新潮 2016年07月号

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天は別れ際に 「立川です」 「じゃあまあ元気で」 立川さんだった。 といい 「二十四歳、俳優志望です」 船が動き出した。いやまだ動いていない。 「手紙書くわ」 「返事ちょうだいよ」 次の日の朝、ひとつも揺れずに港に着いた。荷物をまとめ 「元気でね」 て川島さんが乗って来ていた車、川島さんは車で来ていた、 と握手をしてきた。天の目に涙が浮かんでいた。何だかと てもひどいことをしているような気がしてきた。 に乗って下船し港を出ると、あたりの何もかもが薄汚くて驚 いた。春とはいえまだ冬のように寒いから緑はまだ一切な 「ばいばい」 く、とけた雪は泥とまじり、走る車のどれもがその泥水をか 天が歩いて行くその先に駅がある。呼び止めるべきだ。呼 ぶっているから汚れて茶色い。 び止めてもうしばらく一緒にいるべきだ。だいたい天とはま 車の中ではほとんど寝ていた。船の中でもほとんど寝てい だ何もしていない。何もというのはセックスとかそういうこ た。川島さんは何度も車を停めて地図を見た。その都度ハザ とだ。それは、何というか、大変に、何というか、心残り ードの音で目がさめた。目がさめるたびに見ていた夢を思い だ。心残りな気が、する。歩いて行く天の向こうからへッド 出そうとするのだけど思い出せなかった。次こそはと思いな ホンをはめた黒人の男が歩いて来た。男はものすごく大き がらまた寝て夢を見て車が停まって目がさめて見ていた夢を い。赤いシャツに緑のズボンをはいてガムをかんでいた。リ 思い出そうとするが思い出せなかった。夢を見ていた感触だ ズムをとっているのかひらひらと動かしている手のひらがい やに白い。男と目があった。男が笑った。歯が真っ白だ。駅けが残った。 音楽が聞こえてきた。カーステレオから聞こえていた。か にもう天はいなかった。何度か電話をかけようとした。だけ どかけなかった。かけるべきだった。どうしてかけなかった らだを起こすと車は山の中を走っていた。対向車もうしろか のか。かけてもっとちゃんと話すべきだった。ちゃんと何ら来る車もいない。川島さんはこれまでと様子が違った。は しゃいでいるようにも見えるが肩のあたりが険しい。二人に を。話すことは話した。そうじゃない内容じゃない。なら 何かあったのかもしれない。車の走る先の上に青い看板が見せ 何。それがわからなくてかけなかった。 えた。耳でしか聞いたことのなかった土地の名前が書かれてし 「こんばんは」 いた。その土地に、目的地はある。目的地にはその土地の名 ぼくと川島さんの前に満面の笑みの若い男が立っていた。

がついていた。目的地に近づいていたのだ。かかっていた曲 る人はたくさんのテレビドラマや映画の脚本を書いていたか に聞き覚えがあった。どこかで聞いたことのある曲だ。何か ら、二人が話題にしていたそのドラマは見てなかったけど、 の曲だ。何の曲だっけ。 いくつか見てはいた。見てはいたけどそのときのぼくはそれ 「知らないの幻」 がその【先生】の作品だとは知らない。二人は黙ってしまっ 二人がとても驚いた声を出した。川島さんが車を道の脇に た。大きなトラックが後ろから来て通過した。窓の外の道の よせてキュッと停めた。からだが前へつんのめった。日 , 島さ脇に冬の間中雪の下になっていたのだろう枯れた草が濡れて んは怒っているように見えた。怒っていた。 倒れていた。山にはまだたくさん雪があった。両側には木し 「それ、行ってからいわない方がいいね」 かない。再び車は走り出した。川が見えた。どこも護岸工事 月島さんがいった。 のされていない小さな川だ。鮭はいるだろうか。車はどんど 「知らないってことをね」 ん山の中へ人って行った。少し窓をあけた。空気が冷たい。 「【先生】の代表作だからね」 鹿だ。鹿がいた。鹿は真っ黒の目でこちらを見ていた。オス 強い調子ではなかったけど、立川さんがいった。かかって で大きな角が頭に二本ついていた。見えなくなるまでそれを いたのはあるテレビドラマのテーマ曲だった。ドラマのタイ見ていた。見えなくなる直前、鹿はくるりと後ろへ歩いて行 トルは聞けば知っていた。母が見ていたのはおぼえていた。 った。二人には話していない。 これから行く場所を立ち上げた人が、【先生】が、そのドラ 小さな集落を通り過ぎ、両側に広い畑を見ながらしばらく マの脚本を書いていたのだとそのとき知った。信じられない 行くと、校舎がひとっしかない小学校が見えて来た。それを という顔を二人はした。 右に川島さんが車を停めた。小学校をのどんっきにして細 「ほんとに ? 」 い砂利道が左にあった。目的地はこの先にあるらしい。 川島さんがいった。なら何を見て応募したのだ、と立川さ 川島さんが車を砂利道へ人れた。とたんにゴッゴッと音が んがいった。 し始めた。右に民家が見えた。左はこちらに向かって下って 「新聞。の募集記事」 くる傾斜した広い畑だった。空は曇って白かった。車が右に そうじゃなくて、と立川さんはいった。 大きく曲がりゆるやかな坂を下りはじめた。右の下に家が見 「そうじゃなくて、先生の何を見て、応募しようと思った えた。左に山が、続けて右側からもせまり、木が、その枝 が、車に覆いかぶさって来るように思えた。枝のひとつが窓 を叩いた。ト / さな川、さっきの川とは別のものだ、いや同じ 何を。何も見てない。いや見てはいた。【先生】と呼ばれ

ものかもしれない、にかかる小さな橋を渡るとひらけた谷底儀をした。 に出た。着いた。ここだ。【谷】だ。【谷】に着いた。川島さ んがエンジンを止めた。 稽古場と呼ばれる大きな丸太小屋の中にぼくたちはいた。 男の人は藤田さんといい、俳優志望でここのリーダーだっ 大の鳴き声が何箇所かから聞こえていた。それはあきらか た。とても良い声をしていた。稽古場には大きな薪ストープ に激しくこちらに向かって吠えているのが大の姿は見えない があって火がついていた。一階と二階があって、一階は広々 のにわかった。建物が四つ見えた。手前には野球のホームペ としていて、真ん中あたりに小さな段差があった。壁には大 ースを逆さにしたような屋根の、壁のすべてが板張りで茶色きな鏡が何枚も貼られていた。二階には二つ部屋があって、 い、窓枠の白い建物、管理棟と呼ばれているのだと後に知 一階の奥にも小部屋があり、小さな流しがついていて、テー る、と、そこから離れたところに三つの、建てられつらある プルと背もたれのない椅子が三つ置かれていた。ビデオテー ものも含めて三つの、丸太小屋が見えた。地面はどこもかし プの並んだ棚もあった。そこで藤田さんに出されたクリーム こもひどくぬかるんでいて人間の姿はなかった。ここにはこ シチューとご飯を食べた。その日の【谷】の昼ごはんの残り こで一年間暮らしている一期生がいるはずだった。しばらく だ。クリームシチューには人参しか人っていなかった。 三人で車の中にいた。川島さんがたばこに火をつけた。【谷】 「食べ終わったらまずは宿舎に行きます」 には相変わらず吠え続ける大の鳴き声だけが響いていた。 と藤田さんがいった。 人があらわれた。男の人だった。男の人は泥だらけの赤い この【谷】にはまだぼくたち新人り、二期生、の住む場所 ャッケを着ていた。サングラスをかけているから顔はわから がないことは来る前に聞いていた。しばらくは農家の空き家 ない。ひげをはやしているのはわかった。手に何か大きな棒に住むことは聞いていた。空き家は、車に乗って小学校の前 のようなものを持っていた。ただの棒じゃなかった。先が鉤まで戻り、来たのとは逆へ二分ほど走った、右へカープする 爪のようになっている。武器かもしれない。男の人はゆっく 道の左の脇にあった。玄関を上がると六人ほどは座れそうな りと車へ近づいて来ようとしたけど下が泥だらけだからなか テープルの置かれた台所があり、右に二つの部屋が見えた。 なか車の近くまで来れない。それでも一歩ずつ泥に足を突っ玄関の左の脇に小さな部屋がもう一つあった。便所は汲み取 込み、泥から足を抜いてを繰り返し、手の届く、棒はじゅう り式で外だ。電話も風呂もない。電話は【谷】にはある。風せ ぶんに届く、距離に来て、そして、棒の先についた鉤爪で車呂は【谷】にもないから【谷】の理事が経営する木材工場のし の窓を叩き割る、のではなく気をつけをしてぼくたちにお辞従業員用の風呂を三日に一度みんなで借りに行く。奥の部屋