剣道日本 2016年5月号

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面の収めから小手 ぐに次の攻撃へとつなけることができまけの左足のニ歩目、そしてさらにもう一るね』と言われるんですが、その理由は 体をまっすぐに前へと運び、相手へとぶ 歩、右足の踏み込みを意識することで体体勢を保っためなんです」 つかっていく。 勢を崩すことなく身体を前に出していけ 「体勢を崩すことなく身体を出していけ意識するのは三歩目の踏み込み ば、もしその技が一本にならなくてもす「打突の右足の踏み込みの一歩、引きつる。周りから『何回も床を踏み込んでい 実業団剣士の実戦力竹越充 面を打っ体勢を保ったまま攻めるこ とで相手の手元を浮かせる 撮影協力久田松雄一郎三段 ( 早稲田大学剣道部 ) 779 剣道日本 2016.05

高﨑慶男 剣道病に罹ったら 処方箋が必要なんです 新連載◆剣に生きるー第 1 回 歳 ) 剣道を再開したのは、 34 歳のとき。 以来、銀行員という多忙な職にありながらも ブランクを作ることなく稽古を続けてきた。 58 歳で取手市に移住。 64 歳のときに国体の茨城県代表になったことが、 大きな転機となった。 ( たかさきよしお ) 大正 12 年 1 月生まれ。石 岡農学校 ( 現・石岡第一高校 ) 卒業。昭 和 27 年に関東銀行 ( 現・筑波銀行 ) へ入行。 取締役本店営業部長、取締役経理部長 などの役職を経て、昭和 62 年に退職。平 成 9 年八段合格、平成 19 年範士。全日 本高齢剣友会名誉会長、茨城県剣道連 盟相談役、戸頭剣友会師範を務める 撮影Ⅱ窪田正仁 2016.05 剣道日本 720

千葉県松戸市にある松風館道場に高﨑城県の稽古会などが主な稽古場である。ていないという。あとは、節度ある日常たが、その地その地で稽古を続けた。七 慶男範士は 1 カ月に 3 度訪れる。季節 1 カ月で 75 川回程度、が現在の稽古回生活を送ることが範士にとっての健康法段になったのは、歳のときである 大きな転機となったのは、取手市に移 である。「親が授けてくれたんじゃない 外れの暖かさに見舞われた 2 月日 ( 土 ) 数である それにしても、七段や八段を目指すかの、 ( 他の運動を ) やらなくてもいいようり住んだ歳のときである。近隣にある は月 1 回行なわれる「高段者稽古会」の そうちかん 相知館道場へ通うことになり、ここで指 日だ。館長の岩立三郎範士八段は不在だかり手に対し、高﨑範士は面で勝負を挑に。親に感謝」と範士は笑った。 導をしていた今井三郎範士と出会った。 ったが、八段が川名近く元に立っ光景はむ。そして、とても囲代とは思えないバ 引っ越しした自宅近くで 銀行を退職したのは歳のとき。ちょ 壮観。その中央に、高﨑範士は立っていネが感じられるのだ。 1 時間の稽古のほ 竹刀を音を久しぶりに聞き うど同じ時、予選を勝ち抜き、国体の茨城 た。医者から「あまり長く稽古をしない とんどがその面技で、小手を出す回数は 「ああ、そうたな」と 県代表として出場することになった。大 ように」と言われていて、分から 1 時ごくわずかである 川歳のころから剣道を始めた。剣道は将という重要なポジションである 間程度が、 1 回の稽古時間である。この 「山内富雄先生が書かれた『剣談』とい どう せいきわ 「引歳で国体の大将になって、自信が少 う冊子の中に『静極めれば動に発す』と好きだったが、時代は太平洋戦争のさな 日の稽古を終えて開口一番、 か、終戦時は中国北部にいた。左手の甲しついてきた。それを機会に本格的な剣 「結局、 1 時間立っちゃったな」 いう講話があります。『静』とは静止では は′、けきほ - っ と笑いながら記者につぶやいた。 なく、相手に起こるあらゆる現象に適応には、夜間戦のときに受けた迫撃砲によ道を習うようになった。そのとき今井先 生に出会い、気持ちが入れ替わった。先 狭心症、肺気腫、無呼吸症候群といつできる技能を培いつつ、その展開に対応る傷が残っている する態勢を整えている状態。『動』は、相「当時三段を持っていたので、上官から生に稽古をもらって、八段の強さを思い た大病を経験した。 「歩くと苦しい、階段もダメ。でも剣道手の動きに対応する瞬間、『技』となって『一本やろう』と言われたものです。で知らされました。 今井先生からは、『剣道は対人技能を練 だけできる。自分でも不思議。なんだろその目的を達する姿です。自分を『静』にも、戦闘に参加しているからそんなには 追い込んでいくと、必ず相手は動かざる稽古はできなかった。四六時中、死と背中磨することであり、人と人との結びつき うね ( 笑 ) 、これは自分でも分からない ただ、気持ちの上の要素もあるでしようをえないときが出てくる。そのときに頂合わせのむごい体験もしています。戦争が大切なのた』と教わりました。それが ね。我々の年代になったら若い人が育っ点に達するように自分を持っていくのでというのは、やっちゃいけませんよ。だ今も続いている生きがいのひとつです」 てもらいたいという気持ちがある。だかす。この講話を何度も読み返しては試行けどその当時は、好む好まざるに関わら茨城県剣道連盟の宮本忠彦元会長から らク張った稽古クを忘れないように努力錯誤した結果、右膝を内側にしばることす ( 戦地に ) 行ったんですから。だから運は、顔を合わせれば「最初に稽古をやろ 力いいということです。生きられたとい う」と剣を交える間柄だった。 しています。元立ちの務めとは何か。そによって相手に対し『打ってください 「宮本先生からは、『機関銃の打ちより大 れは、自分だけ良ければいいというものと体勢を若干前かがみにして相手の出方うことは」 歳のときに終戦を迎えた。銀行員と砲の一発』という、無駄を省くことや攻 ではない。伝統文化とは続けていかなけを読む。この状態でク張るように、と言 ゞ 4 めの強さ、気当たりの重さを、イヤとい い聞かせています。そこから攻め勝ってなり、茨城県潮来支店に転勤したのカ 3 ればならないもの。その役目がある。伝 統文化を大事にするのが日本人じゃない乗り、溜めて割って入る面を打っことを歳のころ。自宅の前にあった麻生高校かうほど教えこまれました」 ら竹刀の音か聞こえてきた。 国体出場を機に、八段を受審。合格ま 心がけているのです」 ですか」 「『ああ、そうだな』と。それが再開のでに一次審査を 4 回通過し、念願の八段 1 月日で歳を迎えた。 歳を過ぎてからは、稽古の回数を意 識的におさえるようにしている。高段者「この歳になっていろんな方と話ができはじめです。道具も何もないので、はじになったのは富歳のときであった。出稽木 稽古会の他に月 2 回、松風館道場で行なて稽古ができることがありがたいです。めは借りてやりました。やれて良かった、古も重ね、もっとも多いときは年間で 2 道 うれしかった」 80 日稽古をしたこともある われているシニアの稽古会に出席。高﨑命冥利というのかな」 以降、勤務地も茨城県内を移り変わっ 「『 ( 八段を ) 受けてみよう』という方が 剣道以外には特別な運動はいっさいし 範士が暮らす茨城県取手市の稽古会、茨 いのちみようり