長谷川伸全集〈第12巻〉

キーフレーズ

日本 明治 東京 横浜 一人 江戸 アメリカ 日本人 昭和 聞い 岡村 知ら 久左衛門 三人 一つ 知っ 二人 芝居 書い 右衛門 役者 その後 自分 虎丸 出来 伯円 弥兵衛 出し 入れ 三郎 左衛門 思う 思っ 大阪 行っ 宗伴 大正 知れ 人々 上田 帰っ ロシア 二代目 忘れ やって来 出て イギリス ウラジオ 利兵衛 多く 去っ 居留地 フランス 長岡 仙台 言葉 外国人 興行 出る 時代 三代目 サンフランシスコ はいっ 逃げ 新聞記者 慶応 女房 夫婦 春次郎 舞台 時間 持っ 兵衛 五郎 中国 立見 人たち

目次ページ

374 神戸 ( 今は鈴鹿市 ) 二万六千石、本多家の伝馬御用をつとめという好い男前の役者であったというから、古い北越の芝 きだまっ ていた、木田松という親分である。この木田松のところに居の番付が残っていたら、京十郎の名が見つかるかも知れ は、年百年中、博徒の旅人が食客になっていた。上州の国ない 定忠次も半年ばかりというもの、食客になっていたと、 このことは鏡淵九六の『新潟古老雑話』といって、『新 う。前にいった濃州北方で、浅木の大八に腕貸しをして、潟市史』を編纂にあたった鏡淵が、古老歴訪をやって資料 北方増屋町の惣造方へ夜討ちをかけた話の出どころは、 を得た。その余録のような物の中の一つである。談話者は 「北方志』という土地の本である。事によったら忠次は北池上童太郎といって、幕政のころは古くからの宿屋で、古 方の一件のそのあとで、伊勢の神一尸へ足を向けたのでもあくからの目明しで、江戸相撲や千両役者の興行を引受けた つつ、つか 親分を先代にもった、という古老である。ただし講談では 幕末の名人市川小団次の女房で、初代市川左団次の養母忠次の越後入りは、信州権堂の山形屋一件のアトのことに ことは、国定忠次の妾であったと、明治の末期にいろいろなっているが、それと忠次の新潟の池上屋逗留とに関係を 書かれたが、猫遊軒伯知の談話筆記のなかに、伯知がまだ付けて脚色すると、山形屋一件の後がもっと面白くなるだ 若いとき甲府へゆく途中の山の村で、うどん屋の女房になろう。 っている婆さんが、忠次の妾であった五目牛のお徳だと知 ってびつくりしたというところがある。実説として受取る かどうかは別として、話としては面白い 遠州浜松の郊外に権左衛門という博徒の親分がいた。子 明治一一十一年 ( 一八八八 年 ) 六月のことだそうだが、新潟分になりたいものがあると、罪人の首切り場をまわって来 五番丁の古い宿屋の池上屋へ、面長で、身の丈高く、骨太いという。死罪囚の首がさらしにかけられていれば、夜そ くたくましく、眼が底光りする男がやってきて、「私は上こへゆくのはあまり愉央なことではない。それを一度なら 州国定の忠次の倅で、不流三左衛門という、芝居興行の世ず、三度くり返させるのが、権左衛門の子分採用試験であ しが、二回目はなお怖い、三回目はもっと 話をしているものですが、先年は父忠次がご厄介をかけまる。第一回も布、 した」と、礼をいいに来たという。事実、忠次はしばらく怖い。しかし話としては、三度ともいたってご機嫌でまわ 池上屋にいたのである。不流はフリュウとよむのだそうでって歩き「もう五、六遍まわってこようか」と強気と無神 ある。この不流三左衛門という妙な名の人の倅は、京十郎経とが半々の手合いを出した方がおもしろいのは申すまで

もない ひどくあわてたというから、この社会特有の引っかかりが ところがそれに似た小僧サンが現れた。権左衛門の従兄何かしらあったのだろうが、分らない。 弟の幸蔵の倅で定五郎といい、年は十三。この小僧サンが 、交わした三 脱牢して間もなくだろう。定五郎は深くいし しんじよ 夜中に首切り場を三度まわって、採用試験に及第して子分州宝飯郡御油の商売女をつれ出し、遠州浜名郡の新所の又 になった。事によったら小僧サンの方から「首切り場を一一一という者に女を預け、身軽になって諸方を歩き、その年の ペン、夜の夜中に回ってみせるから小父さん、子分にして九月十二日、三州渥美郡二川から、女に逢いに新所へゆく くれ」と権左衛門に売込んだのかも知れない。 途中で、なに者にか殺された。 定五郎は十九歳のとき旅人になり、駿河・遠江・三河を定五郎には銀蔵・近蔵と弟が二人ある。兄の葬いを出し 軸にして、好き勝手の方角へ足をむけ、行く先々で暴れまてから敵討ちをやろうと、弟二人がつれ立って旅に出た わり、始末のわるいところもあったろうし、弱者の味方をが、小政に意見されて思いとどまり故郷へ帰った。この小 買って出て、強い奴と対決したこともあったらしい 。とい政は次郎長物に出てくる小政である。 うのはわずかに足掛け三年の間に、故郷へ戻ってきたのは 小政が他人に意見をするとは初耳みたいである。それよ 二、三回に過ぎず、アトは人の噂だけだが、子供たちの間 りも面白いのは、定五郎が故郷の子供たちを集め叱ったこ に人気が大層あったからである。パクチを打って喧嘩をしとがあることである。いわく、「おれみたいな奴になりた て、風のまにまに流れ歩くだけでは、、 しくら何でも人気ががるなんて、おまえ達は大バカだ」 出ようわけがない。 伊豆の三島で定五郎は、雲助を相手に大喧嘩をやり、三 島を騒動させたため、韮山の代官江川家の手で召捕られ、 次郎長物では悪い役の雲風吉は、三州宝飯郡平井村と 説韮山へショッ引かれ、入牢となったのが十九のとき。とこ 昔いったところの生れで『司法資料』 ( 司法省刊 ) によると るろが出牢を待っているのではつまらないというのだろう、 「地名を家名と為し、平井一家を称せり。されども当時勢 な尾張の竹之助という者の助力で、牢から逃亡したのが二十力いまだ大ならず、慶応のころ跡目を実弟原田常吉に譲 生三歳のとき。 り、常吉の時代に至り、次第に勢力を拡大し、東部三河一 どういう事情だかわからないが、定五郎が韮山で脱牢し円をその勢力下に置くに至れり」となっている。雲風亀吉 たアト、浜松伝馬丁の市というものと、成子の宇平とが、 が明治戊辰の奥羽戦争に、尾張藩が編成した農民隊の隊長

格で出陣したことや、弟の常吉が長兄を殺した浪人を討蔔 目にいった土屋源次の子分が、高井の農家の若者のとこ 果したこと等々は、私の『荒神山喧嘩考』と『殴られた石ろへ、賭場で貸した金の催促にいった。ところが青年が返 松』にある。『殴られた石松』は小説だが、八、九分は事金をしない。これに手を焼いた子分が、親分の源次にその 実に拠ったものである。吉の肩書の雲風は力士のときのことを話した。そこで源次は、これは高之戸が陰で糸をひ 四股名で、尾張家の抱え力士であったと「司法資料』にあく、そのため若僧が借金を払わないのだと判断し、高之戸 ・る。 のところへ出向いた。明治二十五年 ( 一八九二年 ) 嵩山の浅 雲風の弟の原田常吉が勢力を張っているとき、三州八名間神社の祭の晩である。源次は子分の富五郎と東京亀とを 郡鳴沢のもので源次郎というものが、吉田藩士に柔術をなつれていた。 らい士分にとり立てられた。吉田は後の豊橋のことで、そ源次が高之戸に談判のロをきり、高之戸がこれに返答す この藩主は伊豆守を代々名乗る松平家である。 るその刹那に、源次が仕込み杖だろう、抜き放って高之一尸 源次郎は姓を土屋という。『司法資料』では明治も三十の右の腕を切り落した。源次の身替りに子分の某が立って 何年かに一家を立てたとなっているから、青年時代を過き刑罰をひっ被ったので、それはそれで片づいた。 てからのことだろう、博徒になろうとして、平井の常サン がしかし、高之戸こと近田荒吉の方は、右腕を失ったこ と愛称のあった原田常吉を訪い、頼んだところ断られた上とが、勢力を次第に失わせ、一人の子分も遂になくなった に、「早く草履をはいて出ていけ」といわれた。すると源ので、「パクチ打ちの果てはこんなザマが当り前た」と笑 次郎は草履をとって座敷へ戻り、畳の上ではいて「さよな っていたが、自分の石碑を建立し、ある日、その石碑にわ ら」といって出て行きかけた。そこで常吉が面白い奴だとが体を綱でむすびつけ、起った姿勢で、鉄砲のロを急所に 呼び戻して身内に加えた。『司法資料』では「原田常吉四あてがい、引きガネを足の指で押して、自殺を遂げた。 天王の一人土屋源次郎」となっている。これには異説があ 九 るし、名も源次郎といわず源治とした記載ものもある。 たかのと 明治になってから三段目までとった力士の高之戸が、土平井の常吉は兄を殺した立川啓之進を、明治初年に斬り 俵上の前途を見切って、三州八名郡高井村へ帰って農をや殺した、遠島から赦免になって帰って間もなくのことで、 るうちに博徒となり、子分もできた。生計も立つようにな復讐禁止令がまだ出ていない時のことである。 った。貯えの金もできて来た。 それから歳月がたって明治十四年 ( 一八八一年 ) の春、甲