DALI

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目次

トの群と群衆の好奇の目があり、その一挙手一投足は常にジャーナリス ティックなゴシップの。。ねた " を提供し、ダリのエキセントリックな言動 に大衆はやんやの喝采をおくり、「天才と狂気」がひとつであることをあ らためて思い知った。ダリのこの種のエピソードには事欠かないが、そ のいくつかを拾ってみよう。 1936 年のロンドンでのシュルレアリスム国際展の際、ダリは記念講演 会を開いたが、「意識下の世界に潜るため」と称し、鎧兜のような潜水服 と潜水帽に身をつつんで会場に現れて満員の聴衆の度肝を抜き、大西洋 航路ではじめてアメリカに渡った時は、船の中で焼かせた 2.5 メートル ( 当初の予定は 15 メートルであったが、船の中にはそれに見合うオーブ ンがなかった l) のフランスパンを抱いて取材陣の待ち構える埠頭に意 気揚々と降りたった。ニ弖ーヨークの 5 番街では彼の人気に目をつけた 大手テパートの依頼でそのショーウインドーを奇妙奇天烈に、つまりダ リ風に飾ったはいいが、これを店側に勝手に手直しされて怒り心頭、黒 山の弥次馬の見守る中、そのガラスをぶち割り、“器物破損”の疑いて警 察の事情聴取を受ける破目となった。第二次大戦後、ソルボンヌ大学で の講演会の際にはカリフラワーをいっぱいにつめた白いロールスロイ スで会場に乗りつけ、フェルメールの《レース編みの女》 ( パリ、ルーヴ丿レ 美術館 ) と犀の角との神秘的な、、関係 " について熱弁をふるい、晩年は故郷 のフィゲラスにダリ的、、悪趣味 " を存分に発揮したダリ劇場美術館 ( Teatro Museo Da ⅱ、 1974 年開館、 fig ①を、ダリの、。ガールフレンド " だったポッ 朝第み一二イ画をゞ画′ fig. 1 タリ劇場美術館外観、フイケラス ( 著者撮影 ) ・ 13 出趣味、自己顕示欲も結局は“天才ダリ”を演じ続けるための巧妙に仕組 ことを忘れなかった。しかしダリのこうしたセンセーショナリズム、露 ド」を立ち上けるなど、どこにあっても「ダリここにあり」を印象づける プ・シンガーのアマンダ・リアの言葉をかりれば「ダリ風ティズニーラン ダリの八ン しばしば言われるように芸術家も時代の子であるならば、批評家も同 様である。何をどう見てどう批評するかは、批評家の感性、視点、主観 の、要するに個人の問題であると同時に時代の問題でもある。ダリに対 する批判、不満の多くは彼の売名行為に、センセーショナリズムに、ドル のためにキリスト = シュルレアリスムを売ったユダ的なダリに、彼の拝 金主義に根ざすことは明らかであるが、画家としてのダリ批判の大半 が、彼の刺激的な主題に加え、その細密画的なリアリズム、ダリの言う 「手彩色のカラー写真」のような技法、様式に由来することは、上に挙け たウィレンスキー、クレイマーの批評からも明らかてあろう。彼らに言わ せればダリは 19 世紀のホナ、プーグロー、あるいはダリが高く買ったメッ ソ二工などの陳腐でペダンチックなアカテミスムに入れ込んだ反近代 主義的、時代錯誤的な画家の典型であった。 今から 50 年ほど前、アメリカのある批評家はダリは「 20 世紀最大のアカ テミスムの画家」となるだろうと予言したが、少なくとも現時点からす れば、これはダリにとって必すしも不名誉な予言てはない。フォヴ的 ても表現主義的てもキュビスム的でもなく、ましてや抽象的でなく、細 まれた演出てあり、ダリ神話形成のための一手段に過きなかったことに 注意すべきである。戦後のダリをみすから綴った「天才の日記」はこう した誇大妄想狂的ナルシスト・ダリの記録であるが、これら涙ぐましい 努力の甲斐あって、ダリ没後 IO 年を経た今日 ( 1999 年 ) 、ダリの勝利はほ ぽ決定したといっていいだろう。ダリが「シュルレアリスムの道化師」 ("The SurreaIist Jester" 、末尾の [ 主要参照文献 ] の 5 参照 ) であれ、シュ ルレアリスムの広告塔であれ、宣伝マンてあれ、現代美術のエンターテ イナーであれ、いすれにせよ彼が教祖フルトンや仲間たちをさしおい て、シュルレアリスムの代名詞的な存在となったことは確かである。無 論、ダリー人があたかもシュルレアリスムを代表しているかのように語り、 彼のみを通してシュルレアリスムを見ることは論外としても、彼を抜きに してはシュルレアリスムを語れないことに異論はないはすである。 モダニズム 密画風に再現的、描写的てあることは一一抽象芸術と近代主義、前衛芸 の執拗なまての細密描写は、客観描写、つまり一種の無名性に徹する写 と言わねばならない。対象に対する偏執狂的な視点から生まれるダリ とたとえば戦後のいわゆる写真的リアリズムとは次元を異にするもの を意味しないからてある。そもそも細密描写とはいっても、ダリのそれ 術とがもはや同義語てないように一一必ずしも反近代主義的、反前衛的

ダリ、または永遠の謎 千足伸行 ーズの名で一層よく知られている人物、および最近カトリック教会と 、、ルネサンスの芸術的理想 " に回帰した、社交界の肖像画家にとって代わ られた」 ( 12 : 423 ) と切り捨てている。「社交界の肖像画家」とはアメリ 力に渡ったダリが、映画製作て知られるワーナー・プラザースをはじめ、 億万長者の肖像 ( cat. no. 44 ) を次々に描いて世俗的、商業的に多大の成 功を博したことをさしているが、ダリのアメリカ時代の大作《最後の晩 餐》 ( 1955 年、ワシントン、ナショナル・ギャラリー ) は、批評家のジョン・ アンチ・ダリ キャナティに言わせれば、「病的な工ロティシズムの臆面もない現れ」で 現代美術の“殿堂”入りした画家の中でもダリほど毀誉褒貶の激しい あり、画家はここで「聖域 ( = キリスト教的主題 ) に入る権利を冒濆的に 画家はいないだろう。彼なくして現代絵画を、少なくともシュルレアリ 濫用している」 ( 5 : 214 ) 。アメリカの批評家ヒルトン・クレイマーも同 スムを語れないことに異論はないとして、一方で、。 Da ⅱ , non ! ”の声が後 様に忌憚ない。彼によるとダリの絵は「無知な大衆に向けたまやかし」 を絶たないことも確かである。無論、マティス、ピカソといえども全面 であり、「“オー丿レド・マスター” ( 歴史上の巨匠たち ) の練達の技を大袈裟 きわもの 的な、。満場一致 " の肯定はありえず、常に多少の異議、異論は見られるも に見せびらかした彼の絵は、このうえないキッチュ ( 際物 ) 」 ( 5 : 214 ) に のの、一方でそこにはある種のためらいが、“遠慮 " めいたものが感じら 他ならないのである。 これら容赦ない。。ダリ・八ッシング”は全体のこく一部にしか過きない れるのに対し、ダリに対するそれは遠慮会釈なく、時にはヒステリック でさえある。ダリの。、天才 " がたとえばピカソ、ミロのそれと違って作為 が、その多くは第二次大戦前後、あるいはダリがアメリカで華々しい商 業的成功を博したころのものである。上の引用文にもある“アヴィダ・ 的、商業的に演出された、どこか胡散臭いものとの見方は、はじめはダリ を歓迎したアンドレ・プルトンをはじめ、かなり根強いものがあったし、今 ドラーズ " ( ドル亡者 ) とは、アメリカで成り上がったダリに苦り切った プルトンが、ダリ ( Da ⅱ ) とドル ( Do Ⅱ ars ) の綴りを組み替えて彼をこう も消えたとは言い難いものがある。ダリが現代美術の“ enfant terrible ” ( 手に負えない恐るべき子供、やんちゃ坊主、異端分子 ) であることは、誰 呼んだものてあるが、しかしダリ自身はこうした“アンチ・ダリ”の声を よりもダリ自身が誇りをもって認めるところてあるが、ダリのその誇り ー向に意に介さず、むしろ自分が人々の意識にのほることを、“気になる " を逆手にとって彼を責める声が後を絶たないことも事実である。その 存在てあることを大いに楽しんていたふしがある。 "Avida DoIIars" に しても、これはダリの言う“偏執狂的・批判的方法”、具体的にはいわゆる 二の例を見てみよう。 「技術的に言えば、ダリの絵は近代絵画の歴史になんの地位も占めて ダブ丿レ・イメージの言語的転用に他ならす、この、、称号”が大いに気に入 ったダリはこれをみすから選んだ雅号でもあるかのように再三用いて いない。というのは、彼の芸術は着色石版のような色彩でダゲロタイプ ( 初期の写真 ) 風に本物そっくりに描かれた、 19 世紀の逸話的な大衆絵画 いるのである。実際、上のようなダリ批判を耳にしたダリが傷ついたり 落ち込んだり、名誉毀損で訴えたっした話は絶えて聞かない。ダリの並 への逆行だからてある」 ( イギリスの美術批評家日 . H. ウィレンスキー、末 はずれた自我意識、ナルシシズムは何人てあれダリへの、。侵入”を一切認 尾の [ 主要参照文献 ] の 8 の p. 161 。以下 8 : 161 のように略記 ) 。「もし彼 めす、何人もダリがダリてあることを、“ダリ主義者 " ( Da ⅱ nian ) である の絵にあんな大袈裟な題名をつけていなければ、ダリ氏の絵はもう一顧 だに値しないであろう」 ( 二ューヨーク・タイムズの美術記者 ) 。「 1930 年 ことを妨けることはてきないのである。 以前のダリは本当の自分を発見していないし、 1930 年代以後のダリは自 「 3 歳の時私は料理人になりたかった。 5 歳では早くもナポレオンにな 分を繰り返すだけのコマーシャル・アーティストになりさがった」 ( ニュ りたいと思った。その後も私の野心はたえすふくれ上がり、今現在の野 心はサルノヾドー丿レ・ダリになりたいということだ。他になりたいものは ーヨークのある画商、 5 : 231 ) 。 シュルレアリスムの教祖て、初めはダリを高く買っていたプルトン ない」 ( 27 : 34 ) 。 人間ダリの最大の課題は「天才を演じ続けること」であり、彼の最大の も、タリが次第に世俗的、商業的成功を博し、またカトリックと伝統主義 関心は現代における“ダリ神話”の形成であった。美術界のみならず社 に傾くにつれ ( cat. no. 50 参照 ) 、彼に対する不信感を強め、初期の「すば 交界のスーノヾースターになってからのダリの行くところ、ジャーナリス らしく豊かなカタルーニャ ( カタロニア ) 的知性の王」は「アヴィダ・ドラ ・ 12

12 25 32 34 37 38 60 112 136 152 166 193 208 214 217 223 目次 /Contents 千足伸行「ダリ , または永遠の謎」 新関公子「サルノヾドール・ダリの波瀾の青春」 横尾忠則「ダリとカラーー超現実的邂逅」 赤瀬川原平「半信半疑・ダリの絵の表情」 カタロ 5/CataIogue モース夫妻とサルノヾドール・ダリ美術館 Ⅷ映像 /FiIm Ⅶ写Ä/Photography Ⅵ版画 , オプジェ /Graphic, Object ドローイング水彩 , ノヾステル /Drawings, Wate 「 colors, PasteIs 古典期 (1950ー1963 年 )/Classicism Paintings シュルレアリスムを超えて ( 1938 ー 1950 年 ) / Su 「「 ea ⅱ sm Paintings シュルレアリスム時代 ( 1927 ー 1936 年 ) / Su 「「 ea ⅱ sm Paintings 具象期 ( 1918 ー 1926 年 ) / Early Paintings V Ⅳ Ⅲ Ⅱ I 参考文献 /Bibliography 略年譜