げし ① 込みがある円板状をなし、子房の上にかぶさる。日本ではその栽培、乳液の採取、アヘン製子である。日本には平安時代にもたらされ、ケの日である。太陽の視黄経が九〇度に達すると きで、現行暦では六月二一日ころにあたる。こ シの種子を焚いてその香りを衣服に移したこと る。果実は末熟なときは淡緑色で白粉を帯びて造、販売などは「麻薬取締法」「あへん法」に が『源氏物語』に載る。江戸時代には観賞以外の日太陽は赤道からもっとも北に離れ ( 赤緯一一 おり、熟すと黄褐色となり、光沢がある。径数よって厳しく制限され、花が美しいからといっ 、若葉を野菜として、また種子を炒って食用三度半 ) 、北半球では一年中で昼の時間がもっ に達し、花柱の下部に小孔を生じ、風に揺らて庭に植えることも禁止されている。観賞用の 〈湯浅浩史〉 とも長く、夜の時間はもっとも短い。北極圏で れるとその孔から種子が落ちる。種子は小さい ヒナゲシ、オニゲシなどは葉の切れ込みが深 じんぞう ) アメリ は終日太陽は地平線下に没することはなく、 腎臟形で、数が非常に多く、白色または黒色でく、 基部が茎を抱かす、全体に毛が多く、緑色ケージ John Cage ( 一九一一一ー ある。これを芥子の実 ( ポビーシード ) と称であるから容易に区別できる。アヘンは、未熟力の作曲家、哲学者。ロサンゼルス生まれ。一わゆる白夜の現象を呈する。これに反し、南半 し、古くから料理に用いられている。↓ポピー な果実の表面に縦または横に数本の浅い切り傷九三〇年代には半音階的な作品を残したが、四球では昼は最短、夜は最長となり、南極圏では しんしゆっ をつけ、乳管を切断し、数分後に滲出した乳〇年代に入るとマース・カニングハムらのモダ終日太陽は地平線下にあって姿を現すことはな 。↓二十四節気 〈渡辺敏夫〉 ン・ダンスのグループと仕事を始め、打楽器、 乳液中にモルヒネ、コディン、テパインなど液の凝固したものを竹べらでかき集め乾燥した 〔気象〕北海道を除く日本の本土は、夏至の前 約二五種のアルカロイドが存在し、それらが鎮ものである。成熟した果皮 ( アヘンをとった残プリペアド・ピアノの作品を残す。五〇年代に おうぞくこく ちんがい ししゃ は『易の音楽』 ( 一九五 l) 、『四分三三秒』 ( 一九五一 l) 後およそ二〇日ずつが梅雨期間である。すなわ 静、鎮痛、鎮咳、麻酔、止瀉作用をもつので薬殻 ) を漢方では罌粟殻と称して、鎮咳、鎮痛、 〈長沢元夫〉 に代表される禅や易思想を背景とした偶然性のち夏至以前の一一〇日間は梅雨前期にあたり、こ 用として栽培される。また種子に脂肪油を五〇止瀉剤として用いる。 こでは雨量はさして多くないが、しとしと型の % も含んでいるのでそれを、食用や油絵の具用〔文化史〕新石器時代のスイスの湖上住居遺跡音楽に向かい、世界的な名声と中傷を集める。 の芥子油として用いる。ケシおよびセティゲル から、食用にされたらしいケシの一種セティゲテープ作品『イマジナリ・ランドスケイプ第五長雨が続く。夏至以後、七月中旬の梅雨明けま ム種の末熟果実から得た乳液を乾燥したものをルム P. s ミをミミ DC. の果実と種子が出土番』 ( 一九五 = ) 、コンピュータ作品では梅雨後期にあたり、集中豪雨型の大雨が断 工続する。前期と後期の中間のおよそ夏至のころ している。ギリシア時代には、すでに果実の催 Q 』 ( 一九六五 ) 、どんな演奏形態も可能な『バリ アヘン ( 阿片、鴉片、 opium) といし ーションズ—』 ( 一九五 0 、サティの原曲を易によ は、梅雨は中休みをすることが多く、そのよう コ、エジプト、ユーゴスラビア、イラン、イン眠性が知られていた。ケシの名は「芥子」から なときには一時、真夏の晴天が現れるが、これ ド、インドシナ半島、中国などで多く採取され由来したが、中国の本来の芥子はカラシナの種って組み替えた『チープ・イミテーション』 からっゆからっゅ ( 一九六九 ) などにおいて、図形楽譜、コンタク が持続して空梅雨 ( 洞梅雨 ) となってしまうよ うな年もみられる。このように夏至は、気象学 ト・マイク、スピーカー利用といった新たな音 楽世界を創造する。主著『沈黙』 ( 一九六 D に盛的には日本の季節を特徴づける重要な雨期の中 〈根本順吉〉 心になっているのである。 り込まれた音楽・芸術思想は多くの反響をよ たじま び、第二次世界大戦後の音楽界で重要な位置を〔民俗〕長野県北佐久地方、兵庫県但馬地方、 じようばう 占めている。 〈細川周平〉岡山県上房郡などでは夏至のことをチュウと いう。わが国では夏至の行事としては取り立て げし「げす」とも読む。①役人で、 下司 しよう ひせん 上司に対して卑賤な職掌のものをいう。②荘て記するものはないが、夏至より一一日目にあ はんげしよう はんげ たる半夏生または半夏という日は農作のうえで 園の現地にあって荘務を執行するものをいう。 まんどころ 荘園領主の政所で荘園のことを扱う上司、上だいじな日とされている。田植はこの日までに あずかり 司と荘園現地の間の連絡にあたる中司 ( 預 ) 終わらないと、「半夏半作」といって収穫が半 に対して、現地で実務にあたるものを「荘の下減するという。大阪近郊では夏至から半夏まで しようじ 司」 ( 荘司 ) といった。所領を寄進した在地のタコを食べる習慣がある。タコの足のように稲 の根がよく地面に広がりつくようにと願うのだ 領主 ( 地主 ) がそのまま下司に任命される場合 もち という。関東地方などでは新小麦で焼き餅をつ と、荘園領主から任命されて現地に赴任するも くって神に供える。島根県や熊本県の各郡でも のとがあった。下司は荘地・荘民を管理し、年 小麦の団子やまんじゅうをつくって神に供えて 貢・公事を荘園領主に進済する。代償として きゅうでんきゅうみよう つくだ いる。熊本県阿蘇地方には、「チュウはすらせ 給田・給名を与えられたほか、佃を給された ぶやく り、加徴米や夫役の徴収を認められたりした。半夏は待つな」といって、田植は夏至よりすこ 平安末期には、在地の下司は世襲となり、国衙しあとに、半夏を過ぎないようにとの言い習わ しき ′」うじしき ぐんじしき 領の郡司職・郷司職を兼帯して、それらの職をしがある。半夏生の日には天から毒が降り、毒 足掛りにして在地領主として成長し武士化する草が生えるなどといって、いろいろの禁忌があ ものが多かった。鎌倉幕府は、そのような在地る。この日竹林に入ってはならぬという。竹の 領主層を御家人として組織することによって成花の咲いているのを見ると死ぬという。また畑 〈阿部猛〉の野菜や果物をこの日食べると病気になるとい 立したものであった。 げし中国や日本の太陰太陽暦の二十う。熊本県玉名郡ではこの日馬にけっして青草 夏至 ひらか しせつき 四節気の一つ。太陽が黄道上もっとも北にあるを食べさせない。秋田県平鹿郡では半夏の日に 夏至点を通過する時刻で、これを含む日が夏至草で目を突くと盲目になるといっている。変わ ①薬用に栽培されるケシ ②アヘンをとるリス族の女性。タイ ③若い果実の表面に傷をつけると , アヘンの もととなる乳液が滲出する えん 165
げさく 前座の落語家が太鼓、笛、鐘などで合奏する。 に、ロ語的表現、長編小説、なお十分でないが 下座のっとめは、まず芸人の登場・退場のとき 性格描写、心理描写、さらには馬琴のごとく人 の囃子で、これを「出囃子」という。東京では 生の理法を作中に述べるなどの試みがみえて、 だいかぐら 昔は音曲か太神楽以外は出囃子はなかったが、 西欧の新作風の輸入の下地をなすものがしだい 一九一七年 ( 大正六 ) 落語睦会創立後、東西の に成長したことを見逃してはならない。戯作者 せんりゅうはなしばん 芸人の交流が始まり、大阪の習慣が移入されて たちも参加した狂詩、狂歌、川柳、咄本など 東京でも出囃子を使うようになった。出囃子は も、同じ表現上の特色をもっている。〈中村幸彦〉 芸人によってそれそれ決まった曲を使うのが普 回中村幸彦著『戯作論』 ( 一九六六・角川書店 ) ▽ 通である。下座はほかに、踊りの地、音曲の伴 中野三敏著『戯作研究』 ( 一九八一・中央公論社 ) きよく ) 一ま どうたく 奏、太神楽・奇術・曲独楽・紙切りなどの囃子 袈裟襷文けさだすきもん銅鐸の身に施され 銅 , 構に表 をするが、その曲はきわめて多い た模様。横帯と縦帯を交差させた一種の格子模 のでが画が そうりよ 大阪では、大部分の噺が音曲入りで、囃子の 文代飾文区文る様。僧侶が着用する袈裟に見立てて名づけられ 襷時装襷る渦れ 裟生の裟す頭さ 入る場面も厳密に決まっているため、下座はと た。四区、六区が一般的であるが、ときには一 袈弥鐸袈成双現 くに重要である。出囃子も東京以上にやかまし 二区の特異な形式もみられる。区画の内部は無 わらびでもん かもん 、囃子を聞けば、二つ目が出るのか、真打が者間の遊戯であったが、しだいに一般化した。文のもののほかに、蕨手文、双頭渦文など幾何 出るのかわかるようになっている。 彼らは社会と遊離した立場から、「うがち」の 学模様を入れたものや、動物、人物、建物など 下座を担当する女性三味線弾きも近年は「囃姿勢をとり、余技のゆえに人生との対決の之し絵画的な図様を施したものもある。〈吉村元雄〉 をる大ざて 子」とよばれるようになったが、しだいに後継 いまま、「趣向」の構成が主となり、文章の妙ケサルテナンコ Quezaltenango 中央 楽ゅ。まれ 者難が叫ばれるようになり、国立劇場では一九を競った。しかし知識人らしく知性・感性に秀アメリカ、グアテマラ南西部の古都。ケサルテ 音わ部さか 座い内め置 ノ / トル 七九年 ( 昭和五四 ) の演芸場発足に伴い、寄席で、なにがしかの思想性の現れたものもあり、 ナンゴ州の州都。サンタ・マリア火山 ( 三七六、 下るのじが 」は器 などの山々に囲まれた標高二三八〇の盆地に 囃子の技芸者養成を実施している。〈松井俊諭〉遊戯文学ながら高級なものであった。 音伎す ' 簾を楽 座舞奏御鼓る 寛政 ( 一大九 ~ 天 0 一 ) のころから知識人たちが位置する。人口四三万七五〇六 ( 一九全推計 ) 。 戯作げさく近世小説の一群をさしていう 下歌演く「・太まい 用。近世では「けさく」ときに「きさく」 月言から身を引き、そのあとに、前期戯作に 一五二四年キチェ族の都を破壊して建設され、 しき さんとうきようでんきよくていばきんじつべんしゃいつく が加わる「唄入り」の場合、あるいは前記の鳴 と読み、幕末に入って「げさく」の読みがしだ学んだ山東京伝、曲亭馬琴、十返舎一九、式一九〇二年サンタ・マリア火山の噴火によって ていさんばためながしゅんすい 物類が単独または組合せの場合、さらに唄・合 いに多く、今日の読みとなった。元来は、戯れ亭三馬、為永春水など専門または準専門の作壊滅的破壊を受けたが、その後再建された。現 方が加えられることなどにより、さま、まな種 につくること、またその作品の意味で、和漢古者が出現し、後期読本、合巻、後期滑稽本、人在はコーヒーの集散地である。人口の八〇 % が 類がつくられる。現在使われる曲は、唄、合 今に共通した一般語であるが、近世後期に入っ情本がつくりだされる。そのころには知識程度インディオで、インディオの伝統的工芸品の市 じようるり 方、鳴物を含め八〇〇曲以上。そのうち江一尸て、知識人が余技の小説、浄瑠璃をいう際にしの低い一般読者が増加し、また出版機構がそのやスペイン植民地時代をしのばせる歴史的建築 ( 東京 ) が六割を占める。時代物と世話物、そきりに使用し、やがて当時新しく発生した様式 間に介在して、作品の品位は低下する。人生と物などによって、観光の中心地となっている。 しゃればんこっ れそれ作品・場面によっていちおうの約束がでの小説の総称となった。様式では、洒落本、滑の対決はますます薄く、「うがち」も批判性がケサル ( ケツアール ) とはマヤ文明の象徴的な きびようしごうかんよみほん きているが、同じ演目でも江戸と上方、あるい 稽本、黄表紙、合巻、読本、人情本を含み、狭少なくなり、趣向第一となって、「ちやかし」 鳥を意味し、グアテマラの国旗に描かれ、通貨 みたて は俳優によって、異なる曲を使うこともあり、義では前三者の滑稽文学をさすこともある。こ「見立」「ないまぜ」「地ロ」など技巧的なもの 〈栗原尚子〉 の単位にもなっている。 ちょ、つり、よう・ それが演出の型を構成する一要素になってい の小説群の作者が戯作者である。 が複雑に跳梁している。時代の風として、そケシ〔芥子〕 opium を名 y \ P ミミ、 る。いずれにしても、俳優が音楽にのって動い その歴史は二期に分けられる。前期は、小説の方面に名人芸的に努力したので、日本語の性 s をミミき L. ケシ科の越年草。茎は直立 かみがた ほうれき たり、台詞をいったりするとき、その巧拙によ壇の中心が上方から江戸へ移動し始めた宝暦格を極限にまで発揮させてもいる。しかし売文し、高さ〇・五 ~ 一・五、上部ですこし分枝 かんせい ( 一七五一 って役を生かしも殺しもするわけで、歌舞伎の ~ 六四 ) ごろから寛政異学の禁 ( 一七九 0 ) の家となった後期戯作者は、読者に卑屈な姿勢をし、折ると白色の乳液を出す。葉は緑白色、無 演出にはきわめてたいせつな役目を果たす。 ころまで、後期はそれから幕末を経て、その作呈する一面と、前期戯作者以来の一種の文人の毛で葉柄はなく、茎の上部につく葉は長い、い な ) ) り ひげまん 上演に際して下座音楽の指定を考える人を風の名残のあった明治初期 ( 一公五ころ ) までであ誇りが合して、卑下慢という、いわゆる戯作者形で基部は茎を抱き、茎の下部につく葉ほど大 きよし 音楽担当者のべテランがこれる。 「・寸・師」と ) しし 気質をもつに至った。また大衆読者に対するた きく細長、。 縁には不規則な欠刻状の鋸歯があ にあたる。その指定を記した帳面 ( 普通、半紙 前期では、近世社会がようやく渋滞して、適めに、偏屈で非情な前期の風がなくなり、善やる。五月ころ、枝の先端に花を単生し、つばみ 材が適所を得ずに文人趣味がはびこるなかで、美にすなおに共感する風を回復するなどのこと 一一つ折り ) を下座付帳、略して下座付という。 は下を向いているが、開花時は上を向き、一日 がくへん だえん もあった。 なお、新派劇でも古典的な演目では下座音楽余技として俗文学に筆をとる知識人が出現し でしばむ。萼片は青みのある灰白色、楕円状舟 つがていしよう あきなり かながきろぶんさんさんていありんど を使うが、近年はこれを指定することを「作 た。初めは都賀庭鐘、上田秋成ら上方の人々、 明治初期も、仮名垣魯文、山々亭有人などと 形で二枚あるが早く脱落する。花弁は四枚で大 ちょう ひらがげんない まつあけ 調」と称し、担当の演奏家たちが作調部とよ ただちに江戸に移って平賀源内、山岡浚明、大幕末の流れは続いたが、西欧の文学観と作風が きな広倒卵形、色は白、紅、紫色など変化があ なんばしよくさんじん・、いかわはるまち え ばれることもある。 田南畝 ( 蜀山人 ) 、恋川春町など多くが参加し輸入されるにしたがって、小説壇はこの風潮か り、雄しべは多く、花の中心に短い柄をもっ雌 へんきゅう 〔寄席の下座音楽〕高座下手の囃子部屋で演奏た。初期読本、洒落本、初期滑稽本 ( 談義本 ) ら脱出して、戯作は創作に、作者は作家にと近しべが一本ある。多心皮からなる子房は扁球 されるもので、女性の専門家が三味線を弾き、黄表紙など新様式が誕生し、初めは少数の同好代的に変化していった。しかしこの戯作時代形で縦線が七 ~ 一五本走り、花柱は同数の切れ むつみ へり 164
げざおん はうえ リセリンなどがある。 に懸濁して水酸化マグネシウムとして内服されの通俗的な教訓などをまじえて、歌舞伎作者の 〈川口高風〉 と変遷していった。↓法衣 しやげざい 、、、腸管の運動 に膨張性下剤腸管から吸収されず、腸管内でる。硫酸マグネシウムは峻下剤、酸化マグネシ仕事を理論的に体系化しようとしたものであ 下剤げざい瀉下剤ともし ふんべん - 一うしん はいせつ 〈古井戸秀夫〉 を亢進させ腸内容物の排泄を促進し、また糞便水を吸収して膨潤し容積を増大することによりウムは緩下剤でいずれも繁用されている。 せんどう ④刺激性下剤腸粘膜を刺激して反射的に蠕動回郡司正勝他編『近世芸道論』 (r 日本思想大系 を軟化膨潤させる薬剤。適応は主として便秘の腸粘膜を刺激し、腸の蠕動 ( 生理的排便反射 ) へいそく しかん 礙』一九七一一・岩波書店 ) 治療にあるが、食中毒や薬物中毒、腸管の x 線を促進して排便を促す薬剤。弛緩性便秘に適用をおこさせる薬剤で、腸炎や腸閉塞などのある よせ げざおんがく歌舞伎、寄席などの され、カルポキシメチルセルロース (0>0) 場合や老人には不適である。その作用部位か下座音楽 検査、駆虫薬の投与後などに腸内容物をなるべ く完全に排泄させるといった目的にも用いられのナトリウム塩が有名であり、寒天、メチルセら、小腸性下剤と大腸性下剤に分けられる。前伴奏音楽。 かん、一う しゅんげ 者には、ひまし油と甘汞があるが、甘汞は水銀〔歌舞伎の下座音楽〕舞踊などで演奏者が舞台 ルロースも用いられる。 る。その作用の強弱によって峻下剤、軟下剤、 でばやし に居並び観客の面前で演奏する出語りや出囃子 ③塩類性下剤腸内容物の浸透圧を高めて水分製剤のため現在ではまったく用いられていな 緩下剤に分けられているが明確な分類とはいし に対するもので、演奏者は観客に姿を見せす、 し小腸性下剤は食中毒の際などに腸内容物を がたく、現在では作用機序によって粘滑性下の吸収を少なくし、腸管内に多量の水を貯留し しもて 剤、膨張性下剤、塩類性下剤、刺激性下剤、浸水様便として排出させる。弛緩性便秘用で、腸急速に排出させるために用いるが、栄養障害を舞台下手 ( 客席から見て左 ) の「下座」とよば 管から吸収されにくい無機塩が用いられ、硫酸おこすので、便秘の治療には不適である。大腸れる、黒塀で囲まれた場所の黒い御簾がかかっ 潤性下剤に分類されている。 た内側に隠れて演奏する。下座音楽のことを略 マグネシウム、クエン酸マグネシウム、酸化マ性下剤にはフェノールフタレイン誘導体 ( フェ ①粘滑性下剤鉱油や植物油で腸管から吸収さ くろみす して単に「下座」ともいい、黒御簾音楽ともよ ノバリン ) 、ビソキサチン ( ラキソナリン ) 、イ れないものはそのままの形で排泄され、粘膜にグネシウム、炭酸マグネシウム、硫酸ナトリウ ながうた 潤滑的な効果を与え、また糞便を軟らかくしてム、人工カルルス塩などがある。このうち硫酸オウ、ピコスルファートナトリウム ( ラキソべぶ。担当するのは原則として長唄連中に限られ ロン ) のほか、アントラキノン誘導体を有効成る。ほかの音楽と違って、長唄は謡物を主と マグネシウム、クエン酸マグネシウムは水溶液 機械的に排便を容易にする。けいれん性便秘に しようやく 用いられる。流動パラフィン、オリープ油、グで投与され、酸化マグネシウムは粉末または水分とする生薬類、大黄、センナ、カスカラサし、囃子が付属しているため、劇の伴奏には好 グラダなどがあり、これらの生薬はエキス剤と適だからといわれる。 やろう 起源は明らかでないが、野郎歌舞伎の初期に してまた有効成分を抽出したものが配合剤とし もくあみ てよく用いられる。大黄は粉末として繁用されは存在していたといわれ、幕末の河竹黙阿弥の ている。樹脂性峻下剤と称されるものに巴豆、時代に現在の形が完成した。名称については、 かみて けんごし ャラッパ、牽牛子があるが、単独では使用され本来舞台上手 ( 右 ) 奥の一角を「外座」と称 かみがた きょ・つほう し、享保 ( 一七一六 ~ 三六 ) 末期には江戸でも上方 でもそこが演奏の場所だったのが、やがて演奏 ⑤浸潤性下剤界面活性作用によって糞塊中へ の水の浸透を促し、腸管からの吸収を抑制してされる音楽の名にもなったもの。舞台機構の変 えき 化に伴い、花道での演技がよく見えるように、 便を軟化膨潤させ腸内容を増大させることによ ぶんせい 伝書 ノハ ~ 三 0 ) ころから下手奥に移 とを り自然排便を促す。ジオクチルソジウムスルホ江戸では文政 ( 一、一 あんせい され、安政 ( 一会四 ~ 六 0 ) ころには現在の場所に サクシネート (2(-D(-n) がその例であり、配合 発感 のの なったが、上方では明治期まで上手で演奏され 剤として用いられる。 人頭 かんちょうぎやく 上巌 下剤の目的で浣腸や坐薬を用いることも多ていた。 勝か 下座音楽の使い方には、出囃子の必要に及ば 浣腸にはグリセリンの一〇 ~ 五〇 % 液、二 山宀操 ない簡単な舞踊の地音楽として演奏される「踊 開村 ~ 三 % の薬用せつけん液が、坐薬としてはグリ 光藤 〈幸保文治〉 り地」俳優が長いしぐさを演じるときにしん セリン坐薬がよく用いられる。 日生 にゆうがていが は高 けざいろく歌舞伎の文献。入我亭我みりした唄をおもに独吟で歌う「めりやす」な 戯財録 つのがき ' 、ゆ、つ どもあるが、もっとも多く使われるのは「陰」 大著。一八〇一年 ( 享和一 ) 秋成立。角書に 湖年 「作者式法」とある。大坂の歌舞伎作者の理論とよばれる演奏である。陰の効用は大別して、 単・ 9 中。た 書としては唯一のものである。写本として伝わ開幕・閉幕・場面転換などのときに情景や雰囲 きよくてい いちゅうばなし と、つつ る。著者は曲亭馬琴の『著作堂一タ話』によ気を表すもの、俳優の登場・退場のときに情緒 しようぞう ~ とに れば二世並木正三。ほかに初世並木五瓶、並を醸し出したり、その性格や心理を表すもの、 華る名 せりふ おうすけ たよ有木翁輔とする説もある。いずれにせよ、大坂劇演技中に台詞やしぐさを引き立てるものの三つ に分けられる。演奏に使う楽器としては、三味 」か壇の古老である著者が、歌舞伎作者の式法が乱 か経て 線と大太鼓を基本として、四拍子とよばれる 台厳しれた現状を憂い、往時の作者式法を二三項目 望華身 ( 目次では二六項目 ) にわたって記したもので笛、小鼓、大鼓、太鼓のほか、楽太鼓、大拍 展「投 かっこ ほんつりがわどらそうばん 平はて ある。京、江戸、大坂の三都の観客の狂言の好子、羯鼓、本釣鐘、銅羅、双盤、チャッパ、木 智名し ぎよばんぎ もっきんきめた 明命遺 みの違いや、春夏秋冬の台本の書き方の心得、魚、盤木、木琴、砧、拍子木、四つ竹など数十 または、一つの狂言のなかにおける各幕の書き種があげられる。演奏の方法としては、唄だけ あいかた 方の違いなどを具体的に述べる一方、道学者風の場合、三味線だけの場合 ( 合方 ) 、これに唄 かぶき 163