日本現代文學全集・講談社版16 正岡子規集

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日ホ袋學 目次 ・ : 水原秋櫻子 子規の筆跡 : ・ ・ : 中野重治 子規の健康・ : ・ : 柴生田稔 曙覽から宗武 : ・ 書簡から見た初期の子規 京羽 東音 : 阿部喜三男 と碧・虚 : 題字・谷崎潤一郞 るとき、子規は記念のためにといって、短册を三枚書いてくれた。 看護婦はそれを大切に保存していたが、次第に老年になるし、子供 は、そういうものに全く興味を持たぬので、それを私のところに持 參して「あなたよりほかにはさしあげる人がない。三枚とも受けと 水原秋櫻子 ってくれ」と言った。たしか昭和六年の春頃であったと記憶してい 子規の筆跡を見ると、たしかに名筆という感じがする。先日、昔る。短册は、明治時代に多くあった藍色の雲形のもので、各よ「子 の俳句仲間が集って、俳壇の四方山話をしたときに、子規のことも規」、「規」、「升」と署名してあった。 話題にのぼったが、俳句よりも、短歌よりも、俳論歌論よりも、筆私は、今でもそうであるが、以前から短册蒐集の趣味を持ってい 跡を第一に推さねばならぬと説く者もあった程である。 ない。少しあつめて見たいと考えたことも無いわけではないが、忽 子規の書の美事さは天與ものであろう。周圍には岡麓だの中村不ち飽きてしまって、人から乞われるまゝに呈上するから、いっか散 折だのが居たから、書道に就ていろいろ見たり聞いたりしたにはち逸してしまうのであった。その時も、別に欲しいとも思わなかった がいないが、よほどの天分がないと、あれだけ正しく、立派なものので、やはり自分で所藏していた方がよいだろうと、看護婦にすゝ を書くことは出來ないと思う。 めたが、どうしても受取ってくれと言うので、それならばと、「子 古い俳人の中では、芭蕉の書が、古筆を丹念に習い、自我を少し規」と署名してある一枚だけを貰うことにした。 も出していない點で美事である。蕪村は逹者にはちがいないけれ短册には、病人とは思われぬような美事な筆勢で ど、自我が出すぎているので、すこし見てゆくうちに飽きてしま來年や葵険いても逢はれまじ う。子規のものは、芭蕉とはちがって、正確に丹念に習いつをはと書いてあった。「葵」と「咲」は、漢字であったと思うけれど、 るかに伸び伸びとした感じがある。天分が盟富でないと、あのようはっきり憶えてはいない。墨はかなり佳いものを使ってあったよう には書けぬにちがいない。 私の父が、若い頃に養成していた看護婦の一人が、晩年の子規の この短册を第一に見せたのは、鈴鹿野風呂氏である。野風呂氏 病床を、一年ほど世話をしていたことがある。それが暇をとって歸は、何かの用で上京したついでに私の家をたずねてくれたのだが、 子規の筆跡

正岡子規集目次 卷頭寫眞 筆蹟 竹の里歌 : 子規句集・ 松蘿玉液・ 墨汁一滴 病牀六尺・ 小園の記 車上所見 飯待っ間・ 柚味噌會・ 闇汁圖解 : 根岸草廬記事・ 熊手と提灯 : 病・ ラムプの影・ 車上の春光・ 明治卅三年十月十五日記事・ 死後・

くだもの・ 九月十四日の朝・ 歌よみに與ふる書 萬葉集卷十六 芭蕉雜談 俳諧大要・ 明治一一十九年の俳句界 俳人蕪村・ : 一三へ 水滸傳と八大傳 仰臥漫録・ 書 作品解説・ 正岡子規入門・ 參考文獻 日・ : 山本健吉四 : 久保田正文四き ・四三七 : 四

奥付

日本現代文學全集 16 正岡子規集 整郎夫謙吉 集 本 伊龜中平山 昭和 43 年 11 月川日印刷 昭和 43 年 11 月 19 日發行 定價 600 圓 0 KODANSHA 1968 おが し 正 岡 子 者 著 行 者 間 省 野 發 印 刷 者 北 島 織 衞 行所株式會社講談社 發 東京都交京區音羽 2 ー 12-21 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 郵使番號 112 振替東京 3930 大日本印刷株式會社 印 刷 寫 眞 製 株式會社興陽瓧 版 印 刷 本 株式會瓧大進堂 製 函 株式會瓧岡山紙器所 製 革 株式會社石 背 日本クロス工業株式會社 表紙クロス 日本加工製紙株式會社 ロ繪用紙 本文用紙 本州製紙株式會社 安倍川工業株式會社 函貼用紙 三菱製紙株式會社 見返し用紙 神崎製紙株式會社 扉用紙 落丁本・亂丁本はお取りかえいたします。