120 「ギリシア語でウーティス—> ・ ?-« は〃誰もいない〃という意味なのだ」 キジマは言葉をつづけた。 つぶ 「この答えを聞いた巨人の仲間たちは、閉ざされた洞窟のなかには、眼を潰された巨人本 人しかいないと思い込む。そして彼らは〃お前を害する者が誰もいないのなら、祈る以外 仕方がない〃と言って帰っていく。悪賢いオデュッセウスは、まんまと巨人の手を逃れ、 ふたたび放浪の旅をつづけることになる : : : 」 キジマはぎろりとした眼を私にむけ、頬を引きつらせるようにして、かすかに笑った。 「″誰もいない〃、もしくは〃誰でもない〃 という偽名を使って危地を脱するのは、なにも 『オデッセイア』のオリジナルというわけじゃない。世界各地の民間伝承にみられる共 通の挿話だ。たとえばこの国に古来伝わる神話にもよく似た話があって、その点をもって 〃古代の日本と古代ギリシアのあいだで文化的交流があった〃などという珍説を唱える者 もあるそうだが、なに、結局は人間の考えることなど、どこでもたいして変わりはないと いうだけの話だ」 私はタバコを一服し、煙の行方を眼で追いながらキジマに言った。 「きみのおかげで謎が一つ解けた」 キジマはかすかに肩をすくめてみせた。 「だが、別の疑問がでてきた」 キジマが、私にむかって無一言で目を細めた。
トーキョー・プリズン 119 「オデュッセウスは、帰還の途中に立ち寄った島で、人食いの巨人キュクロプスの洞窟に 閉じ込められる」 キジマは低く呟くような声で物語った。 オデュッセウスは、多くの部下を食われながらも、策略を巡らせ、巨人を酔いつぶす こどに成功する。 人食い巨人が酔いつぶれたのを見計らい、オデュッセウスは部下たちど力をあわせて、 先を尖らせたオリーヴ材の丸太を用意し、それを巨人のたった一つの眼に突き立てた。 すさ 巨人があげる凄まじい悲鳴を聞きつけて、仲間の巨人たちが集まってくる。 洞窟の外から、彼らは尋ねる。 『その悲鳴はなんだ ? 誰がお前を殺そうどしているのか ? 』 眼を失った巨人は、オデュッセウスから聞いた名前を思い出し、こう答える。 俺を殺そうどしている者はウーティス。 「なるほど。確かに : うなず 私は該当の箇所を見つけ、キジマが話す内容を確認して小さく頷いた。 どうやら、ポビイ・ビーチ一等兵がドアごしに聞いた謎の言葉の正体は、ミラー軍曹が この『オデュッセイア』の物語を声に出して読んでいたものだったらしい どうくっ
118 身を乗り出してたずねると、キジマはなにを思ったのか、白いシーツの下で腹をふるわ せて、くつくっと笑いだした。 「なにがおかしい ? 」 「″独り住いのお前に暴力をふるった者が誰もおらぬとすれば、大神ゼウスが降す病いは 避ける術がない。せいぜい父神ポセイダオンに祈るがよかろう〃」 し / し・ ・ : ? ー私は眉をひそめた。 「その本を読んだことがあるか ? ーキジマは、私が手にしたままの本を眼で示してたずね こ 0 私は質問の意図を訝りつつ、首を横に振った。 「『オデ = ッセイア』は、『イリアス』とともに、古代ギリシアの伝説の詩人ホメロスが作 ったとされる二大長編叙事詩だ」 キジマはふたたび天井に視線を移し、淡々とした口調で言った。 がいせん 「ギリシアの英雄オデッセウスは、トロイア戦争から凱旋の途中、神の怒りをかって十 年におよぶ漂泊を余儀なくされる。物語は、彼がその放浪の旅のあいだに出くわしたさま たん ざまな怪異譚と、故郷に戻って後、彼がいかにして不在中の不正を正したかを描いている そして、第九歌〃隻眼の巨人キュクロプスの物語〃に、ウーティスという言葉が出 てくる」 目次を確認し、急いで手元の本のページをくった。 いぶか くだ