教養の基礎としての一般人間学

キーフレーズ

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の目はそういう暗函なんです。」同様に、感覚器官を通じて、どのように外界が人間の生体機構の中 へ移し込まれるかを示す時も、本質的に言って子供のファンタジ 1 に訴えるほかありません。なぜな ら生体機構に移し込まれたものは、肉体からとり出してしまえば、外形的な死物の形しか見ることが 出来ないからであります。そういうものを、私達は生きている肉体に即して見ることが出来ないので あります。 ~ たとえば幾何学や代数等の授業におきましても、ファンタジーに訴えかけること 全く同じようこ、 を怠ってはなりません。実際的な教授法についての講習の中で試みましたように、平面図形を子供に 理解させる場合でも、これを単に知的理解力によって理解させるのではなく、子供自身が幾何や代数 の授業の中でファンタジーを駆使せざるを得ないような方法で平面図形の性質を理解させて行くよう に、常に努力して子供のファンタジーに訴えかけて行くのであります。ですから私は、「どうしてビ タゴラスの定理を、たとえば次のように説明してみようと誰一人として思いっかなかったのか、不思 議だ」と申したのであります。「ここに子供が三人いるとする。一人は正方形のうちの一つが塵で覆 われるだけ息を吹きかけなければならない。次の子供は二番目の正方形を塵が覆いかくすだけ息を吹 きかけ、三番目の子供は小さな正方形を塵が覆いかくすだけ息を吹きかけなければならない : ゝつよ一つこ 0 こうすれば、「一番小さい正方形の平面を覆った塵と、次の正方形の平面を覆った塵と の和が、一番大きな平面を覆った塵の量と全く同じになる」と言うだけで、子供のファンタジ 1 を助 けてやることが出来るはずであります。たとえ数学的な意味で厳密だとは一一一一〔えないにしましても、こ

のような方法は、子供がファンタジー豊かな像をもって、理解力を吹き飛んで行く塵の中へと入れて 行くことを、助けてやれるのであります。子供は自分のファンタジーを用いて平面の意味を捉え、ビ タゴラスの定理を、舞い昇り沈下する塵というイメージを通し、ファンタジ 1 によって理解するであ りましよう。さらに塵は真四角に吹き寄せられなければなりませんが、それは現実には起り得ないこ とでありますので、一そうファンタジーは刺戟されるのであります。 このように特にこの年代におきましては、ファンタジーを生み出しながら教師から生徒へと流れ込 んで行くものを常に感動的に作り出して行くことが、絶えず教師の念頭に置かれていなければならな いのであります。教師は教材を自分の中で生命豊かに息づかせていなければならす、教材をファンタジ ーで充満させていなければなりません。それが出来るためには、教材を、感情の織り込まれた意志作 用で浸し切るより外に方法がありません。これは後年になってからも、しばしば実に不思議な働きを するものであります。小学校高学年において密度を高めて行くべき非常に重要なことは、教師と生徒 の間の協力であり、心を一つに合わせた生き方であります。それゆえ、自分の扱う教材の全体をファ ンタジー豊かに組織し、一回毎に新鮮に形づくる努力を絶えず行なって行けないような人間は、良い 小学校教師にはなれません。なぜかと申しますと、一度ファンタジ 1 豊かに作り上げたものでも、こ れを何年後かに再現いたしますと、それは理屈が勝って冷たく凍りついてしまっているのが実状だか らであります。ファンタジーは、絶えず生き生きと生命を保ち続けていなければならないものであり まして、そうでなければ、ファンタジ 1 の生み出した産物は、理屈つ。ほく固ってしまうのであります。

この事実は「教師自身がいかにあらねばならないか」という問題に、光を投げかけてくれます。教 師は生活のどの瞬間におきましても、心の新鮮さを失ってはならないのであります。そして生命が生 き生きと繁栄しなければならないとするならば、教師の仕事と、知識をひけらかす態度は、絶対に一 緒になってはならないのです。万一、教師という職業が知識のひけらかしと一緒になりましたならば、 この結婚から生じる禍は、人生で生じ得るどんなものよりも大きなものとなるに違いありません。か って或る時代に「教職と知識のひけらかしとが一体のものであった」などという愚論を認める必要は 絶対にないと、私は思うのであります。 このことから「授業には或る種の内的な倫理性がある」ということ、すなわち「授業をする際には 或る内面的な義務がある」ということが御理解いただけたと思うのです。つまり教師には、本当の意 味での至上命令と言えるものがあります。教師にとってのこの至上命令とは、「汝自身のファンタジ 1 を新鮮に保て」ということであります。そして、もしあなたが知識をひけらかすようになっている と感じられた時には、「知識のひけらかしは、他人に対して禍をなすものであり、自分にとっては卑 劣にして非倫理的行為であると言いきかせよ」という以外にないのであります。これが教師たる者の 持つべき気持とならねばなりません。これを自分の気持とすることの出来ない教師があるならば、そ の人は教師となるために身につけた技能を、次第に別の職業に転用して行くように試みるべきであり ましよう。このような事柄は、人生において完全に理想的な形で実現できるものではありませんが、 しかし何が理想であるかは知っている必要があります。