自ホ袋學公集 ・ : 松本正雄 ・ : 大武正人 都 ・ : 吉田健一 「善光の一生」その他・ : : 野間宏 「火山灰地」について : 東音 題字・谷崎潤一郎 であった。戦爭で抑壓されていた藝術的欲求が一時にセキを切って ほとばしりはじめたのでもあったろう。日本も例外ではなかった。 そうした日本のアヴァンギャルドの各派を結集した「三科展」は、 その後まもなく芽生えるプロレタリア藝術運動への過渡期の現象で 松本正雄 あった、と私は考えている。その「三科」の中心が「マヴォ」であ トムこと村山知義に初めてあったのは一九二三年、彼がドイツかり、村山知義は「マヴォ」の首領だった。 ら歸って間もないころであった。東中野驛から北へ、二百メ 1 トル築地小劇場のできたのもそのころで、そのこけら落しはドイツ表 ほどもいった右側に、當時世間を騷がせた構成派風の村山の家があ現派のゲ 1 リングの作「海戦」だった。村山は同じく築地のゲォル った。その家ができて間もなく、驛の近くに「アザミ」という小さグ・カイゼル「朝から夜中まで , の舞臺裝置もやっている。だが、 い酒場が開店した。この店も横濱の O 病院長の未亡人がひらいたと築地小劇場で催された「劇場三科」で、村山が自作の獨舞を發表し たのには驚かされた。のちに彼から聞いたところでは、一九二二年 いうので新聞種になったりしたものである。 ある日、そこで友人と飮んでいると、向うのテープルから「オーのドイツ滯在中、美術や演劇を研究したほかに、彼は舞踊にも深い ル・ハックの繪かきさん」という冷やかし聲が聞こえてきた。ふりか關心をもったらしい。いろい えると、それがプーベンコップの村山知義であった。まことに風變ろな踊り手の名をあげて話し りな家もであったが、村山夫妻の頭髮が同じような「おかつば」でた中で、私がイン。へコー あるのも評判であった。友人の書家が、古風な草土瓧バリの風體でという踊り手の名をいまだに あったのが、前衞的な「マヴォ」の中心人物であった村山の細にさ憶えているのは、村山がイン 1 ヘンの踊りに一番興味「 わったにちがいない。 當時、第一次大戰後の世界には、「新しい波」がいたるところにをもって話したためではなか 起こっていた。タトリンの「第三インタナショナル記念塔」に象徴ったかと思う。 されるロシャ構成派をはじめ、さまざまな前衞藝術の百花齊放時代同じころの村山に『人間機昭和三 + 五年萬里の長城にて 私はトム・ファン 村山知義との長いっきあい 目次 私はトム・ファン・ 三好十郞二題 : 月報 80 村山知義
村山知義集目次 卷頭寫眞 勇ましき主婦・ 進水式 : 死んだ海 第一部死んだ海 : ・ 第二部眞夜中の港 : 作品解説 : 村山知義入門・ 參考文獻 : ・ ・ : 稻垣逹郎四豐 山本二郞四三 : 四発 三好十郎集目次 卷頭寫眞 獅子・ 炎の人 : 捨吉・ 作品解説 : 三好十郎入門 : 參考文獻 : 三ロ : 稻垣達郎四豈 ・ : 山本二郞四三 : 四実
眞船豐集目次 卷頭寫眞 太陽の子 : 黄色い部屋・ 善光の一生 : 作品解説 : 眞船豐人門 參考文獻・ 日 . 三ロ : ・稻垣逹郎四豈 ・ : 山本二郞四五一 : 四七七 ・ : 一一三四 久保榮集目次 卷頭寫眞 火山灰地 第一部 : 第二部 : 作品解説 : 久保榮入門 年譜 : 參考文獻 : : 稻垣達郞四 ・ : 山本二郞四丑 : 四七一 : 四大 : 三大
日本現代文學全集 9 三久 義豐 知 山船 村眞 編集 伊 藤 整 龜井勝一郎 中 村光 平 野 謙 山 本健 昭和 42 年 5 月 10 日印刷 昭和 42 年 5 月 19 日發行 定價 600 圓 ◎ KODANSHA 1967 むら やま とも 村 山 知 義 み よし じゅう ろう 好 十 郎 ま ふね ゆたか 眞 船 豐 く さかえ 久 保 榮 者 野 間 省 行 發 者 北 島 織 印 刷 衞 所 株式會社講談社 行 發 東京都文京區音羽 2 ー 12 ー 21 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 振替東京 3 9 3 0 印 刷 大日本印刷株式會畆 寫 眞 製 株式會社興陽社 版 印 刷 製 本 大製株式會社 株式會社岡山紙器所 製 函 株式會瓧第一紙藝社 背 革 小林榮商事株式會社 表紙クロス 、日本クロス工業株式會社 ロ繪用紙 日本加工製紙株式會社 本文用紙 本州製紙株式會社 函貼用紙 安倍川工業株式會社 見返し用紙 三菱製紙株式會社 扉用紙 神崎製紙株式會瓧 落丁本・亂丁本はお取りかえいたします。