なかでは、バルザック以来のリアリズム小説に特有の筋の首つの重要な付録がついていたのだが、そちらのほうは無視さ 尾一貫性や人物の性格や物語のまことらしさは、自然を装っれ、テープルの上のコーヒー沸かしや電気スタンドをいくら た約束事としか思えす、それを支える世界と人間との協和は正確に描写しても、人間は出てこない、文学は人間を書くも 工 フィクションである。現代のそうした感じ方にあわせて、 のではないのか、という非難が続出した。しかし、コーヒー = 説も変容しなければならず、小説家は、政治的ないし倫理的沸かしを描写する言語は、それを描写する人間の無意識から ロ《アンガージュマン ( 積極的参加 ) 》をしばしば要求されるが、立ちあらわれ、その組合せは彼の精神の軌跡そのものの具現 彼にとっての最良の《アンガージュマン》とは、現在的諸問ではあるまいか 題にたいする自分自身の一一 = ロ語の完全な自覚だ。ます、第一 ' 『ジン』のような極端に一一 = ロ語ゲーム的な小説についても、こ 認めなければならないのは、「世界は意味もなければ不条理の観察は当てはまり、それが冒頭で引いた「私はいまだかっ でもない。ただたんに、そこに《ある》だけだ」という事実て自分のことしか語ったことがない」という一一一一口葉の意味なの 人間が呼びかけても、世界は振り返りはしない。肝要なである。ロプⅡグリエの描写論は、『消しゴム』や『覗く人』 しつよう のは、世界と人間とのこの距離を、《不条理》とか《悲劇》のような妄執的な執拗な描写が次第に減ってゆくのをみても という名の裏返しのヒューマニズムで架橋したり、擬人的なわかるように、右の《付録》にこそ力点があったのであった。 メタファーで救出したりするのではなく、あるがままに保存彼が強調したのは、世界と人間との距離を、解消しがたい乖 することである。意味 ( 心理的・社会的・機能的 ) の世界で離、不可避な鯡離としてまず確認することなのであった。 はなく、事物が厳として存在しているその現前だけで成り立 《表層のたわむれ》的側面 つ、直接的世界を構築することだ。 そのためには、事物に意味を与えず、《ロマンティックな もともと、ロ。フⅡグリエの作品には、《真面目な》読者の ち。ようしよう 核心》とでも呼ぶべきいかがわしい内面性など措定せずに、 裏をかき、そのくそ真面目さを嘲笑するような《表層のた その現前する姿のみを描写すべきで、必要なのは「視覚的、わむれ》的側面があり、どんなリアリズム小説よりも写実的 描写的な形容詞、測定し、位置づけ、限局し、定義する形容な描写に満ちた『消しゴム』ですら、実は父親殺しのエディ 詞」だというのが、特に話題を呼んだロプⅡグリエの主張でプス神話のもじりだった。『幻影都市のトボロジー』は、日 あった。オた こ、こし、この主張には、こうした描写の連続のし方本の新聞広告や、デヴィッド・ ハミルトンの写真集や、写真 がそのまま観察者の精神の運動をかたどるという、もうひと 誌「ズーム」などに書いた短章のモザイク的組合せである。
1181 解説 ・ロマンについて生じた やサロート、さらにはその外縁に位置するべケットやデュラなった数々の発言のためにヌーポー ・ロマン》と スやクロード・オリエらを一括して《ヌ 1 ーポー 詼解から言うと、これらの作家たちの何人かに共通する事物 呼ぶことは、今や文学史の常識となっているが、この名称との精細で無機的な描写から、一九五〇年代、彼らは《視線派 のぞ ロプⅡグリエとは切ってもきれない関係にある。早くから彼 Ecole du regard 》と呼ばれ、とりわけ、『消しゴム』や「覗 く人』における物の寸法や形や角度や距離ばかり強調した、 は、出版社エディション・ド・ミニュイの文芸部長 ( 顧問 ) として、これらの作家たちの作品を出版してきたばかりでなまるで製図士か測量技師がおこなったような描写が、非人間 く、評論集『新しい小説のために』以来の評論や講演で、こ的で手先だけの空疎な技巧であると非難された。それにたい の潮流のスポークスマン的存在としてつねに論議を巻き起こして、ロ。フⅡグリエは《 Z ・・》その他の誌上で反論を し、他方実作の面でも、おそらく一番挑発的で過激な実験を展開し、それらを評論集「新しい小説のために』に収録した。 ロマンについてその珊匕日を要約すると、つぎのようになろう。 試みつづけてきた。したがって、ヌーポー サルトルがサロートの『見知らぬ男の肖像』の序文で指摘 の共感や反感、共鳴や批判は、いずれもロ。フⅡグリエ個人に したように、現代の小説はみすから小説について意識的にな たいするそれとほとんど重なっていると言っていし り、小説とは何かについて反省している。そのような機運の まず、彼にたいする批判、というか彼が代弁者としておこ エヌ・エ 上 / 祖父、姉 ( 左 ) と ( 一九二四年 ) 中 / 『嫉妬』の舞台となった マルチニック島の家の前て ( 一九五〇年 )
を寄越して補助金を約束してくれた、などといった事実であま、 どんな《自伝》なのか。さらに極端なことを る。だが、言いたいのはそのことではない。 一 = ロえば、『アンジェリック、もしくは蠱惑』の中では、突如 彼の作品にちりばめられた風景や事物や状況のもととなっ 「この私、ジャン・ロバンは」とか「ところで私の旧友ドナ 工 た少年時代の見聞や夢想、それぞれの作品が書かれた経緯やチアン・フランソワ・アルフォンス・ド・サドは」といった もちろん = 背景などを、的確で明快な文章で綴っているのだから、勿論記述にぶつかる。前者は彼の映画『嘘をつく男』の主人公で ロこれが自伝でないわけがない ロプ日グリエ自身、はっきりあり、後者はいうまでもなくサド侯爵だ。回想録を執筆中の 自伝と規定して、表紙から、いつもの《ロマン》という標一小コラント伯爵に、 いつの間にか話者たる《私》がすり替わっ をはすしただけでなく、回想録類によくあるように、目次にたりもする。 も各章の簡単な内容を付記して、まるで小説として読むこと では、この二冊は自伝でないのかというと、やはり、自伝 をわざと読者に禁じているかのようである。ところが、このと考えていいのではないかと思われる。だからこそ、わざわ 《自伝》には架空の人物も登場する。登場するばかりでなく ざ自伝と銘打っている。その理由は、さまざまな幻影と記憶 こんとん ほとんど主役のように重要な役割を演じるのである。著者のと知識の渦巻く混沌の中心、つまりはヌーポー ・ロマンの旗 現実の父と戦場で知り合い、以後、身分の違いを越えて親交頭的な知名度をもち、アラン・ロプⅡグリエというレッテル を結んだというアンリ・ド・コラント伯爵なる人物が、国際を貼られたひとりの社会的人間の内部の奥深く、意識と無意 いしよう 政治の舞台裏で暗躍したり、何年もかかって回想録の執筆に識の境界地点に踏み止まって、そうした外的な衣裳とまった たど 没頭したりするのだが、多少ともロ。フⅡグリエの作品史を辿く無関係に、なにものかに駆り立てられながら一一一一口葉の織物を とら ってきた読者なら、これが彼の映画『囚われの美女』や小説紡いでゆく無名の話者そのものは、ジャン・ロバンと名乗ろ うんめん 『黄金の三角形の思い出』に出てくる作中人物、ミシュレが うと、十八世紀末の作家との親交を云々しようと、コラント 『魔女』のなかで紹介している《コリントの花嫁》という伝伯爵と一瞬一体化しようと、つねに自己同一的だからである。 説にヒントを得て創造された架空の人物であることに気がつだが、それなら彼の小説と同じではないか、という異論も出 るかも知れないが、まさにその通りなのだ。 第二巻で大きく浮かび上がってくる、アンジェリックとい ほんろう ヌーポー・ロマンの代弁者 う、愛らしくて誘惑的で、絶えず男を翻弄する乙女にしても 同様である。虚構の人物が回想の中心部で動きまわる自伝と彼やクロード・シモンやロべール・バ 0 とど ンジェやビュトール