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検索対象: 出雲国誕生
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1. 出雲国誕生

出土する点から、国分寺と関わる施設の可能性として、国師の館とみる可能性はないだろ うか。国師とは、八世紀初めから地方の寺院や僧尼を指導監督するために、都などから派 遣された僧である。八世紀末以降は名称が講師と変わる。当初は、国府に居を構え、後に あき 国分寺創建にともなって居を国分寺に移したと考えられている。安芸国分寺・下野国分 むさし かずさ 寺・上総国分寺・武蔵国分寺などの発掘調査によって国師院 ( 講師院 ) が確認されている。 ば′、しょ 安芸国分寺では寺院地の北西部に大型の掘立柱建物とともに、国師院という墨書土器がみ つかり、ここに国司が居を構えていたことがわかっている。これまでに国師院 ( 講師院 ) は主要堂塔の北側に配置されていたようで、武蔵国分寺の場合は瓦葺き建物とみられてい る。国司と同じく、国師の館も格式が高い建物であった。三軒家地区を国師の館とみる上 がらん での難点は、伽藍地北側に配置する決まりがあったわけではないが、これまでは伽藍の北 側でみつかっている。 府 国 案Ⅱ寺院。三軒家地区のあたりに寺院があったことは、『出雲国風土記』に記載され 宦ていないが、採集された瓦の年代は八世紀中頃である。『風土記』が完成した天平五年 ( 七三三 ) よりも後になって、ここに瓦葺きの寺が建立された可能性も残る。ただし、出 2 雲国分寺と尼寺のすぐ近くに国分寺創建頃にもう一つ寺を建てたということは考えづらい

2. 出雲国誕生

国分僧寺に居を移したとみられていた。安芸国分寺では僧坊北側に大型建物がみつかり、 その付近から国師院 ( 講師院 ) にかかわる墨書土器「国師院ーが出土し、大型建物は国師 むさし の館とみられる。関東地方の上総国分寺、下総国分寺 ( 千葉県 ) や武蔵国分寺 ( 東京都 ) 、 しもつけ 下野国分寺 ( 栃木県 ) でも僧坊北側で大型建物や講師院にかかわる墨書土器「講院ーがみ ひさし つかり、講師院 ( 国師院 ) とされている。廂をもつ大変立派な建物で、発掘調査で周辺 から緑釉陶器などの高級食器が出土することが多い。特に下野国分寺では、講師院 ( 国 師院 ) だけでなく、その西側から「讀院」と記載された墨書土器が出土して、講師院の西 側に讀師院が想定されている。 出雲国分寺にも国師院や讀師院があり、国師らは出雲国内の寺院や僧尼の監督にあたっ すけのたち ていた。出雲国府では地方官である国司の介館が、廂をもっ立派な礎石立ちの建物で、 瓦葺きの建物も含まれていたことが明らかになっている。おそらく出雲国分寺に置かれた 分国師の館も同じような施設であったとみられる。 山陰諸国の多くの国分寺でわかっているのは七堂伽藍の範囲であり、寺の運営施設は、 従来想定されている外側に置かれた場合も多かったと想定されるので、今後の調査が期待 される。 り・よ′、ゆ、つ

3. 出雲国誕生

物で構成され国司館の格式の高さを示している。多賀城 ( 陸奥国府 ) の山王遺跡や下野国 府の国司館では、国庁が衰退する一〇世紀前半代に大規模な廂付建物が造営されており、 国司館が儀礼や政務の場として国庁に代わる大きな役割を担うようになっていたことをう かがわせている。また、国司館は国司の経済活動の拠点としての役割も果たしていたとみ られる。 国司の人数は国の格によって異なり、出雲国は上国であり、中央から派 出雲の国司館 遣された国司はそれぞれに館をもつので、出雲国であれば国府に一〇カ 所ほどの館があった。出雲国府からはまだ長官の国守の館はみつかっていないが、国庁の 北側にあたる大舎原地区において、次官の介館がみつかっている。塀に囲まれたなかに、 る南を向いて大型建物が東西に二棟並び、周囲からは付属の建物もみつかっている。「介」 さと記された墨書土器が高級食器の緑釉陶器とともに出土し、ここが介館であった。なお、 建出雲国府の復元模型で、長官である守の館は国庁のすぐ西側に苑池をもっ立派な屋敷とな の 庁っている。 おうみ 国司館も国によっては屋根を瓦葺きとして立派にする例が、近江国府や下野国府でみつ かっている。出雲国府の国司館からも国庁や国分寺と同じ瓦がみつかっており、格式の高

4. 出雲国誕生

248 この原稿を書いている最中に、松江市から朝酌町で古代道路が出ているとの情報が入っ た。現地でみると、これまで推定されていた多賀神社近くの丘陵上において、古代道路で よくみられる波板状凹凸面や道路側溝が出ていた。道幅ははっきりしないが、直線的な道 ちゃうすやま 路跡で南側をみると国府北側の茶臼山が正面に位置していた。これが枉北道であることを 確信した。はじめて国府の十字街から島根郡家を経て、千酌駅に向かう道路がみつかった のである。道路跡がみつかった丘陵を北側に降りると大橋川があり、今も矢田渡し乗船場 として両岸を小型船で結んでいる。まさに、ここが『風土記』に朝酌渡と記された場所で あった。 隠岐渡の千酌駅は松江市美保関町千酌浦にあたり、『風土記』の記載から浜の南方に想 しんで 定されている。その推定地が修理田遺跡で、今の海岸から八〇〇麕ほど南方の内陸に位置 すえき し、明確な駅家の建物はみつかっていないが、須恵器の獣脚や托という特殊な遺物が出土 なかどの し、近くの中殿遺跡から木簡も出土している点から、付近に駅家などの役所が存在してい たとみられている。このほか、注目できることは付近から古代にさかのばる瓦が採集され、 かんが 寺もしくは官衙の屋根を飾っていた点である。 古代では瓦は寺院もしくは官衙の一部でだけ屋根に使用された。地方官衙の瓦葺き建物

5. 出雲国誕生

てつばつがた ち ) の場ともなっていた。そのために、国庁周辺では仏教に関わる鉄鉢形土器などが出土 することが珍しくなく、出雲国府でも出土している。国内の安定強化のために仏教が重視 されていたのである。 出雲国府の創設は、考古学的な発掘調査の成果によれば七世紀後半に 出雲国府の創設 さかのばり、役所に特有な大型の掘立柱建物がみつかっている。初期 の建物は出雲国府でなく意宇郡家 ( 七世紀代は評家 ) とみる意見もあるが、筆者は出雲国 府そのものの施設とみている。 あすか 出雲国府—期は、藤原京期 ( 六九四 5 七〇一 ) 頃か、それより少しさかのばり、飛鳥に 都が置かれた頃にあたる。そのため、奈良時代以降の建物が真北を向いているのに対して、 地形に沿ってやや斜めを向いているという特徴がある。こうした地形や道路などに沿った 姉斜め方位の建物は、七世紀後半に建設された地方の役所ではよくみられる。—期の建物は ろくしょわき 六所脇地区で確認され、建物の向きがやや振れた二棟の建物 ( SB18 こ 9 ) が東西に並んで 方みつかっており、建て替えがなく短期的だった。建物配置は明確ではないが、初期の国府 の中心的な建物だったとみられる。この時期の建物は六所神社近くでみつかっているだけ であり、官衙としての機能はそれほど整っていなかったようである。

6. 出雲国誕生

大規模な直線道であることが明らかになっている。道幅が広い理由は大量の軍隊を迅速に 移動させるためと、国家の威信を示すためである。一方で、平安時代に道幅が六程度に なることは、広い道路の維持管理が困難なために縮小したとみられる。官道である駅路は 直線にこだわった道路であり、低い丘陵は切り通し谷を埋めることが特徴である。 国出雲国内を通過する山陰道についても、幅が九ほどの広い道路であることが発掘調査 で明らかになっている。松江市斐川町松本古墳群でみつかった山陰道跡は丘陵を切り崩し て直線を志向し、幅は一〇ほどあった。 すぎさわ 出雲市斐川町杉沢遺跡でみつかった山陰道もそうした特徴をよく一小している。出雲市杉 沢遺跡では、工業団地の開発に先立っ発掘調査によって尾根上を大規模に造成してつくら れた幅九麕ほどの山陰道跡がみつかっている ( 図。ここは『出雲国風土記』に「神名 、つしろだに ぶつきようざん / / トル メー ) の北麓にあたり、西に進むと出雲郡家の後谷 火山ーと記された仏経山 ( 標高三六六 こ、つじんだに おの 遺跡・小野遺跡にたどり着く。銅剣三五八本の出土で知られる荒神谷遺跡が近くにあると いった方がわかりやすいかもしれない 発掘調査前から、ここには筑紫街道と呼ばれる道路の伝承が残り、近世の村絵図に東西 方向に延びる道は「筑紫海道」と記載されていた。道路は尾根頂部を削り斜面部に盛り土

7. 出雲国誕生

、キ。 ) ごとに駅家を置いた。駅家は、緊急情報の伝達などにあたる駅使らに駅馬や食事を 提供する、通信や宿泊施設として機能した。駅家ごとに置かれた駅馬の数は、大路の山陽 道が二〇匹、中路の東海道と東山道では一〇匹、そのほかの山陰道・西海道・南海道・北 えんぎしき 陸道は小路とされ五匹すっと規定されていた。駅家は律令の施行細目を定める『延喜式』 という平安時代の文献に記載されている。 出雲国内には、東西に走る正西道沿いに五駅と隠岐への一駅あわせて六駅が置かれてい た。駅家の推定位置はほばわかるのだが、残念ながら施設そのものはみつかっていない。 そのなかで、『風土記』に「狭結駅。郡家と同所にある。ーとあり、駅家は神門郡家と同じ こしほんご、つ 場所にあった。郡家は神戸川左岸の古志本郷遺跡 ( 出雲市古志町 ) でみつかっている。そ の西側に、正西道は走っていたようで、付近からも掘立柱建物群がみつかっており、こう 正した建物の一部は駅家の施設だった可能性もある。 ここでは、掘り出された正西道の実態をみておくことにする。 杉沢遺跡の正西道 発掘調査によって、駅路は奈良時代には幅が九 5 一五麕と広く、平 安時代に入ると六程度に狭まる傾向があることが全国的に知られている。かって古代の 道路は道幅が狭く地形に沿って曲がりくねった道と考えられていたが、各地の発掘調査で

8. 出雲国誕生

の出雲臣弟山が南新造院 ( 四王寺跡 ) を国府近くに建立し、引き続いて国分寺・尼寺が創 建されていくなかで、出雲国内の有力者は積極的に仏教を導入し寺院造営が活発化してい 場くのである。 の 古代においては、郡家の近くに郡司層を中心とする豪族が建立した寺が 祈 仏と神の世界 ともなう場合が多いことはよく知られており、仏教と郡家や郡司層との 強い結びつきが読み取れる。加えて、寺だけでなく郡家の近くで祭祀を行った遺跡が各地 むぎ でみつかるようになっている。代表的な例としては、岐阜県関市の武義郡家があり、ここ では郡家の弥勒寺東遺跡と弥勒寺跡の西側にあたる弥勒寺西遺跡で木製祭祀具や墨書土器 がみつかり、ここで水辺の祭祀も行われていたことが明らかになっている。 出雲郡内の青木遺跡でも、奈良時代の神殿とされる建物跡がみつかっており、この近く からは山代郷南新造院と同笵の軒丸瓦が出土し、今も大寺薬師に平安仏が残されている。 みたみ 『風土記』によれば付近の美談郷には「正倉。が設置されていた。青木遺跡一帯には郡家 関連施設の正倉が、神社や寺といった宗教施設と一体となって展開していたのである。秋 鹿郡においても、秋鹿郡家と常楽寺遺跡、秋鹿社は近接しており、地域支配を行う上で寺 や社という宗教施設の役割は大きかった。

9. 出雲国誕生

た。最近、国府南方の鳥居地区の発掘調査によって、山陽道とそこから分岐して国府中枢 2 2 部に向かう古代の道路跡がみつかった。これまでも都から大宰府に向かう山陽道の道路跡 観については、各地でみつかっていた。その一方で、山陽道諸国の国府そのものの実態は不 みまさか 明で、中枢官衙施設が確認されているのは美作国府と備後国府だけであり、国府の「十字 国街、や付近に置かれたと推定される駅家なども不明な状況にあった。 出 こうしたなか、備後国府跡鳥居地区において、山陽道が想定されていた場所で東西方向 に延びる大規模な道路跡 ( 幅一二麕ほどか ) と、そこから北側の国府中枢部に向かう幅六 麕ほどの道路跡が分岐している地点が発掘調査によって明らかにされた。山陽道の南側は 調査かされておらず、分岐点が字路か、十字路かはわかっていない。 この分岐点から北にまっすぐ延びる道路は、北方六〇〇麕付近の備後国府跡の砂山地区 こくしかん に向かう。砂山地区は国司館であるツジ地区のすぐ西側にあたり、奈良時代中頃の瓦がま しもつけ とまって出土し、国庁が想定されている。おそらく下野国府で明らかにされたように、鳥 居地区の分岐路は国庁に向かう道路であろう。備後国府の場合も出雲国府と同じく、周辺 の官衙施設や寺院は正しく東西南北を向いている一方で、周辺の条里地割は山陽道を基準 とし、やや傾いていた。今回、備後国府でみつかった山陽道は条里地割と同じ方位をとっ

10. 出雲国誕生

遺跡である。神門川の拡幅工事のために行われた発掘調査によって、郡庁がみつかってお 建物の向きから二期に大別することができる。 郡庁—期の建物は大きく斜めに傾いた振れをもち、長さ二〇麕以上の建物が字形に配 置されており、長い建物を口の字形に配置した約五〇四方の区画の一角にあたる。こう いわみ した建物の方位は石見に続く山陰道 ( 正西道 ) に沿っているためである。その後、Ⅱ期に は真北に建物の方位が変わる。先に紹介したように、出雲国庁でも斜めに向いた建物が後 に東西南北を意識して正方位になることと軌を一にしたものであろう。郡庁周辺には数多 くの掘立柱建物群がみつかっており、正倉や館、厨などの建物であった。 出雲国の場合、『風土記』記載から、国庁・郡家・駅家・軍団が一カ所にまとまって官 衙群となっていた。各地の発掘調査によって、そうした官衙群の実態が明らかになってき 家ている。出雲国外の様子もみておく。 し、もつけ ちょうじゃがたいら 郡 の 栃木県長者ケ平官衙遺跡 ( 那須鳥山市 ) は、下野国芳賀郡北部に 国 各地の官衙遺跡群 あり駅路の東山道と郡家間を結ぶ道路が交差する付近でみつかった 出 官衙遺跡である。実際に、東山道と郡家間をつなぐ道路が交差する地点が発掘調査され、 十字路となっていることが判明している。七世紀末から八世紀初め頃に新設され、九世紀