 は 、 学 史 を 飾 る 重 要 論 文 の 集 成 を す す め 、 『 邪 馬 台 国 基 本 論 文 集 』 全 三 巻 ( 一 九 八 一 ー 一 D に 九 十 篇 を 収 め た 。 佐 伯 の こ の 研 究 史 二 冊 と 基 本 論 文 集 三 冊 、 三 品 の 『 邪 馬 台 国 研 究 総 覧 』 、 さ ら に 、 三 木 太 郎 の 『 邪 馬 台 国 基 本 事 典 』 全 六 巻 ( 未 完 ) に よ っ て 、 よ う や く 邪 馬 台 国 研 究 に つ い て も 、 西 洋 古 典 学 研 究 な み の 基 礎 条 件 と ツ ー ル が 整 っ た と い え る 。 武 光 誠 ( 明 治 学 院 大 学 助 教 授 ) が 指 摘 す る と お り 、 「 佐 伯 氏 の 著 書 が 無 け れ ば 、 今 日 の よ う に 気 楽 に 考 古 学 者 や 東 洋 史 家 が 邪 馬 台 国 論 争 に 加 わ る こ と も な か っ た ろ う 」 。 邪 馬 台 国 研 究 へ の 門 戸 が 開 か れ 、 規 制 が 緩 和 さ れ た 結 果 、 百 家 争 鳴 の に ぎ わ い を み せ る よ う に な っ た 。 そ の 反 面 、 潮 が 引 い た よ う に 、 文 献 史 家 が 邪 馬 台 国 問 題 か ら 遠 ざ か っ た の は 、 さ び し い 。 、 ま や 、 考 古 学 者 と 在 野 の 史 家 の 独 壇 場 の 観 を 呈 し て い る 。 さ て 、 三 品 と 鬼 頭 ら の 時 期 区 分 い ら い 、 早 く も 四 半 世 紀 。 そ の 間 、 「 邪 馬 台 国 が み つ か っ た 」 と 喧 伝 さ れ た 吉 野 ケ 里 遺 跡 の 出 現 と 、 あ い つ ぐ 「 卑 弥 呼 の 鏡 」 の 発 見 で 、 論 争 も 新 段 階 を 迎 え た 。 あ ら た 世 め て 、 そ の 後 の 時 期 区 分 が 必 要 に な っ た 。 伝 三 品 の い う 第 五 期 ー ー い わ ゆ る 「 商 品 化 期 ー の 延 長 期 と み て 、 こ れ を 前 後 二 期 に 分 け る な ら 、 一 九 倭 志 七 七 年 ま で の 前 半 期 は 、 「 数 理 歴 史 学 進 展 期 」 と 名 づ け ら れ よ う か 。 一 九 七 八 年 の 「 稲 荷 山 鉄 剣 銘 ー

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し よ う き で 「 御 覧 魏 志 』 ( 『 太 平 御 覧 』 所 引 『 魏 志 』 、 十 世 紀 ) が あ り 「 》 , 通 行 の 紹 熙 本 『 魏 志 』 ( 十 一 一 世 紀 ) が つ づ ぎ よ ら ん く 。 さ ら に 、 尸 は 、 ち ゃ ん た だ し 、 事 が 事 だ け に 、 こ の テ キ ス ト の 系 統 ・ 順 序 に つ い て は 、 と 「 邪 馬 臺 国 ー に な っ て い る 。 異 論 が あ る 。 ロ 熙 ( 一 一 九 〇 ー 九 四 ー 六 二 年 刊 今 日 伝 わ る テ キ ス ト は 、 宋 代 に 印 行 さ れ オ 紹 興 ( 一 年 刊 ) が あ る 。 こ こ で は 、 と も に 「 邪 馬 臺 国 ー を 「 邪 〔 壹 と し て い る 。 し か し 、 内 藤 湖 南 ら が 近 代 の 邪 馬 台 国 論 争 の 火 ぶ た を 切 っ て い ら い 湖 南 は 論 文 「 卑 弥 呼 考 ー の 冒 頭 で 、 詳 細 な テ キ ス ト ク リ テ ィ ー ク ( 原 典 批 判 と 校 訂 ) を お こ な っ た 、 『 後 漢 書 』 倭 伝 を は じ め 『 梁 書 』 『 北 史 』 『 隋 書 』 ま で 「 鴉 を ) ( 耶 馬 臺 国 ) 」 と あ る の に 従 0 て 、 「 邪 馬 壹 国 」 は 「 邪 馬 臺 国 。 ( つ ま り 「 邪 馬 台 国 」 ) の 誤 写 と さ れ 、 疑 う 人 は ほ と ん ど な か っ た 。 こ れ に は じ め て 異 論 を は さ ん だ の か 橋 川 時 雄 ( 「 邪 馬 ・ 壹 ー 臺 の よ み か た 」 一 九 六 〇 年 ) で あ り 、 根 本 的 な 批 判 を 展 開 し た の が 古 田 武 彦 ( 「 邪 馬 壹 国 ー 一 九 六 九 年 ) で あ る 。 と く に 、 古 田 は 「 邪 馬 壹 国 」 を 公 理 と し て 、 そ の 後 、 い わ ゆ る 邪 馬 壹 国 論 か ら 九 州 王 朝 論 、 東 北 王 朝 論 ま で 多 元 的 な 列 島 史 観 を 構 想 し 、 膨 大 な 著 作 を 著 し た 。 ュ ー ク リ ッ ド 幾 何 学 と 非 ュ ー ク リ ッ ド 幾 何 学 の 対 照 に な そ ら え れ ば 、 古 田 の 「 邪 馬 壹 」 古 代 学 は 、 通 説 的 ・ 伝 統 的 な 「 邪 馬 臺 ー 古 代 学 に 対 し て 、 「 非 邪 馬 臺 ー 古 代 学 と も い え よ う か 。 発 表 と と も に 、 多 く の 古 代 史 家 を 動 揺 さ せ 、 「 邪 馬 壹 国 ー に 傾 斜 し た 人 も 少 な く な い 。 古 田 の 問 題 提 起 を き っ か け に 、 『 魏 志 』 の テ キ ス ト 研 究 が 進 み 、 短 里 か 長 里 か を め ぐ っ て 精 緻 な 論 争 が 巻 き 起 こ っ た 。

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邪 馬 台 国 論 争 の 意 義 ど こ に あ っ た か 邪 馬 台 国 問 題 の 核 心 は 、 江 戸 時 代 い ら い 、 邪 馬 台 国 が 畿 内 大 和 に あ っ た か 、 そ れ と も 北 部 九 州 に あ し ゅ う れ ん た か 、 い わ ゆ る 「 所 在 地 」 論 に 収 斂 し て き た 。 じ っ さ い 、 「 邪 馬 台 国 問 題 は 、 所 在 地 論 に 始 ま っ て 、 所 在 地 論 に 終 わ る ー と い っ て も 、 過 言 で は な い だ ろ う 。 昭 和 四 十 年 代 は じ め ま で の 邪 馬 台 国 研 究 史 を み し な あ き ひ で 総 括 し た 三 品 彰 英 は 、 こ う 道 破 し て い る 。 邪 馬 台 の 位 置 比 定 の 研 究 は 、 魏 志 倭 人 伝 の 根 本 問 題 で あ り 、 爾 余 の 研 究 諸 項 目 は 直 接 ・ 間 接 に こ の 問 題 を 中 心 と し て 、 あ る い は そ こ か ら 派 生 し た も の が ほ と ん ど で あ る ( 『 邪 馬 台 国 研 究 総 覧 』 一 九 七 〇 年 ) 。 し か し 、 な か に は 「 位 置 論 よ り も 、 倭 国 や 邪 馬 台 国 の 構 造 の 究 明 の 方 が 重 要 だ 」 と 主 張 す る 人 も 少 な く な い 。 た と え ば 、 三 品 の 『 研 究 総 覧 』 が 出 た 直 後 の 一 九 七 〇 年 七 月 に お こ な わ れ た シ ン ポ ジ ウ ム な お き こ う じ ろ う 「 日 本 国 家 の 形 成 ー で 、 司 会 ・ 報 告 者 の 直 木 孝 次 郎 は 、 「 現 在 ( 一 九 七 〇 年 当 時 ) の 研 究 動 向 ー を 要 約 し て こ う 発 言 し た 。 じ よ 8 2

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第 五 章 土 器 と 墓 が 語 る 邪 馬 台 国

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る か ら 、 伊 都 国 か ら 発 進 し て 舟 と 、 陸 を 行 く こ と 一 カ 月 と い う 読 み 方 を す べ き だ と い う 見 解 も あ る 。 女 王 の 都 で 七 万 戸 余 り あ る 。 邪 馬 台 国 を め ぐ る 議 論 の な か で 、 邪 馬 台 国 の 国 名 を ど う 読 む か と い う 論 争 が あ る 。 古 田 や ま い っ こ く 武 彦 氏 は 、 邪 馬 台 国 は 誤 り で 、 正 し く は 邪 馬 壹 国 で あ る と 主 張 さ れ て い る 。 一 番 古 い 版 本 で は 邪 馬 壹 国 と な っ て い る の だ か ら 邪 馬 壹 国 が 正 し い と い う 主 張 で あ る 。 し か し ほ と ん ど の 文 献 学 者 や 東 洋 史 学 者 に よ れ ば 、 ほ か の 中 国 の 文 献 と 比 較 検 討 し た 結 果 、 邪 馬 壹 国 は 書 き 誤 り で あ っ て 、 邪 馬 臺 ( 台 ) 国 が 正 し い と い う の が 一 致 し た 見 解 で 、 こ ち ら が 定 説 に な っ て い る 。 「 魏 志 倭 人 伝 」 の 二 千 字 足 ら ず の 文 章 の な か で 、 邪 馬 台 国 と 出 て く る の は 、 こ こ 一 カ 所 だ け で 、 あ と は 倭 国 と な っ て い る 。 南 に 行 く と 邪 馬 台 国 が あ り 、 邪 馬 台 国 は 女 王 が 都 す る と こ ろ で あ る 。 そ し て 邪 馬 台 国 に は 七 万 余 戸 が あ っ た と 書 か れ て い る 。 し か し 筆 者 は 、 朝 鮮 史 を 専 門 に し て い る 学 者 か ら は 、 「 大 塚 さ ん 、 『 韓 伝 』 を 見 な さ い 。 馬 韓 な ん か の 賑 や か な 港 町 で 五 千 戸 だ よ 。 そ れ が 投 馬 国 で 五 万 余 戸 、 邪 馬 台 国 に 至 っ て は 七 万 余 戸 。 大 き す ぎ ま せ ん か 。 こ の ま ま の 戸 数 を 信 じ る わ け に は い か な い よ ね 。 朝 鮮 半 島 に か か わ る 文 献 を 見 て 、 近 似 性 を 見 た ほ う が い い 」 と い う 忠 告 を 受 け て い る 。 に ぎ 4 ろ 第 二 章 「 魏 志 倭 人 伝 」 を 読 む

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⑨ 「 二 つ の 邪 馬 台 国 」 説 ー ー 喜 田 貞 吉 、 大 和 岩 雄 法 隆 寺 再 建 論 で 知 ら れ た 喜 田 貞 吉 に よ る と 、 陳 寿 は 、 魏 と 直 接 交 渉 し た 九 州 の 邪 馬 台 国 ( 海 人 族 ) と 、 伝 聞 で 知 っ た 畿 内 の 大 和 朝 廷 ( 朝 鮮 渡 来 の 天 孫 族 ) を 混 同 し て い る 。 「 水 行 陸 行 」 の 記 事 も 、 畿 内 の 大 和 に 至 る 道 程 ー ー 、 ・ 北 九 州 よ り 出 雲 ・ 敦 賀 ・ 大 和 へ の 道 程 ー ー を 記 し た も の と 解 す れ ば よ い 。 『 後 漢 書 』 の 范 曄 も ま た 、 九 州 に あ る 卑 弥 呼 の 邪 馬 台 国 と 、 九 州 ま で 支 配 す る 大 和 朝 廷 を 混 同 し て 、 「 そ の 大 倭 王 ( 天 皇 ) は 邪 馬 台 国 に 居 る ー と 誤 解 し た 、 と い う ( 「 漢 籍 に 見 え た る 倭 人 記 事 の 解 釈 」 一 九 一 七 ) 。 だ い わ お お わ 大 和 は 、 大 和 書 房 の 創 業 者 で 古 代 史 の 研 究 書 を 続 々 と 著 し て い る が 、 『 邪 馬 台 国 は 二 カ 所 あ っ た 邪 馬 台 国 か ら 初 期 ヤ マ ト 王 権 へ 』 ( 一 九 九 〇 ) で 、 い う 。 邪 馬 台 国 ( 倭 国 ) は 、 倭 国 大 乱 の あ と に 卑 弥 呼 を 「 共 立 ー し て で き た 「 連 合 政 体 」 で 、 北 部 九 州 か ら 畿 内 ま で を 含 み 、 卑 弥 呼 の い た 女 王 国 は 九 州 に あ っ た 。 台 与 の 時 代 ( 二 五 〇 年 代 初 頭 ) に 遷 都 し て 、 邪 馬 台 国 へ 移 っ た 。 武 力 制 圧 を と も な う 「 東 遷 ( 東 征 ) 」 で は な い 。 陳 寿 が 見 た 原 史 料 で は 、 女 王 国 ま で の 行 程 は 日 数 で 示 し 、 畿 内 の 邪 馬 台 国 へ の 行 程 は 日 数 で 示 し て あ っ た が 、 陳 寿 は 女 王 国 Ⅱ 邪 馬 台 国 と 混 同 し た た め 、 「 距 離 に 混 乱 が お き 、 邪 馬 台 国 の 所 在 に つ い て 、 決 着 が っ か な い 論 争 が 、 は て し な く つ づ い て い る の で あ る 」 と 。 主 と し て 九 州 説 に 立 つ 人 び と の 、 苦 心 の 解 読 に 、 敬 意 を 表 す べ き だ ろ う 。 そ れ で は 、 畿 内 大 和 説 は 、 『 魏 志 倭 人 伝 』 の 解 読 競 争 に 敗 れ た の だ ろ う か 。 卑 弥 呼 の 迷 宮 10 7