引地方の古代都市 出蕓国府・・了 説〇。・ 冖出雲国分寺跡附古 三軒家説 」一竏家一 夫敷説 年 ( 一九二六 ) の『島根県史』のなかで、 ふしき 出雲郷にある字「夫敷ーを「府敷」と理解 し、上夫敷を出雲国府、下夫敷を意字郡家 と考えた。 一方で、地名を基にした東出雲町の夫敷 一「ツ 3 認て、『風土記』の再検討によ。て 在朝山晧が昭和二十八年 ( 一九五三 ) 庁「出雲風土記に於ける地理上の諸問題ーと いう論文で大草町西端説、次いで出雲国分 いしだ、もさ′ . 、 寺の発掘調査にあたった石田茂作が竹矢町 ) ( 図三軒家説を発表した。石田は出雲国分寺の 南門からまっすぐ南に延びる天平古道の延 長にあたる、三軒家付近の字名が「丁ケ 坪」であることから「丁ーを国庁の「庁」 と解釈した。昭和三十七年には郷土史家の ・岡山古墳 : 二 1 ロ
測したい。木本雅康も、国分寺の参道である「天平古道」は、そのまま南下して駅路と連 絡していたとみている。国分寺が山陰道のような駅路に面して建立される場合、参道はま っすぐ駅路に延びて接続するとみた方が自然であろう。 古代道路の特徴は、大規模で直線を志向する点にあることはよく知られており、丘陵も の 国迂回せず切り通して直線的に造作されており、各地の発掘調査によっても確認されている。 出 前述したように、出雲国内でも松江市松本遺跡において丘陵を迂回せず切り通して直線的 に通すように作道されている。また、『出雲国風土記』によれば、山陰道の野城橋は長さ 一、幅七・七麕と大規模だった。やはり、三軒家付近は意宇川の旧河道があって湿 出雲国分寺から延びる「天平古道ーは、正西道に 地状になっていても盛り土などを行い、 接続していたように思われる。 現在、意宇平野では古代の山陰道は小道となって名残をとどめる一方、出雲国分寺参道 の天平古道は三軒家で行き止まりとなっており、その先は水田と化している。天平古道と 正西道が接続していたあり方が変わり、三軒家の南側が参道としての利用が途絶え水田と 化したのはいっ頃かが、意宇平野の歴史を考える上で問題となる。 この手がかりは出雲国分寺の法灯がいっ頃まで続いたかと関わる。最近の研究によれば、
245 官道と国府・駅 され、十字街を中心に官庁街が形成される。この時期は国分寺創建前であり、国分寺周辺 と三軒家地区周辺に山陰道を基準として条里地割が施行される。八世紀中頃に出雲国分寺 が意宇平野北側の丘陵裾に建立され、その参道として天平古道が水田の条里地割を壊し、 三軒家地区を通り抜けて山陰道に接続する。この頃には、三軒家地区にも出雲国分寺・出 雲国府と同じ瓦を屋根に葺いた建物が建てられていた。出雲国分寺から山陰道に延びた天 平古道は、一三世紀以降、国分寺が廃絶していくなかで山陰道との接続付近が水田と化し ていったとみられる。
239 官道と国府・駅 ・第ッド寧まなメ第をミこ気新い , 、 国史跡に追加指定されている ( 図肪 ) 。現 在、天平古道をまっすぐ南に行くと、周囲 の水田よりも三軒家の集落がやや微高地と なり、ここで道は突き当たりになり、古代 姑の山陰道が推定される地点まで延びていな しかし、今と同じように天平古道がこ の三軒家付近で突き当たりとなっていたの であろうか。都と出雲を往来する役人や 国人々にとって、出雲国府の意宇平野でもっ 出ともシンボリックな建物は、やや小高い丘 肪陵裾に建つ出雲国分寺の七重塔をはじめと する堂塔であったろう。出雲国府を行き交 、つメインストリートである、山陰道からま っすぐ国分寺南門に延びる天平古道は、そ うした威容を示す上でも必要であったと憶
出雲国分寺は古代末の一二世紀代まで続いていたことが明らかにされており、これ以降の 中世から近世にかけて天平古道の三軒家地区南側においては道路としての機能がなくなり 水田と化していったのであろう。 三軒家地区は石田茂作が国庁所在地として推定していた地点である。石田 三軒家地区 は出雲国分寺南門からまっすぐ延びる天平古道沿いにあたる、三軒家付近 とは何か の字名が「丁ケ坪ーで、この「丁」を国庁の「庁」と解釈した。後に、国 庁は六所神社付近でみつかっていることから、ここに国庁は考えがたいが、その一方で、 採集資料のなかに出雲国分寺創建期の軒平瓦があり、この一帯に官衙施設が存在した可能 性が指摘されている。 出雲国分寺の瓦は、寺院のところで述べたたように、近くの出雲国分寺瓦窯跡群の製品 がおく 駅 であり、国府が直接、瓦生産に関与した国衙系瓦屋である。こうした国府が瓦生産を行っ 府 国た瓦窯の製品が出土する、三軒家地区はどのような性格をもっていたのであろうか。これ ~ 呂までまったく発掘調査が行われていないために、建物などから考えることができない 般に、国衙系瓦屋の製品は、国府と国分寺に供給されるほか、在地の有力者が建立した寺 しよ、つカくじ 2 院のなかでも、定額寺とされたような準官寺に供給されることが多い。出雲国分寺瓦窯
、それを契機として官衙の移転を含めた整備が進められたものとみられる。 『出雲国風土記』や『常陸国風土記』記事にみられる郡家の移転は、たんに官衙施設が 移転したというだけでなく、国府が設置され行政の新しい支配システムに対応するために、 交通体系の整備とともに郡家をはじめとする官衙施設が国府近くに設置されたことを示す の 国と評価できる。 出 八雲立っ風土記の丘展示学習館にある、意宇平野における出雲国府の復元 天平古道と 模型をみるたびに、よくできていると感心している。なかでも出雲国分寺 三軒家地区 は意字平野の条里地割を壊し、国分寺創建の八世紀中頃以前に条里施行が 行われたことがわかる復元となっている。条里は正西道 ( 山陰道 ) を基準に施行されたと みられ、一方で、出雲国分寺は正方位を志向して真南を向いて建設されており、条里とは 三度ほど振れが異なることが明らかである。意宇平野の条里地割が山陰道を基準に行われ、 国分寺創建以降に条里地割の上に参道が造作されたことが一目瞭然となっている。 ただし、国分寺周辺の復元で疑問に思う一つは、出雲国分寺から延びる「天平古道」と 呼ばれる参道が三軒家付近で突き当たりになり、正西道に直接、接続しないことである。 つけたりこどうあと この参道は、幅約六の礫敷の道路として発掘され、出雲国分寺の「附古道跡ーとして れき
案Ⅱ豪族の居宅。八雲立っ風土記の丘展示学習館の出雲国府の模型では、三軒家地区 の場所は豪族の館として復元されている。周囲の水田よりもやや高く、国府、国分寺・国 いすものおみひろしま 分尼寺、古代山陰道や意宇川からもよく目立っことから、出雲国造輩出の出雲臣広嶋系統 道の新しい本拠としてふさわしい場所と想定し、ここに出雲臣の居宅を復元している。魅力 国的な説であるが、地方の有力者の居宅で瓦葺きの建物がみつかった例がないのが難点であ 出 る。 三軒家地区の性格については、 いくつかの可能性が考えられる。すでにみつかっている 介館と同じように、出雲国分寺瓦窯跡群の瓦が供給されている点からみると国司館だった かもしれないが、よくわからない。いすれにしても、国庁説があったように意宇平野のな かでみると、水田として利用された条里地割のなかでわずかに高くなっており、その前面 の南側に山陰道が東西に走り天平古道を通して国分寺に向かう要衝地である。歴史考古学 の碩学であった石田茂作が、ここに国庁を推定したのは理解できる場所である。 天平古道は国分寺の参道である。天平古道と山陰道との接続、条里地割との関係や三軒 家地区の実態を考える上でも重要である。次のような変遷を考えている。 ます、意字平野に国府が設置される七世紀末頃に駅路の山陰道や隠岐道が直線的に整備
やましろごうみなみしんぞういん 跡群の瓦も、出雲国分寺と国府に供給されているほかに、国府近くの山代郷南新造院 2 しわじ 2 ( 四王寺跡 ) と山代郷北新造院 ( 来美廃寺 ) からも少量出土し、屋根の補修などに用いられ ている。 AJ 今のところ、次のような可能性がある。 道 の 国 < 案Ⅱ国府の官衙施設。この場合、国庁を除くと、行政実務を執行する実務的な役所、 出 国司が宿泊する国司館が候補となる。各地の国府で瓦葺き建物を採用する施設としては、 すけのたち まず国庁があげられる。次いで、出雲国府の大舎原地区で介館 ( 次官の館 ) がみつかり、 ここからは三軒家地区と同じ出雲国分寺創建期の瓦が出土している。一方、実務的な役所 の場合、掘立柱建物が主体であり、瓦が出土することは少なく、建物は瓦葺きを採用しな いことが通例である。出雲国府においても、国庁北側の実務的な施設には瓦葺き建物はな かったようである。他国の国府でも、実務的な施設で瓦葺き建物が特定できるような例は、 これまでのところみつかっていない。したがって、国府関連施設の場合、国司館の一つだ った可能性がある。 こくしいん 案Ⅱ国府関連施設で国分寺に関わる国師院。三軒家地区は出雲国分寺南門からまっす ぐ延びる天平古道に接続した微高地であり、国分寺と近接している。出雲国分寺創建瓦が くるみ
守に任じられたために同行して暮らした。講演を依頼され、事前に越前市の武生駅近くに あったとされる越前国府の状況を知ろうと思い現地を訪ねたが、都市化が進んでおり古代 国の越前国府をイメージすることは難しかった。越前国府の場合、中世以降も府中となり近 咄世には府中城が築かれ、現代にいたるまで中心地の一つとして市街化がすすんでいるため 現である。 姿出雲国府は、『風土記』に記された神名樋野 ( 茶臼山 ) が横たわり、意宇平野には十字 街が細い道路の交差点として残る。周辺は水田となり官庁街であった面影はないが、古代 における周辺の景色をイメージすることはできる。 『風土記』に「至国庁・意字郡家」と記載された出雲国府は、その所在 ニつの国庁碑 が不明となっていた。近世以降に『風土記』の内容が検討されるなかで、 出雲国府の位置も松江市東出雲町や大草付近にあると推定されるようになったが、その所 在地は発掘調査によって大草町の六所神社付近で確定するまで、この大草町とみるほかに 松江市東出雲町 ( 夫敷説 ) や松江市竹矢町 ( 三軒家説 ) とする説などがあった ( 図 5 ) 。 きしざきときてる 古くは松江藩士であった岸崎時照が天和三年 ( 一六八三 ) の『出雲風土記抄』で、国庁 は東出雲町出雲村 ( 郷 ) とした。この東出雲町説が受け継がれ、野津左馬之助は大正十五
とした甍棟だったと考えられる。小野遺跡も鴟尾が出土し、大棟だけを瓦葺きとしてい たのである。小野遺跡は寺ではなく、出雲郡家の郡庁の可能性もあると憶測している。 一方で、近くの三井Ⅱ遺跡で焼かれた奈良時代初めの瓦は、小野遺跡出土瓦と異なり供 給先はわかっていない。まだみつかっていないが、三井Ⅱ遺跡や小野遺跡と同じ瓦が河内 郷内で出土する地点が『風土記』に記載された新造院だったのであろう。考古学的には、 出雲郡河内郷の新造院は天寺平廃寺ではなかった可能性が高く、別の未明の寺院であった と理解できる。 三井Ⅱ遺跡で焼かれた軒瓦は、出雲郡河内郷の新造院 ( 未発見 ) に葺か 備後国寺町 れていた可能性が高い。ここで焼かれた軒丸瓦は、山陰では数少ない瓦 廃寺との関係 当下端部に三角状突起をもち、いわゆる水切り瓦と呼ばれる。広島県三 次市の寺町廃寺を中心に長期間にわたって生産されている。特異な形状とともに、備後国、 あき 国備中国、安芸国、出雲国に分布が限られていることからも注目されてきた。 咄寺町廃寺は備後国北部の中核的な寺院であり、『日本国現報善悪霊異記』記載の三谷寺 と推定されていることからも、地方における寺院と仏教の受容のあり方を考える上で重要 な資料とされてきた。『日本国現報善悪霊異記』は、一般に『日本霊異記』として知られ 一三ロ いらかむね