長谷川伸全集〈第9巻〉

キーフレーズ

日本 捕虜 日本人 常陸丸 ドイツ ロシャ イギリス 明治 旅順 ステッセル ウォルフ 日本軍 日本兵 収容所 一人 東京 将校 昭和 末次 収容 将軍 イギリス人 中尉 一つ 書い ロンドン 富永 大尉 ドイツ人 船長 人々 三人 アメリカ 日本郵船 知っ 嘉兵衛 三十七年 出来 外国人 可南子 二人 乗組員 少佐 大正 士官 知ら 朝鮮 艦長 軍医 少尉 シンガポール 甲板 上等兵 中佐 西暦 俘虜 木村 命令 五郎 その後 二名 海軍 年刊 日露戦争 入れ 印度 運転士 機関士 シャ人 宮崎 清国 負傷者 やって来 聞い 聯隊 手紙 出し 言葉

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で連れてゆかれウチコで抑留された、そこは人家が三十戸点をくれた。善六の話だとこれまでに五郎次は、紙幣で三 ばかりのところだった。七月三日にロシャ人スタロスナが貫目をコウスグで渡されている筈だというのだが、五郎次 五郎次をつれて、馬と徒歩との護送の旅路についた。このの手に渡っていなかった。何処かでだれかが横取りしたと 旅は九月十日まで続きコウスグというところへ着いた。ス思う他なかった。それはコウスクだけのことでなく、後日 タロスナは深切な男で、足掛け三カ月の道中で、いつも五のことになるが、オホーッグでも紙幣が与えられると善六 郎次に食事をわけてくれた。コウスグの役人は五郎次に一一が教えてくれたが、これも五郎次の手に渡らなかった。イ ルコスカでは善六がいる故か、出立のとき紙幣十貫八百四 カ月ここにいるのだといったが、はたして二カ月余りそこ に抑留の日がつづき、十一月十九日になって、イルコスカ十文が渡された。 五郎次はイルコスカから又も護送されて、オホーックへ というところから五郎次に来いという命令がきた、それと 一緒にイルコスカに住む善六という人から手紙で、イルコ着いたのは翌年 ( 文化九年、西暦一八一二年 ) 四月朔日だっ スカへ来るようにといって来た。善六というのは仙台船のた。ここで五郎次はロシャ本国へつれて行かれるのではな く、日本へ送り還されるのだと知って喜び極まった。月が 若宮丸の乗組員だったもので、海難にあって漂流し、露領 かわって五月二十九日、与茂吉その他七名のものが、カム に着いて収容されたものの中の生残りで、ロシャに帰化し ろと て、かっては露都の日本語学校でロシャ人に日本語を教えチャッカから送られて来て、五郎次と一緒に置かれた。与 ていたことがあり、妻はロシャ女で、目下はロシャ政府の茂吉等は摂津の加納屋十兵衛の持ち船の乗組員で、海難に 命令で、イルコスカに住んでいるのだった。五郎次はそのやられてカムチャッカへ漂流し、助けられた中の生残りの ものだった。 ときはまだ善六の身の上を知らなかったが、今まで人々か 六年振りで日本へ還される五郎次と、水夫の与茂吉等と ら聞いた話によると、そういって呼寄せ、ロシャの本国へ 連れてゆくそうで、そうなっては日本へ帰れないだろう合計八名が、ロシャ軍艦デアーナ号に乗せられた。その年 八月八日デアーナ号は、千島列島の最南端の国後島の螻向 のつえと 志から、五郎次はイルコスカへ行きたくなか 0 たが、拒んで 虜 もその効なく、護送役人が付いて十一月二十七日から十一一岬の沖に到り、翌四日、乗戸岬に近いペコタン沖に投錨 捕 本 月十六日まで旅を続けた。イルコスカへ着くと善六が待っし、漂流者だ 0 た与茂吉が、まず島にゆき、やがて日本人 ノ名ともロシャから日本側へ引渡しが終った。 ていて引取ってくれ、一日に百文ずつ銭をくれ、その他に こういうことをロシャ側がやったのには事情が伏在して 六枚の襦袢と六足の下股引と、羅沙股引に手袋、その他数

いた、というのは、その前の年にワシ リー・ミハイロウイ人の間では語られなかった。 チ・ゴロウニン少佐といって、五郎次が乗ってきた軍艦デ ◇ アーナの先代の艦長とフヨードル・ムール少尉、アンドレ イ・フレプニコフ航海士、それにドミトリ ・シーモノ話をゴロウニン少佐等に移そう。五郎次等八名が送還さ フ、スビリドン・マカーロフ、ハイロ・シカーエフ、グリ れる前年の文化八年五月五日の昼、択捉島沙那の沖に一隻 ・ワシーリエフと四名の水兵が、日本に捕虜にされの帝政ロシャの軍艦が現れた。ゴロウニン少佐が艦長のデ て松前の獄にいる、その救出に利用するためであった。 アーナ号だった。 そこでゴロウニン少佐等がどうして捕虜にされたかに、 沙那在勤の役人その他は、文化三年樺太にロシャ入寇が 話は溯るべきだがそれに先立って、五郎次の身の上に結びあり、文化四年択捉入寇があり、ことにこの沙那には流血 をつけておく。五郎次は帰ってから松前藩に採用されて、 と兵火の惨があり、日本側敗北の地であったから、戦闘の 中川五郎次又は中川良左衛門といった。俸給は初め足軽と覚悟を固めていたところ、上陸してきたロシャの士官と兵 ふり おなじだったが、ゴロウニン少佐等の通訳にあたりなどし とは飲み水が欲しかったのだった、そこで沙那の役人は振 た頃は加俸があったらしい。五郎次が中川良左衛門を名乗別に上役がいるから、そっちへ行ってくれといって引返さ ったのは、ロシャの捕虜となったとき我が名を惜む気持ちせた。 から名乗ったものという。その後、松前で医師を開業し、 デアーナ号は振 へゆかず、その月二十六日の昼、国後 けらない 日本最初の種痘をやったのが文政七年 ( 西暦一八二四年 ) で島の螻向岬に現れ、泊という港にはいった。そこに駐在の あった。門人もすくなからず、その中から著名な医師が出南部藩兵は、狼火をあげた、そうすれば海を隔てた根室で た。中川の種痘術はオホーックにいた捕虜生活のとき、働ロシャの軍艦がやって来たと判る筈なのだった。その一 しらべやくなさ かないと食えないので、ロシャ人の医師の家で働かせて貰方、国後島在勤の松前奉行支配の調役奈佐瀬左衛門が指揮 った、そこで中川は信じられ愛され、医療のことを乞うてして大砲を海岸に据え、きびしい警戒のうちに夜に入っ 教えてもらい、種痘術も学んだのだった。彼の後の名は中た。その夜、泊の海浜は篝火で昼を欺く明るさだった。無 川儀貞郎、嘉永元年 ( 西暦一八四八年 ) 、松前で病歿した。彼論そのころのことだから、松前奉行系と南部藩の旗・幟・ の名は日本の医学史に不朽の記載になったが、彼のロシャ吹流しなどが押し立てられた。 幽囚のことは、ゴロウニン少佐の日本幽囚はどにも、日本その晩は、まず事なく過ぎ、翌二十七日の昼、デアーナ のろし

号から二隻の短艇が陸へ向った。それに向って、二百目玉断じ、駐在の南部藩士と合議の上、彼等と対談の策をた と称えた一発が島から放たれ、続いて大砲も射たれた。短て、「小舟一隻水夫四人で、然るべき者がこの絵図の処ま 艇は驚いて引返した。デアーナ号はやがて大砲の射距離外で来たれ、こちらも小舟で行き話して聞かせる、多数でく に後退した。ゴロウニン少佐等にとって、これは意外のこると鉄砲で射つ」と、片仮名で書いて絵図を添え、前の浮 とだったろう、だが奈佐瀬左衛門にとっては、怨みの深い き樽にいれて流してやった。これについて応酬がすこしあ この相手の上陸とは即ち攻撃だったことを、択捉島の実例った後、ゴロウニン少佐がムール少尉とフレプニコフ航海 で思い知らせられていたからに外ならなかった。 士と水兵四名、それに蝦夷人の通訳が一人とで上陸して来 翌二十八日の朝、一隻の短艇がきて海岸近くへ、赤い旗た。『一八 一一年より一八一三年に到る日本人の許におけ たる をたてた一つの浮き樽を流していった。奈佐等がその樽をる彼の捕虜生活に関する海軍中佐ゴロウニンの手記』 ( 彼は あらた 檢めてみると中に赤い羅沙のきれ端や一合ばかりの米、酒その手記を纒めたとき中佐に進級していた ) という、大変に長 少量などがあり、又きのうこちらが射った弾丸がどこへ落い表題の物を訳した「ガロウニン・日本幽囚記』 ( 日本海軍 ちたかという、見取り図もあった。奈佐等は今度の相手が軍令部訳、明治一一十七年刊、海軍文庫本・・ーー大正十五年刊、聚芳 交易を求めていることを知った。 閣本 ) に、このときのことを「日本人に和親を望むの意を 表せん為、特に我等はいずれも武器を携えず、ただ余とム ◇ ール、フレープニーコフ、三人のみ剣を佩び、フレープニ ーコフは拳銃をふところにせり、こはもし俄に雲霧の深き その翌日は文化八年五月二十九日である、ゴロウニン少 佐等からいえば一八一一年七月十一日だ。 に遇い、本艦を見失いたる時、合図に用いん為なり」とい っている。 奈佐瀬左衛門はデアーナ号を望遠鏡で監視させた。泊か 帽ら二里の螻向岬の方向へ、短艇が漕いでゆくのを見付けた 樺太の搶掠と放火と人間拉致とが、そして戦わずして逃 さぜん ので、人をすぐ螻向岬の番屋へやって調べさせると、番屋げた松前佐膳等に対する外からと内からとの憤怒が、日本 志 ずあいぶね 虜に貯蔵の玄米十六俵と酒・糀・薪それに漁船の図合船一隻人にあった、そのために佐膳の主家なる松前家が処罰をう けたことも、日本人の感情を激させていた。のみならず、 日がもち去られ、唐木綿二反・皮手袋などが残してあった。 ボウシトウ 奈佐は憤った、彼等のやり方は先年の放恣盗 ( フウオストフ利尻島の日本船焼亡、積荷の奪略、又、択捉島の砲撃と搶 中尉の行動を憎んで、その頃こういったのである ) とおなじだと掠と放火と人間拉致と沙那の戦闘とがいよいよ以って日本 みと