「医者はいた、婦人科の医者がね。二人も」 「婦人科の先生が二人 ? じゃ、女ばかりだったの ? 」 「逆だ、女が足りなくてね。婦人科医は二人もいるが、ほかの医者は全然いない。設備もない。 ぼくの血沈は六十もあったんだが、だれも知らなかった」 血液の検査をすることもできない。 「まるで悪夢だわ ! それなのに、また治療をやめることなんか考えてらっしやるの。御自分を 粗末にするのはあなたの勝手だけれど、せめて肉親の方のこと、子供さんのことを考えてあげ なくちゃ ! 」 棟「子供 ? 」本をめぐっての今し方の愉央な騒ぎが夢の中の出来事だったように、コストグロート きび フはふと醒めた表情になった。顔は元の厳しい顔に返り、口調は緩慢になった。「ぼくには子供 なんか、いない」 「だったら、奥さんのことを考えてあげなくちゃ」 ガ男の喋り方はいっそう緩くなった。 「奥さんもいない」 「男のひとはいつもそう言うわ。じゃ、家のことをいろいろ整理したいっておっしやったのは、 どういうこと。朝鮮人にそう言ったんでしよ」 うそ 「あれは嘘をついたんだ」 「じや今、私にも嘘をついてらっしやるかもしれないわね . ほんとに」コストグロートフの顔に重苦しい表情が浮んだ。「ぼく 「いや、そんなことはない、 は選り好みが強いうだから」 ゆる
「破けるよ、図書館の本だろうー しいから、貸しておいてくれよ ! 」 丸みを帯びた肉づきのいいゾーヤの肩と、丸みを帯びた肉づきの、 しい小さな腕は、白衣に覆わ れてはち切れそうだった。頸は細くも太くもなく、短くもなければ長すぎるほどでもなく、たい そう釣合いがとれていた。 本を引 0 張り合って二人は接近し、み合った。コストグロートフの不格好な顔が笑いに崩れ あお た。すると恐ろしい傷跡はそれほど気にならなくなった。顔色の蒼さは生れつきのものかもしれ ない。本を掴んだゾーヤの指を自山なほうの手でそっと引き離しながら、コストグロートフは囁 巻き声で説き伏せようとした。 「ゾーエンカ。あんただって知識と進歩の味方だろう、無知の味方じゃないたろう。だったら他 人の勉強の邪魔をすることはできない筈だよ。さっきのは冗談さ、逃げたりなんかしないから」 ゾーヤも囁き声で粘り強く答えた。 わがまま 上「あなたはそんなふうに我儘たから、本を読む資格はないのよ。ここに入院したときだって、ど うしてもっと早く来なかったの。どうして虫の息になるまで入院しなかったの」 「あああ、またその話か」とコストグロートフはかなり大きな音をたてて溜息をついた。「交通 が不便たったからさ」 「交通が不便だなんて、そんな場所あるかしら。飛行機ででも来ればよかったのに ! それに最 後の最後まで放っておく手はないわ。あらかじめ、もっと文化的な場所へ移ることもできたでし よう。あなたのところにだって、医者か、でなければ助手ぐらい いなかったの」 ゾーヤは本を放した。
にわ 俄かに健康体に返ったような、執拗な頼み方だった。 ゾーヤは決心がっかぬまま、机の引出しに手をかけた。 「そこにあるの ? 」とコストグロ、ートフが見破った。「ゾーエンカ、貸してくれ ! 」そしてもう 手を差し出した。「この次の当直はいっ ? 」 「日曜日の昼間よ」 「じゃ、そのとき返す ! よし ! 決ったね ! 」 棟 なんという気立てのやさしい、倣慢なところの少しもない娘なのだろう、金色の前髪を垂らし、 わずかに出目ぎみのこの娘は。 病 ところでコストグロートフは、枕で癖をつけられた自分の硬い髪の毛が前後左右に突っ立ち、 頸のあたりのボタンをかけ忘れたジャケツの下から、いかにも入院患者らしいだらしのなさで、 ガ支給品のキャラコの下着が飛び出ていることには気づきもしないのだった。 「よかった、よかった」と、コストグロートフは本を開き、さっそく目次に目を走らせた。「た いへん結構。これで何もかも分るそ。どうもありがとう。こっちが・ほゃ。ほやしていて、やたらに 治療を引き伸ばされたんじやかなわねえからな。医者なんて、カルテを埋めてさえいりや満足な んだ。ひとつ、ここらでぼくも逃げ出すかな。薬好きは万病の元と俗に言うくらいだから」 「まあ、呆れた ! 」とゾ 1 ヤは両の掌を打合せた。「本を貸した途端にその調子なのね ! 返し て、その本 ! 」 そしてゾーヤは初めは片手で、次に両手で本を奪い取ろうとした。だが男は本を放さなかった。 あき ・こうまん しつよう こわ