長谷川伸全集〈第11巻〉

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くり、家運いよいよ隆盛であったが、たった一人子の娘が 若くして死んだので、兄丑之助の次男安之助を養子に迎え 文化七年、初代吉右衛門が隠退して道西といった。家業 佐羽淡斎と江戸三座 を安之助が継承し、二代目佐羽吉右衛門となった、時に三 十九である。 安永元年三月十日、上州桐生の佐羽丑之丞に次男が生二代目吉右衛門は部屋住のころから詩文に長じていた。 れ、幼名を安之助といった。この安之助が佐羽吉右衛門に 佐羽家を嗣いで絹買次商として、縦横に商才を発揮しつ 養われ、二代目吉右衛門を嗣ぐに至って、それまでも佐羽つ、その一方で、好きな詩文をすてなかった。そのころ桐 家は財産家だったが 「一佐羽二加部三鈴木」と、うたわれ生に三ツの大商店があった、東海道方面を専らとした新居 る、上州三富限者の首位に、のしあげさせた。二代目吉右甚兵衛、奥羽方面を専らとした吉田源兵衛、それから江戸 衛門は、手腕のある商人というにとどまらず、詩人としてを中心に大きな販路をひらいたものが二代目佐羽吉右衛門 も相当なものであり、又、江戸の中村座、猿若座、市村である。 座、三座に資本を出して巨利を博したということである。 それは文化七年から文政八年までの間で、およそ何年間 つづいたか、その点私にはわからない。 一一代目吉右衛門は諱を芳といし 、字を蘭郷、号を淡斎と いった。文政八年七月四日、五十四歳で病歿するまで、十 六カ年間の一般は、江戸の朝川善庵が撰んだ碑文が尽して 桐生の佐羽家は佐羽清右衛門にはじまる、清右衛門に丑 いる。碑は桐生市新町六丁目浄蓮寺境内にある。 話之助、佐吉郎と二人の男子があり、長じて後、長男丑之助淡斎は義侠心が強く、桐生方面でその救いをうけたもの は桐生新町三丁目の父の家を嗣ぎ、次男佐吉郎は桐生三丁が尠くない、江戸では知名の詩人画家と親交を結んだ、そ 材 素目に分家して吉右衛門と改め、兄も弟とともに絹買次商をの様子が善庵の碑文にみえる。 やった。 共ノ江一尸ニアルヤ、春ハ梅ヲ杉辺ニ探リテ枯算ヲ曳キ、 うか 佐吉郎の初代佐羽吉右衛門は、商才があったので財をつ 短簑ヲ被テ雨雪ヲ数程ニ冒シ、秋ハ舟ヲ墨江ニ泛べテ、 尾上梅幸のことである。 ( 昭和十四年九月『中央演劇し ) 0 いみな あざな - 一きよう

吹参差、歌宛転、風月ヲ一家ニ占ム。或ハ又濃紅翠ヲ擁淡斎の一一代目佐羽吉右衛門の営業精神は、「他人ヲ利益 シ、綺夢ヲ巫山ニ結プ。銀ヲ傾ケ玉ヲ注ギ、白波ヲ鯨海シテ我モ利益ス」にあった。我利我利亡者ではなかったの もてあそ んつつ、つ ニ捲グ、南楼月ヲ弄ビ、漏ノ已ニ尽グルヲ知ラズ、 北里花ヲ賞シ、深グ春ノマニマニ将ントスルヲ惜ム。 共ノ神清爽、性度快豁、人皆ナ烟花ノ総管ト為ス。 明治二十七年四月、東京の明治座で、桐生の日本織物株 これでも判るように、ひどく豪央に遊んだものた、が、 しゆす これがタダの豪遊でなく、悉く桐生織物の宣伝であったの式会社の製品である織姫繻子の芝居を上演した。このこと である。江戸の三座を出資で一手に押えたのも、その目的は「明治座物語』 ( 木村錦花 ) にあると思うが、一応、記し は、桐生織物の宣伝にあった。酒宴、美人、風流、それかておく。 ら三芝居、これをすべて利益を生む機関としたその手腕本織物株式会社とは明治二十年に認可創立したもの で、社長は佐羽吉右衛門で、重役は佐羽の分家の佐羽喜六 は、たいしたものと観ていいだろう。 淡斎は山水家でもあったので、名山勝景に詩碑一百を建や、田口卯吉博士その他であった。桐生町四丁目に工場を てんとして、僅かに十一建てただけで世を去った。昭和十設け、外国から機械を輸入し、作業にかかるまで三カ年か かった。作業をしてみたが困難が続出し、予期の目的に遠 四年一月二十八、九の両日、桐生市の図書館でひらかれた く、明治二十四年減資して織姫繻子その他をつくった。そ 佐羽淡斎翁顕彰展覧会に出陳されたものの中に、江ノ島詩 碑、墨田三絶詩碑、百花園詩碑、伊香保詩碑、日光詩碑、のころ我が国の輸入織物の最高額は南京繻子とメリンスで あったが、明治座でやった宣伝劇の効果と、折柄の日清戦 それから十山亭詩碑と、これだけの拓本があった。そのい ずれもが現存しているかどうか知らない。金石に刻んで後役とが幸いし、南京繻子を徹底的に駆逐することが出来 代にのこすなぞと云ったところで、案外、残らないものでた。 ある。詩集は『菁莪堂集』三巻をはじめ、『淡斎百絶』『淡宣伝劇は奈良御所紅葉御宴の場と下谷松源楼宴会の場 斎百律』「淡斎三集』など、いろいろの形で版行されたとで、第一場では仁田山織姫の伝説を材料とし、第二場では いう。伝記は「上野人物志』や『上毛偉人伝』や『郷土の国産品が外国産を凌駕する品質であることを扱ったもので 華』などにある。「桐生織物人物伝』にもある。惜しいこある。役割りは、 白滝姫・須永村右衛門 ( 市川左団次 ) ・支那人米舛寿 とに芝居と淡斎の関係の委細を知ることが出来ない。 まうしん とき さら

( 市川小団次 ) ・官女皐月・機織女おきぬ ( 市川米蔵 ) ・ 斎藤長八 衛士 ( 市川莚女 ) ・衛士織部・山田郡右衛門 ( 市川権十郎 ) 足立繁美 この左団次が綺堂物をやり、自由劇場をやり、青果物を 河原崎権之助 やった左団次の父であることは云うまでもあるまい 明治廿八年維時乙未六月吉日 前いった如く一一代目佐羽吉右衛門が江一尸の三芝居に関係 ①釜七製 し、後世に至って分家の佐羽喜六が、日本織物の専務とし この他にもう一ツ、明治座の芝居茶屋日野屋藤兵衛か て切って廻すうち、今いった如く宣伝劇をやらせるに至っら、織姫神社に、高さ三尺横三尺の奉納額がある。画は南 とねり たことは、因縁循環ではあるまいか。 陵藤原惟董で、白滝姫と山田舎人とが歌合せをしている図 佐羽喜六は「供給ヲ外国ニ仰グガ如キハ、日本魂ヲ口実である。これは上州山田郡山田村の舎人が、郡役にあたり ニシ、天祐ヲ棄ツルモノナリ、ソレ輸入促進スレバ我ガ富て京都へのばり、禁廷の庭掃除をつとめている或る日、官 ヲ失ウ訳ナリ、輸入寸退スレバ我ガ富ヲ保ッ亦寸ナリ」こ女白滝が戯れに、「照りつづき山田の稲の枯れはてて何を ういう持論を持って、輸入織物駆除に邁進した人である。種とて命つくらん」と詠じた。山田の舎人はすぐに、「照 清国芝罘沖で佐羽喜六が客死したため、日本織物は頓挫りつづき山田の稲のこがれなば落ちてたすけよ白滝の水」 し、桐生織物株式会社と変革されるに至った。 と返歌した。このこと、叡聞に達し、山田の舎人に白滝を くだされたので、上州仁田山に伴い、白滝は織物をいとな み、近くに拷機千々ノ命を祭ったという伝説がある。その 桐生には織姫神社がある、そこには明治座で宣伝劇上演なかの歌のくだりを画題にとったものである。但しこの伝 の翌年、高さ三尺の鋳造天水鉢一対が奉納された。表に梅説には諸説がある。 鉢の紋に奉納の二字を配し、うしろに次の如く、勘亭流の佐羽喜六の伝は『桐生織物人物伝』にある、それによる ちゅう 話文字で鋳してある。 と、下野足利郡葉鹿村の青木儀平の六男で、四代目佐羽吉 発企人守川弥平 右衛門に仕え、その長女うたの聟となったもので、羽二重 材 明治座々長市川左団次 甲斐絹輸出の先駆者だった。明治三十年四月一日、芝罘沖 田井善蔵 で乗船難破のため死亡したとき年四十三。号を松斎とい 世話人岩田賢蔵 客死する前、友人にのこして行った名刺のうらにこう