長谷川伸全集〈第8巻〉

キーフレーズ

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明を恐いと思う念は去らないが、今ひとり自分だけ置去 え、そうじゃないか、深い怨みはどっちにもないのだぜ」 りにされたくはないのである。 四「人が来た、黙れ」 影次郎はロをつぐみ、通行の三人づれとすれ違うと、襟船の中では兄弟とみえる年若い船夫がぐッすり寝込んで いたが、明に起されて二人とも目をさまし、 許が寒い気がした。今までと違って、明が恐くなって来た のだ、何といってもこの青白い瘠せッばちの士族めは、人「だれだねお前さまは」 をひとり殺して来ていやがるのだからと思うと、背中に冷「いかねえよ、無闇に船へはいっては」 明は苫葺きの胴の間に、片膝立ちに坐り、 たいものが走る気がする。 「問答無用」 「次郎吉、小網町から海へ出る」 と低く鋭く一喝くれて置いて、右手に短刀を抜いても という明の声の気味悪さに、返辞が咽喉に詰って出ない ち、左手に明治通宝の一円紙幤を十枚ばかり持ち、 影次郎であった。 「この右手の物が所望か、左手の物が所望か、どちらでも 所望の方をいえ、くれてやる」 「何だね何だね」 小網町一丁目の河岸に沿ってゆく、明と影次郎とは、 「ど、つしろとい、つだね」 筋に目をくばり、乗組の人の数が一人か二人の船はないか 「船を品月、、 ー冲へ出せば、それでいい」 と探した。 と、思案橋の近く、橋杭にもやい綱をかけた塩船が、そ「いかねえ、この船は夜が明けると荷積むことになってい とまも ろそろ下げ潮に変った水の上で、苫洩る灯を潮に写し、穏る、なあ弟」 かに揺れているのに明が目をつけて、影次郎には合図もせ「そうだ、船出せというても、そうはいかねえ」 みざお 「然らばお前達は殺されるのが所望か」 ず、小桟橋にあり合う水竿の折れをとって舷へ掛け、引き 「何をいうだこの人は」 寄せた塩船へそッと乗り移った。 影次郎はいわれなくても小桟橋の当座の役目を知ってい 「拙者は盗賊などではない、仔細あって世を忍ぶものだ、 じゅんら あらた て、小桟橋に腹這いとなり、巡邏の警官と、もしや現れる世が世になったら更めて謝礼を遣わすーー・どうだ、右手の かも知れない保助を警戒した。その一方で塩船の中で明が物を所望か、左手の物を所望か、早く返答せい」 どういうテを打つのか、それにも聞き耳を立てた。 そのとき小桟橋の上では影次郎が、空ッば人力車の車輪

「君、この人達を恐がらせてはいけないね」 の音にギョッとなり、透して見ていると、一台の人力車が と明は影次郎を制して、返す目で兄弟の船の者の顔を眺 河岸に沿って近づいて来た。保助め、又も来やがったか と、影次郎は這って塩船へ近づき、投げ棄てになっていため、にたりと笑って短刀を弄んでみせた。 船の兄弟は首を縮め、 水竿の折れで舷を引きよせ、そッと塩船に乗り移りながら 「しようがねえだから、弟、沖へ船やるか」 河岸をみると、人力車が近くなっていた。 しゅろ 「やらねえといったら、恐いことになるのだろう兄キよ」 影次郎はもやい綱を解きにかかったが、潮に濡れた棕櫚 づな 綱は手におえなかったが、窮余の知恵で橋杭から結び輪「そうだろうよーーだらお客さん、船やるだ沖へ」 「左手の物を所望か、しからば一円で十枚、受取れ」 を、遮二無二、抜いてとった。船は下げ潮に乗ってゆらり よろ、 船の兄弟は紙幣を受取って頂き、起ちあがって苫の外に ゆらり、・の渡しの方へ漂い出た。 影次郎は保助めどうしやがったかと、更めて見返る河岸出た。 で、その人力車は客が出来て、今や梶棒をあげるところで「次郎吉、君は弟の方を監視しろ、僕は兄の方を監視す あった。 る。暗いを幸い、船を元へ戻すようなことがあるといけな 「なあンだ、あの空ッ車はあいつではなかったのか、ちえ 「合ッ点だ」 人力車はおやじ橋へ梶棒を向けて、見る見る遠くなつ「沖へ出るまでは汕断するな」 「判ったよ」 た。塩船の中では兄弟の船夫が、明の脅迫に色を失ってい 「君は船に強いかね」 ながらも、漂い出した船の様子にそれとすぐ気がっき、 「大抵の揺れ方では平気だ、君は」 「やあツ、船が離れた」 「僕は苦手だね」 男「本当だ本当だ。兄サ、どうするや」 「まさか」 総という兄弟二人のうしろから影次郎が、 と「どうもこうもねえ、艪を立てろい。へタにいやだなんて「事実だ、いよ」 江いうと、タダおかねえ、俺もそうだが、そこにおいでのお方「それはいけねえな、けれど、気が張っているときは格別 的は、上野東台の戦いをはじめ、奥羽蝦夷で数度の戦いに人だというから、大丈夫さ」 と影次郎はいったが、肚の中ではそれでこそ、先ずは安 を斬ること大根のごとく、すッばすッばとやったお方だ」 もてあそ

心と思った。次第に出てくる明の悪人振りが気にかかってです ) ならない影次郎は、明の奴が、俺のもっている分け前の千 ( 手が金をつくり、足が金をつかいます。こりや妙薬でご 八十五円に目がくれ、殺してとる気になったとしても、船わす ) これが四月一日の午前のことだったという。それまでに の中だけは無事でいられる、陸へあがったら一時も早く、 こんな気味のよくない奴とは、」 れてしまうに限る、いつも東京府内六ツの大区と、その支配下の小区の探偵は、破 獄逃走中の石川保助と志田明、大原影次郎を逮捕するた 何どき殺されるか知れないと思っている。 船は鎧の渡しを後にして港橋の下をくぐり、やがて間もめ、稲荷ずし売、人力車夫、屑屋、熊の胝売にまで変装し つくだ なく永代橋の南に出た、そこは河口で、石川島、佃島はそて、網を諸方にひろげたが、苦労ばかり徒らに多く結果は れより更に、南の海中にその頃はあった。 今までのところ、大木司法卿のいう、昼夜兼行の居睡り と、皮肉を飛ばされるものとなっていた。 船は更に南へ南へと出て、石川島も佃島も後にした。 五百円の特別寄付を得た川路大警視は、管下の大小区の 警察代表を集め、叱責と激励とを併せた訓示をやり、その たかとう 時の司法卿大木喬任が警視庁の川路大警視に、だしぬけ中で、警察官は正義の実践者で、名誉の維持者、高尚なる になことをいった。 任快の士であると強調した。 これに刺戟されて奮起した府内の警視庁出張所は、選抜 ( あんた一ッわしに教えてくれンか ) ( 何でごわす ) 適任者を置いて、有らん限りの能力と体力とで探偵にあた 一にも二にも体当り以外には解決のメドさえ攫 ( 居睡りの仕方よ、警視庁管下六千に余るものが、一斉にらせたが、 昼夜兼行で居睡りに出精しているそうな。川路さん居睡りめない時代だけに、どの警察署の専任者も、二日に一足ず は伝染病かな ) つの草履をスリ切らせること珍しくなかった。しかもこの ( 未決監破りの三名のことでごわすな ) 必死さで得たところといえば、三人の破牢逃走者が東京府 そぞく ( 逃走したのは鼠賊どもだが、 警察の威信がそのついでに内には最早いないことが確定的になっただけのことで、ど こからどう二人の食い詰めィモ ( 士族をイモといった、初めは 逃走しては容易ならん。警視庁は貧之でお困りであろうか けんばん ら、この金をおっかいなさい、わしが五十枚ばかり絹本に薩州人のことを薩摩芋にしてイモといったが、いっか転じて士族の べっしよう 詩をかいて、成金どもに十円ずつで売りつけた金、五百円蔑称になったのである ) と、島帰りの人命犯とが、府内から