サッカーダイジェスト 2016年10月13日号

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見幸隆は、タイ遠征中の食事の席で 活動してきたが、小平市に「むさし」出場し、優勝しています。このチー を新設したばかりで、挨拶に来たのムにはのちに東京 > に進む仲間が 6 「僕は何でも食べられます ! 」と宣 57 人いたので、また一緒にやりた言した選手を、逆に突き放した。 は当時育成責任者の城福浩だった。 「間違いなく、 6 年後にはプロにし い気持ちもありました」 ( 拓也 ) 「だからおまえのサッカーはダメな 東京都第 4 地域 ( 当時 ) から東京んだ。それはおまえの健康のために ます」 はいいよ。でも食事や女にこだわり そう力説する城福は、やかてー 都トレセン ( 男女共通 ) に選ばれた ルのないャツは、サッカーにもこだわ 日本代表監督を経て、トップチー のは、祐希と岩渕真奈 ( 現バイエ ムの監督に就任していく。 りを持てない」 ン (l) だけだった。ちなみに埼玉国 一方で東京 > は、対照的にシヒア際決勝で対戦したのは青森トレセン感受性が強く、賢明でこだわりを な現実を突きつけた。 で、祐希より近くも大きかった持っ祐希は、東京 > のスタイリッシ 「もし中学 3 年間取り組んでみて、 柴崎岳 ( 現・鹿島 ) か身体能力、技ュな本物志向に魅き寄せられたに違 しない東京 > に進み、「親は本当 サッカーに向かないと判断すれば、術ともに抜けていたという。 別の道に進むように指導します」 「それに東京 > シュニアユースの菅に楽になりましたよ」と拓也は吐露 LLO 東京むさしなら自転車で通え澤大我監督の言葉も新鮮に響いたよする。 うです。練習に通う時なども、ジャ 「鼻っ柱が強くて、自分がプロにな る。父・拓也は「そのほうかいした ージではなく、お洒落にも気を遣えるとか、目の前の試合に勝っこと以 ろう」と勧めた。しかし祐希が選択 したのは、諸手で歓迎の意を表わしるような人間になれ、と。そんなこ外は眼中にないような子でした。だ から周りに少しでも気の抜けた緩い た I-LO 東京むさしではなく、自己責とは他で言われたことがなかっこ、。 プレーをする子がいると、そのまま 任での競争参加を提示した東京 > のすからね」 ( 拓也 ) = = ロ葉にして、怒鳴り飛ばしてしまう。 ほうだった。もちろん判断の基準は、 それは連綿とー 担当者の挨拶だけではなかった。 ルディ主義を = ロえる、もしれない 祐希がこの子にこんなことを一言っ た、という話が次々に僕の耳にも入 「夏には東京トレセンで埼玉際にかってユース日本、を指導した小 ってくるので、そのたびに謝りに行 きました」 いト献 デ しかし、東京 > の保護者たちはま」一」簸 てチをも埼会希 , ったく違った。拓也が過去の祐希の えッ員ルで大祐目 表はキでゴセカ勝 3 経緯を話すと、一様にこんな反応が一一やるんです。そのくらいのことは言第 ) で、一きつく = = 〔葉を発する中のひとり 弋代ルのレッ優ら ( 一ッめ一 ( デ ( ってもらって構いません逆にそんを婆その程度ですよ。中島翔哉なんか 時めブてトサてか返ってきた。 : ト決 生務リっ都上し右 表学をド去京際場列 「ここではみんなかプロを目指してなことでシュンとしてしるようでは、もっと言っていましたからね」 節勝 御抜玉にい 一方で冨樫は。こんな語りかけを 厳しい世界で戦えない」 まンゴ戦移 とポ決一ビ完 実際彼らが中学 2 年時から指導に ( ~ 繰り返した。 にでゴゴ 場で戦初工、 ) ~ 当たった中村忠 .. ( 現 LLO 東京コーチ「日本語は面白いぞ。一同じことを伝 出 , 分 1 ッ 手昇ャ の戦大¯' ルエ 兼ー四監督 ) は、個々の技術水準 ~ ( えたつもりでも話し方次第で相手 入格に選ムキ籍合媛・でヘ ンヒ に昇ム一一で移試愛節戦 に一カチ歳き籍 1 ・終宮ア とプロを目指す意識の高さに驚いた。 ( 一の受け取り方か違ってくる。大切な > > 代 スでサ団一出スチップ四付移る節最大ニ 「トレーニングから本気で削り合い のは、伝えられた側か次にどんなプー ヒ市で団入、選一プサツの限全なたのス〈 こュッスト少期完と ( っ節ポ cn 東東一 山園入に . , 稚こ o イ表イト一の年にに少陣か 5 の門 レ」をするか、だからな」 をするぐらい殺気立っていました 9 《ー ニ東幼 LL デ代デでユン最田田最初懸ジプ名節節 都りØ京ル本ル生プズ上磐磐後のの一ツの 3 表 チーム内には先へ進もうという意 きつい言い方をする選手は、伝統的 、、、京ど一東エ日工年ラ一史ロロり督格テカダ おういっ “東みデヴヴ 3 クシブビビ入監昇スンン 2 2 摩ン 0 京一京校本年ラュュロ波 1 1 リラ場点 にどの代にもいましたからね。見方 ( 欲か横溢していた。冨樫が続ける 希多サ語東東高日ⅱクジジプ名第キオ出日得日 初幻初 を変えれば彼らはしつかりと喋れ「トレー一一ングの途中で給水をして 月月月月月月月月月月月月グ月グ月表 9 ⅱ 4 6 8 一 3 一 8 】代 るタイプでもあるわけです。祐希は、もみんなダッシュで戻って来て『次 林年年年年年年年年年年年年年 へ 0 4 ・ 5 ) ( 0 高木善朗やキローラン木鈴らと並ん一は何をやるんですか』と聞いてくる。 ◆◆【 そしを 6 当時の東京 v J 「ユースは、小林の他に高木善朗⑦など創造性豊かな選手が揃っていた ・東京 v 監督の冨樫も若き日の小林を指導。当時から重要度の高い選手だったという 310 年の日本クラブュース選手権ではチームを優勝に導き、自身も大会 MVP を獲得した 41 ″嫐覆ー

録 2 4 回 こちらはトップチーム入りから逆算 えてきていたが「あくまで日程通り て、今何をしておくべきかを考え に試験を受けなければ落第」と、ま ム てメ、一一ユ・を構築していくんですが ったく融通のつけ入る隙がなかった。 わ 彼らは我々が設定した枠をどんどん見 入学して ( わずか 1 か月後祐希 訪 探 から拓也に連絡が入った。 監 広げいくんです。コーチ、ここは しいですか ? ここまでチ 「やつばり学園生活は、もう諦める を 兼 い / ) ノしてもいいですか ? と、 わ。一とても無理だ」 チ コ そんな質問が途切れない。逆に僕ら、 「だったら制服を作る前に = = ロえよ」一。 「オレだって少しくらいは学園生活 , 、のほうが彼らの発想を引き離せるウを 9 を送ってみたかったんだよ : : 一・」 現 ように努力をしなければいけないと一フ チ これで退路は断たれた。通信制高 考えせられました」 チ ( ムはナイキ・プレミアム・カ 校に転入した祐希は、完全にプロの 、プで全国制覇を果たし、 2 年時に にポ一 道を邁進することになる。冨樫が記 ス は世界会に出場した。ところか祐 憶の糸を手繰り寄せる 「ウチには祐希と同じように通信制 よ、この番を剥奪され、苦悩つつ の日々を送っていた。 に切り替えた選手が何人かいたので、 「腰の剥離骨折をして離脱。また半 午前中は各コーチが交替で授業をし 当 年くらいの間に身長が急激に伸びた ました。僕は映画を見せて感想文を 忠 書かせたり、ディスカッションをさ ので、その感覚を掴むまで数か月間てま せたりしていたんですが「』映画鑑賞 はかか 0 たようです」 ( 父・拓也 ) 習後中 中にシーンとした部屋でシクシク泣 挑戦、通信制高校に転入 : き声が聞こえてくる。見れば祐希で 苦難を乗り越え逞しさを増す した。でもどこで教わったわけでも 世界大会のメンバーから外れた祐日は何食わぬ顔で練習をする。そう しましたね」 ( 冨樫 ) かすでにユースに昇格していた宇ないのに、感想文を書かせても面白 希は、 1 歳上のチームとともにブラ いう時期だったので、各指導者間で雌伏の 1 年間を経て、祐希は徐々佐美貴史 ( 現アウクス、フルク ) 抜きかったし、ディスカッションでも = = ロ ジル遠征に参加している。再び冨樫はなるべく祐希の情報を共有し、何 に元気を取り戻していく。 3 年時にの O 大阪に逆転を許しただけに、ま葉の組み立てなどに、とてもセンス の証一言である。 さかの敗戦で涙に暮れた。 かあったらどう対処するか話し合う夏のークラブュース選手権 ( 福 を感じました。本当に喜怒哀楽がは だが元日本代表選手らしく ( 中 「番を奪うのは、丸山浩司監督、ようにはしていました。クラブにと島ヴィレッジ ) で、でプレー 村つきりと表われる少年でした」 中村コーチと 3 人でしつかり話し合 って重要度の高い選手だという認識をする祐希を見る機会があった。 は育成年代の選手たちに伝えている 名波監督に救い上けられると って出した結論でした。この頃の祐は、揺るぎませんでしたからね」 すでにグループリーグ突破を決め「結局サッカー選手は、フル代表に 目標から 5 年遅れで日の丸を 希は、険しい山道で必死に歩を進め危うい時期にはなど、いくって勝敗に神経質になる必要のない試入った者勝ちです。 ) 一それまでの過程 る。そんな状態だったと思います。かのポジションに挑戦させている 合だったが、試合後に「はない ではみ今はただ思い出作りをしてい 一、・祐希世代が歳を迎えた 2010 サッカーに限らずストレスを抱え、 「はアウトサイドの重要性を認よな」と声をかけると「サイドからるだけだよ。と話しています。もち一一 ~ 年 ( 東京 > ュースは快進撃を見せた。 何度か爆発した。僕が首根っこを掴識させ、受け手の景色も見ておいて組み立てているんです」と満面の笑ろんその時、本人は悔しいでしよう。夏にはクラブュース選手権を制し まえてビッチの外へ放り出したこと ほしかったんです。外からゲームをみを見せた。だが歴代でも最強と目でも、僕らは足りないとにろを指導 ( 祐希は >>Q ) 、さらには慶応大 もあります。でもそんなことがある組み立てたり、 3 人目の動きをしてされた東京 > は、それぞれクラ、フュし続けるだけですからね」 ) 横河武蔵野など大学や社会人の強豪 そんな狙いかあ と、夜には决まって携帯電話に連絡受けさせたり・ ース選手権では京都、全日本ュース その後、祐希は短期間で受験勉強を倒して、天皇杯の東京都代表の座 を入れてくる。ちょっとこういうこ りました。もちろん最初にをや (D—E) では O 大阪に、決勝で競に集中し、都立高校に合格する「とを勝ち取るのだった。 らせようとした時は、メチャクチャ とで悩んでいて・ : ここか上手く り負けて優勝を逃している。特に国ころが高校側は、頑なに学業最優先一」「手のつけられなし活躍でしたね。 いかなくて : と謝罪をしてきま不満そうな顔をしてきました。だか立で行なわれた全日本ュース決勝は、の姿勢を崩さない。中学 3 年時以降グラウンド中を走り回り、ドリブル、 した。そこでいろんな話をして、翌らしつかりと狙いは説明するように 祐希自身は鮮やかなゴールを决めた は 0 年代別日本代表の合宿などが増のフィニッシュ、 I-LY と、勝利に直結 4 9 東京 v の下部組織を指導した中村。 18 歳の 小林は「手がつけられなかった」と振り返る プロ 2 年目の 12 年、東京 v の 10 番を背負う とともにクラブ史上最年少で主将を任された 国磐田では降格と昇格を経験。 14 年、名波監 督にトップ下へ抜権されたのが転機となった 田磐田でのラストゲーム後に家族と記念撮影。 「応援し続けてくれて本当に感謝している」 3 / Ca

Yuki KOBAYSHI PROFILE こばやし・ゆうき / 1992 年 4 月 24 日生まれ、東京都出身。 。 JACPA 東京 FC—東京 V Jr ユースーー東京 V 182 享 ユースー東京 V ー磐田一ヘーレンフェーン ( HOL ) 。工ー デルディビジ通算 1 試合・ 0 得点、 J 1 通算 36 試合・ 5 得点、 J 2 通算 138 試合・ 14 得点。独自の発想力と技術 を併せ持つ天才レフティ。目標とするロシア・ワールド カップ出場のため、今夏にオランダの名門へーレンフェ ーンに新天地を求めた。今年 6 月に日本代表デビューを 飾ったばかりだが、闘争心剥き出しで定位置奪取を狙う。 CAREER RECORD ( 9 月 15 日時点 ) リーグナビスコ※天皇杯 年所属 Div. 試得試得試得 2010 東京ヴェルディ ( 2 種 ) 2 11 東京ヴェルティ 2 34 2 12 東京ヴェルディ 2 24 4 ジュビロ磐田 13 ジュビロ磐田 14 ジュビロ磐田 15 ジュビロ磐田 2 40 6 16 ジュビロ磐田 24 工ールディビシリーグカップ KNVB カップ 年所属 試得試得試得 15-16 ヘーレンフェ - ン ( HOL ) 1 HOL = オランダ。※ナビスコカップは今年 6 月にルヴァンカップに名称変更。 Div. OFPH/MUSTAFA GUMUSSU 」 A 0 Kik} するパフォーマンスを見せ続サて、 ししずっとこだわり続けた背番号は、一 ました。とにかく練習でも真っ先に気に 5 倍 ( ↓ ) に増えた。 グラウンドに現われ、最後まで残っ しかもさらに逆風は強まる「クラ てポールを蹴っていた。そんな祐希プはに降格し、翌年完全移籍に一 の姿を見て中島翔哉も同じことを ( ) 、切り替えた祐希は、シースンを通し てわずか 1 試合しかリーグ戦のピノ ・・ ~ していたんです」「 ( 中村 ) 一 T もうュースでのゲームを見る限り チに立てなかっ夫。 同じ年代でやるべきことはすべてで 祐希は 2 度目の大きな試練に直面 していた。、しかし、監督として古巣 きてしまっていた。早くトップに触 れさせないと成長速度が落ちてしま。、の磐田に戻って来た同じレフティの う。クラブとしても、そう判断して・ ~ , 名波浩がどん底から救い上けた プロ昇格以降は一真してボランチと 参加させていました」 ( 冨樫 ) ) こうして順調にトップ昇格を果た」 - してプレーをしてきた祐希をトップ な語 さを かしした祐希は、その 1 年後には浦番を , 下に引き上げ、レギュラーとして使 はと背負いキャプテンマークを巻くこと ( ) い続けるのだ。 になる 改めて冨樫が振り返る しかし、それは冨樫にとっても寝 . 「 T 東京 > 時代にボランチとして起用 も上 にしたのは、河野広貴との共存も含め 」 4 第 , 外引耳に水の出来事だったゞ 「番はともかくキャプテンにはたチーム事情です「 ( 攻守に携わるこ 、をたい本当にビックリでした。川勝良一監とで、もう一歩先に、という思いも 4 、は〕えの 当・据界 ( 督から聞いた時は、 ) ~ ェッと絶句しまありましたでも一方で、トップ下 ぐををを ) したよ」 こそが適性で ) どこかのタイミング 冨樫は川勝に聞き返した。 で戻そうとも考えていました」 「で、祐希 , 一どうでした ? 」 数年前から海外移籍を視野に入れ 「喜んでいたよ」 ていた祐希は、自腹で英語の家庭教 はエ それは思し切り過ぎだろう。も 3 師を雇い〈話に磨きをかけてきた。 う少し相談をしてくれよー 目標を掲げ、そこから逆算して脇目 工 < 冨樫は、 ~ ~ そんな心の声をグッと呑ー「 ~ ) ~ 〔も振らずに行動を起こす。それを丹〈・ ン月 レ 6 み込んだ。 念に積み重ねて「ようやく目標から 、一年 「祐希は非常に責任感の強い子です。 ( ) 。 5 年遅れで日の丸をつけた。 でもまだチ「ムを牽引し、動かして 冨樫の口調は。確信に満ちてした。 いく人としての膨らみは足りていなー「途中で横道に逸れ、 ( ~ 曲がりくねっ かった。ー難しい人間関係もあり、気、一ーた道を歩む者もいれば、タイミング がつけは喜怒哀楽がすっかり少なく。一」 ) 悪くよそ見をしてしまう者もします なっていました。コーチとして何かそんななかで、祐希はすべてをサッ できることはないかどうしたら若 ) ーカ」に懸けて、ブレずに信じた道を いキャプテンを盛り立てていけるの : ) ) 縦に突き進んで来た。それが一番 ( の 第かいろいろ考えたんですけどね」。、成功の要因 ) , です」 結局、 ' 東京 > の新しい顔として飛 ) 大きな夢が依然としてはるか彼朋 躍するはずだった四歳のキャプテン方にある。し力し少しずつだが、着 は、その夏磐田へレンタル移籍する。実に近づいている一一〔 ( 文中敬称略 )