ガラスのうさぎ

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しんこいわ に、新小岩から通学していた律子さん。山田律子だからこれも本名。彼女は大変美しく、おすま絽 よ かのじよ しさんでもあった。次にシバ子、芝田登世子の上と下だけを呼ぶ。彼女はグループのリーダーで ある。家は平井駅前の薬屋さんである。お母さんがとても親切なので、みんな時々寄り道させて もらう。もっとも「おやっ」がお目当てでもあった。さつまいもあり、うどんの煮込みありで、 食べざかりのわたしたちは、いつもご馳走になった。そして最後はわたし。チビのエイちゃんで かんたん とし、」 ある。みんなに言わせると、名前が簡単すぎて、くずしようがないそうだ。本名の江弗敏子の上 だけとって呼ぶわけだ。 なにしろ盟がころがってもおかしい年ごろなので、よく集まっては話をし、笑ったり泣いたり しんちゅうぐん 大変だった。たとえ戦争に負けて進駐軍が入って来ようとも、おなかがすいて、ひもじくても、 そまっ 粗末な洋服をまとっていようとも、次の時代はわたしたちが築くのだと真剱に考え、明日への希 も 望に燃えていた。 しゅうしん 学校生活も、一歩一歩ではあるが、充実しはじめてきた。ただし修身 ( 現 9 徳、 目 ) 日本歴史、地 じゅぎよっ 理の授業は完全にストップになった。 c.-5 高司令部 ) の命令だそうだ。わたしは日本歴史と地 理が大好だったので、とても残念だった。そのかわりが、中国を中心にした東洋史の授業だった。 りつこ ジーエイチキュー しゅうじっ

たんにん これはとても楽しかった。担任の高橋先生は、頭が少々うすくなり始めていた。わたしたちは先 生が四十五、六歳だと思っていたが、実際は、三十歳だった。そのころにしては顔もふつくらし そうせき 。漢文 て、体の大きい仏さまのような先生だった。もっとも少年時代から僧籍にあったとか が専門だった。クラスの生徒をぜったいに呼びすてにせす、 「〇〇子ちゃん。」 くらよう と呼んだ。わたしなど、いたすらして見つかったりすると、ゆっくりとした口調で、 めいわく 「敏子ちゃん、いたすらはいけませんよ。人が迷惑しますからね」 しか 、一うかてき と、ニコニコしておっしやる。バンバン叱る先生より、よっぱど効果的だった。高橋先生の前に くうしゅう すなお 立っと、なぜか、とても素直になってしまうから不思議だ。先生も東京の家が空襲で焼かれて、 奧さんと子供さんは四国に住んでいて、先生は江戸川区で、ひとり下宿住まいだった。 すわ ざぜん 先生の授業の前には、 かならす座褝をしなければならない。といっても、いすに坐ったまま、 もくそう 手をおなかの下の所で、親指と親指を突き合わせて組むのだ。そして三分間黙想をする、さわぎ 力いりの女の子も、この座褝をすると、なぜか落ちついた。わたしは、父をなくしているせい か、先生が大好きだった。先生の背中は、お父さんの背中のように、大きくて広かった。とても からだ ほとけ せなか 149

たよりになる先生だった。 学校生活の中で、どうしても忘れられない思い出が一つある。それはお弁当の時間だ。家で炊 あさねばう 事当番のわたしは、朝寝坊して食事のしたくが出来ないときは、朝飯食べす、弁当持たすという 日が何回かあった。そんな時は、例のグループのピョ子のお弁当を半分もらって食べたりした。 、バンは配給品で、店では売っていない もちろん牛乳なんて、とん そのころは売店などなく くら仲よしで でもない。「茶腹もいっ時というから、あとは水を飲んでがまんするのだ。い も、人のものをもらって食べるというのは、とても恥すかしく、みじめだった。ピョ子は、 「エイちゃんは、お弁当作る人がいないんだから仕方ないよ。」 といってくれたが、やつばりつらかった。この頃は、皆お弁当のふたを半分位しかあけすに食べ ′じゃがいも / 〃かばちゃ″の蒸したのを持って来る人。また大 ていた。それは〃さつまいもみ こんば 小麦粉の 皮の部分 根葉入りご、ふすま ( ) 入りバンと、まともなお弁当を持って来れなかったからである。 つうしよう なかには通称〃ぎんしやり″といった白米ご飯の子も二、三人はいた。ふだん明るい教室が急に ひっそりして、だれもかれも黙々と食べている。みんなは少しでも早くお弁当を食べて、教室の ん 外に出ようとしていた。暗い雰囲気から一刻も早く逃げだしたいというように。 ころ 150