長谷川伸全集〈第10巻〉

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った次郎長は惣七を此上なく可愛がったが、跡目は次郎長二階建ての家で、そこで小さいお茶の店をやっていた。こ 三人目の妻の連れ子八谷清太郎が受けついだ。惣七が七十れは、山口宏「海道一の大甘党』 ( 『食通』二号 ) にある。 を越えてからの話に、次郎長の父三右衛門は大酒呑みだっ た、次郎長も飲んだが、売出しのころ酒で不覚をとってか 森陳明翁の最期 らピタリとやめ、手打ちとか祝儀のときは味淋をちょっぴ り舐めて真赤になっていた。大の甘党となり、袂にはいっ 古本店三土社ノ古本目録ノ裏ヲ見タルニ、次ノ如キモ も飴を入れ、子供たちにやって歩いたし、自分もロへ入れ ノ活字印刷サレヰタリ、洋紙ヲ二折シ和綴本ニスル筈 ていた。だから子供たちは次郎長を見ると、往米に通せん ばをして飴をくれといい、次郎長はまたにこにこして飴を ノモノガ反古トナリシモノラシ。昭和二四年七月ノ目 やっていた ( その子供の一人が後の清水市長となった山田勝四郎 録ナリ 東京深川区白河町霊岸寺内旧桑名藩主松平子爵家墓側 である ) 。彼は黒砂糖のかたまりはかじる、甘納豆を頬張 森陳明翁写真説明 る、汁粉は大好きといった具合だった。だから惣七は次郎 森陳明翁の死に就かるるや、旧桑名藩は東京に於ける藩 長の命日には汁粉をつくって供えていた。 なんびと 次郎長はイカサマ賽の扱いがうまく、何人にもみやぶら主の菩提寺たる深川霊岸寺の寺中長専院に之を葬られたり れたことがなかったという。 しが、明治の末に於て同院墓地改葬の事有るに会し、其の 彼の第一の女房は旅先で死んだお蝶、第二の女房は清水遺族は之を霊岸寺内に移葬したり、然るに大正十二年九月 で浪人に白昼殺され、第三の女房は跡目の母、後の二人に一日の大震に由り、東京下町の諸寺院は悉く罹災したるを お蝶と名のらせたところに、はじめの女房への思慕の深さ以て、共墓地整理の善後方策として監督官庁は、一定の規 がおもわれる。次郎長は生涯、この三人の女しか知らなか定を作り之が処置を為さしめたり、該規定は従来の如く一 霊一碑の建設を許さず、毎家一墓と為すの制なり、是に由 りて森翁の墓も亦翁が子孫数氏の墓と倶に、再び改葬合併 次郎長は増川の仙右衛門の父の敵をうち、石松の敵をも うった、又、大政・小政・鬼吉等々おもだった子分の死水以て長専院内の新墓所に復帰すべく余儀なくせらるに至ら をとった。 んとせりとい、つ 浅井惣七が老人になってからいたのは、清水の本魚町の爰に旧藩主松平子爵家の霊岸寺内塋域に就ても亦前述の ざい

規定令下に処置せらるることになりたれば、則ち別に史蹟〔 ( 著者註 ) 次なるは楽陳明の和歌なるべし、反古紙にある はわすかに次のもののみ〕 として指定せられたる楽翁公の墓域に奉斎することとなり 日に幾度となく雨風雪にかはりける空をみておも たる藩祖鎮国公御夫妻 ( 殉死墓共 ) 楽翁公御夫妻の墓を除 ふ事ありて きたる余の全墓をば、一穴裡に改葬埋骨せられ、此に写真 くもゆき 世の人や人の心はしら雲の雪かあらぬか定めなき空 に見ゆる如く ( 写真なし ) 、「歴代の墓」及び「家族の墓」 題知らず なる二碑を建てらるるに至りたり ( 向って左方の一塔は経塔 なり ) 。 はるみ、と遠き海山たどり来て雪路にまよふ箱立のせき あた さま / ( 、に色香をきそひ花咲けど実こそすくなき世にこ 斯くの如く墳塋の大整理に方り、子爵閣下には深く意を そありけれ 用いらるるあり、殊に森翁の死因に関して渥く思いを致さ 君の船にていづくへゆかれしか絶ておとづれのな れし結果、共裔孫の承諾を経て、其の墓碑をば旧主の墓側 かりければ に移築し、共遺骨は之を旧主と同穴に埋葬せしめられしと し、つ 夢にだにみるよしもかな我か君の忍びいませる国はいっ くそ 是れ実に昭和四年の事なりとぞ、共碑の位置に就ては本 箱立の軍敗れとらはれの身となり奥の油川より弘 写真之を明示す。回顧すれば曩きに晴山公の翁の為めに墓 前へ行く道にて鶯の音を聞きて 碑の題額を賜いたるあり、今旧藩主定敬公従五位に叙せら そそ れ、旧寃全く雪がるるに及び愈々其の忠節を追悼して已ま鶯の鳴く音みにしむ陸奥の心細道たとりゆく旅 ず、同十四年、公嗣定敬公と謀り、特に碑を共の墓に建我が憂さを慰むとてか鶯の啼く音身にしむけふの旅路は 弘前の君 ( 津軽藩 ) に預けの身となりし折よめる て、共の来歴の大節に関するものを表叙せり。同年又翁の 夏月 長男陳義、碑を桑名伝馬町十念寺内先塋の次に建つ、一一十 抄二年二月十一日聖勅煥発せられて天下に大赦せらるるに及夏の夜の寝やにさし入る月かけもおばろにみゆる我か心 , 刀十 / 眼び、翁亦之に与る。同郷の士感激已まず翌一一十二年三月、 題しらず 相謀りて碑を桑名城趾招魂社側に建て、定敬公の親題を請 、且要項を叙して其の忠烈を箱立のやぶれし時に身ををし終へはかかるうきめに逢は 行いて額とし、精忠苦節といし っ 0 せいひょう ざらましを 旌表せりという。 み

かくなれはかかるうきめはかねてより知りつつ猶もいとことはありませんかとお聞きしたら、別に何も残すことは はるる哉 ないと仰しやった、それから装束を代えられて短刀を載せ おもむろ 常ならは衾みしかき夏の夜もあかしそわふる物思ふ身は た三方を前に徐に着座せられた、介錯人は森さんの指名 雨にうたれ風にしほたるなよ竹の心をのぶるふしもあるで木村にということで父が頼まれたそうです。 らん それから一つ辞世の歌を書いて置きたいと言われたの 弘前へ行く道にて時鳥を聞て で、父が筆硯を差出すと、直に筆を取られて懐紙に 〔 ( 著者註 ) 以下断絶したり〕 なか / \ に惜しき命にありながら君のためには何いとふ へき 二首あるということであるが一首だけしか聞いていませ 木村中将談話の概要 ん、そこで此の外に何も申し遺すことはないと仰しやって 切腹の用意にかかられ、先ず検使を正視して一礼せられ、 ( 大正十四年一一月十九日当町出身陸軍中将木村戒自氏が鎮刀を腹部に当てられて稍打伏された所を介錯したと申して 国守国神社に参拝して、故森陳明翁介錯の刀一振を奉納せ居ました。 られたる時の直話の筆記 ) そこで介錯の仕方を父から聞きましたが、よく忠臣蔵四 私の幼少の頃、子供心に記憶した父 ( 名は金次郎 ) の語っ十七士の切腹の場合は、手桶に水杓の絵があって抜き身を た事をお話しする。其れも特に話をしようとして話したの下げて立っているが、抜き身ではなくして左手に鞘ぐるみ でないから、偶然で確実でない。 下げて抜き打ちにするのが本当だということです。 森さんという方は戊辰の戦乱に、桑名藩が朝敵になった森さんの態度は従容自若として、落ちついたものであっ 為に、朝廷より首謀者を問われた時に一藩君臣の身代りとたそうです、臨終のさまを見て従容自若ということがどん なられて、東京深川入船町の藩邸に於て従容死に就かれた なことかが分るというが、本当にそうだと思います、次に のであります、当日は朝廷の検使が厳然と並んで居られお形見のことについて申されました、何もないけれども何 た、森さんは永く閉居謹慎中であったから、大層憔悴してれ国に帰られたら、此差料と詠草とを遺族に贈ってもらい 居られ、髭は伸び、髪は茫々と乱れていたのを父が剃りも たいといわれ、また着用の仙台平の袴は父が頂戴いたしま くしけず し梳りもしてあげた、そして父が何かお言い残しになるした。 やや